津山線の誕生寺駅を降りて、向かうのはその名も誕生寺。国道53号線の脇道の集落に沿って歩く。途中にはサボテンや食虫植物などを扱う店があるが、店頭に掛けられた温度計は36度を指している。こんな暑い日に寺参りなどしなくても・・。
この店の角を左折するとあとは一本道である。津山線のガードをくぐると、念仏橋というのがある。これから目指す誕生寺とは、浄土宗を開いた法然の生誕の地に建つ寺である。その法然に弟子入りした熊谷次郎直実(一ノ谷の戦いで平敦盛を討ち取ったが、後に出家した)が法然自作の像を背負ってこの地にやって来て、法然の生家の館を目の前にして感激に号泣して、橋の上で念仏を唱え続けたという。念仏橋の名前はここからついたし、この館の地に誕生寺を開いたのは直実である。
観音霊場めぐりで浄土宗の、その中でも由緒ある寺に来るとは意外である。だから特別霊場というゲスト扱いなのだろう。
「南無阿弥陀仏」と大きく書かれた塔があり、その奥には娑婆堂という地蔵堂がある。六地蔵が祀られていて、中国三十地蔵尊霊場の第1番とある。観音霊場と同じように岡山から始まって中国地方をぐるり鳥取まで回る巡拝ルートである。
山門に着く。先ほど地蔵めぐりに触れたが、誕生寺は他にも法然上人二十五霊場の第1番、山陽花の寺二十四寺の第12番と、なかなか手広い。
まずは法然が植えたとされるイチョウの木を見て、正面の本堂に上がる。この本堂に祀られているのは法然が自作して、熊谷直実がここまで背負って来たとされる法然上人像である。そのためか、寺のほうでは御影堂と呼んでいる。法然上人像は厨子のガラスの向こうに安置されていて、穏やかな表情をしている。ちょっとここではいつもの般若心経のお勤めは違うようでどうしたものかと思うと、厨子の前にいくつもの木魚があり、これを叩きながら南無阿弥陀仏と唱えてくださいとの貼り紙がある。その通りにて何べんか念仏を唱える。
誕生寺は先に書いたように熊谷直実が開いたが、元々は法然の生家、漆間時国の館の跡だった。本堂の奥には父母の像も祀られている。
法然が9歳の時、父の時国が他の武士から襲撃されて命を落とす。亡くなる前に法然は父の仇を討つことを誓うが、時国はそれを戒める。例え仇を討ったとしても、それがまた新たな憎しみと仇討ちの連鎖になるとか。その後法然は人の道を求めるために菩提寺で勉学に励み、やがて勧められて比叡山に学ぶことになった。
そして美作から比叡山に旅立つ時の法然と、その無事を祈る母の像が境内に建てられている。その後浄土宗を開くに至るのだが、その辺りはいろいろ参照いただくとして、ここでは割愛する。
本堂から見て左手(山門から見て右手)に阿弥陀堂がある。最近建てられたもののようだ。こちらには阿弥陀如来が祀られている。
本堂の奥に進むと勢至堂がある。勢至菩薩を祀るとともに、法然の両親の霊廟でもある。なお法然の幼少期の名前は勢至丸と呼んでいた。
法然の産湯の井戸もある。大きな柄杓で汲めるが、生水では飲まないように煮沸してとの注意書きがある。
境内を抜けると、小川に沿って歌碑が並ぶ散策路が伸びている。夏の夜はホタルも見られるそうだ。ただこの先に行っても他になさそうなので引き返す。
さて、中国観音霊場なら観音菩薩はどこかというところだが、これは本堂から見て右後ろ、勢至堂の手前にある。別に存在に気づかなかったわけではなく、最後にお参りしようということだ。
祀られるのは聖観音像で、「お七観音」とも呼ばれている。「お七」とは、江戸時代から歌舞伎やドラマまどの題材にもなっている「八百屋お七」のこと。浄土宗の名刹ではあるが、なぜ美作の誕生寺で八百屋お七なのだろうか。生まれがこちらとか?
八百屋お七は別に美作の生まれではなく、江戸の八百屋の娘である(八百屋といっても横丁の八百屋というよりは、大名家にも納品していた大店だったようだが)。江戸で大火事があり、家も被災したのでしばらく寺に身を寄せていた。そこでお七は寺の若い僧と恋仲になった。
やがて再建された家に戻るが、お七は僧のことが忘れられない。そこで、もう一度火事になればまた逢うことができると思い込んだ末、自宅に火をつける。これはボヤで済んだが、お七は捕らえられて奉行所で裁きを受けることになった。
当時も今も放火は大罪で、当時は火あぶりの極刑とされていた。ただし少年法の精神は当時もあったのか、15歳以下なら罪一等減じて島流しだったそうだ。お七はちょうど16歳になったばかりだったが、奉行は不憫に思い「15歳であろう?」と誘導尋問する。しかしお七はかたくなに、正直に16歳だと主張し、奉行もやむなく市中引き回しのうえ火あぶりとした。
この事件がワイドショー的に江戸の人たちに広まり、井原西鶴の作品にも取り上げられ、後に歌舞伎や浄瑠璃の題材になった。演出はいろいろあり、中にはお七は放火をしておらず、火事があった時に振袖姿で半鐘を叩いて恋人に危機を知らせたというものもある。
その後、誕生寺の法然上人像の出開帳が江戸で行われることがあった。その時、お七の遺族が「弔ってほしい」と誕生寺の住職に頼んだという。やはり江戸で弔うことは憚られたようだ。住職はお七の位牌と振袖を預り、誕生寺の観音堂に一緒に祀った。これがお七観音と呼ばれる由来である。
その位牌と振袖は本堂で保存されているが、振袖もボロボロである。明治時代に大阪で開かれた博覧会に出したところ、お七の美貌にあやかろうとか、恋のまじないとか、はては火の用心とかで振袖をちぎる人たちが相次いだという。今なら考えられないが・・・。
ともかく誕生寺が中国観音霊場の特別霊場になっているのはこのお七観音があるためだろう。こうした由緒があることに触れたことも勉強になる。
納経所に向かう。いろいろな札所になっているためか朱印のサンプルもさまざまだし、浄土宗関係から観音、地蔵めぐり関連までさまざま置かれている。納経帳を出すと「観音様ですね」と、大悲殿の墨書をいただく。
誕生寺をいろいろ回り、再び歩いて駅に戻ると次の津山行きまで少し時間があるところ。しばらく駅のベンチに腰かけて列車が来るのを待つ。
12時58分の津山行きに乗り込む。またもボックス席を占領である。この先津山では次の列車まで1時間ほどの待ち時間となるが、その合間を利用して、せっかく津山に来たのだからということで、あるスポットを訪ねることに・・・。
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