まつなる的雑文~光輝く明日に向かえ

まつなる兄さんのよしなしごと、旅歩き、野球、寺社巡りを書きます。頼りなく豊かなこの国に、何を賭け、何を夢見よう?

第19番「青蓮院」~近畿三十六不動めぐり・33(青不動はいずこに・・)

2019年04月02日 | 近畿三十六不動
平安神宮に参詣する。応天門をくぐり広大な境内に出る。
 
「平安」の名から昔からの神社と思うところだが、平安神宮が建てられたのは1895年のこと。平安遷都1100年の記念事業として京都で開かれた内国勧業博覧会の目玉として、かつての大内裏を復元したものである。祭神は平安京を開いた桓武天皇で、後には京都最後の天皇だった孝明天皇も加えられた。
 
大極殿を復元したとされる外拝殿の前には、右近の橘、左近の桜が植えられている。左近の桜は見頃にはまだ早そうだ。
 
平安神宮は神社ではあるがかつての平安の栄華を疑似体験できるスポットと言える。もっとも、平安京が華やかだった時期というのはわずかなもので、歴史を振り返ると戦乱に巻き込まれていたり、権力闘争の舞台だったりと、ドロドロしたものを感じる。それでも京都は1200年以上の歴史を持つ街として、国内外から多くの観光客を引き付け、神社仏閣にも大勢の人が参詣する。何とも不思議な、底の深い街である。
 
さて、この日のメインはあくまで近畿三十六不動めぐりということで、平安神宮の大鳥居をくぐって南下する。リニューアル工事中の京都市美術館の前を過ぎる。平成31年度(令和元年度?)中のリニューアルオープンに向けての大がかりなもので、外のフェンスには美術館のあゆみが紹介されていた。実は一度も訪ねたことがなく、リニューアルオープンしたら一度は行ってみようかと思う。
 
そのまま直進して三条通を渡り、知恩院の手前が青蓮院である。こちらもいわゆる門跡寺院である。
 
青蓮院は元々比叡山の小さな房が発祥で、平安後期に藤原氏の出である行玄僧正の時に門跡寺院として都に下りてきた。現在の地に移ったのは鎌倉時代で、歴代の門主には「愚管抄」を著した慈円や、室町6代将軍・足利義教の名前も並ぶ。義円という名前で天台座主も務めたこともあるが、次の将軍を決めるくじ引きで当たったことで還俗して将軍になったという人である。くじ引きで将軍というと安っぽく聞こえるが、くじ引きとはそもそも宴会の幹事を決めたり、札所めぐりで次に行く寺を決めたりという安直なものではなく、それこそ神意を問う儀式だったとされる。明治だったかな、元号をくじ引きで決めた例もある。
 
さて拝観ということで入る。門跡寺院の常として、寺にお参りというよりは屋敷に上がる、上げさせていただく感覚である。
 
寺の中で最も大きいのが宸殿。御簾で囲まれ、玉座も再現されている。
 
庭園も残されている。なお、青蓮院には「粟田御所」の呼び名もある。江戸中期に都で大火があり、御所も炎上した。当時の後桜町上皇が避難して仮の御所としたのが青蓮院だったそうだ。
 
宸殿や小御所の奥に本殿がある。不動明王像が祀られているが・・これは近畿三十六不動めぐりの対象ではないという。
 
青蓮院の不動明王とは、「青不動」を指す。青、赤、黄、白、黒の五色の不動明王があり、青不動(青蓮院)、赤不動(高野山明王院)、黄(三井寺)、白(目白不動)、黒(目黒不動)と分かれる。特に青、赤、黄は「三不動」として高いステータスを持つ。
 
で、三不動の一つの青不動だが、ここにはいない。・・正しくは、この境内には祀られていない。それは張り紙もあるし、玄関受付の人も注意していた。
 
青不動、実は青蓮院の飛び地にある「将軍塚青龍殿」に安置されていて、その青龍殿では複製画が御前立ちとして祀られている。青龍殿へは三条駅からの循環バスに乗るか、京都トレイルを歩いて上るかで行くことになる。
 
一応青蓮院の近畿三十六不動めぐりの朱印は受付でいただいたが、対象の不動明王が山の上におわすのなら行かなければならないだろう。
 
ちなみに青蓮院の本尊は不動明王ではなく、「熾盛光(しじょうこう)如来曼荼羅」という。初めて触れる名前だが、御前立ちとして、新潟糸魚川産とされる翡翠の原石を宝珠として祀っているとある。
 
何だか複雑な歴史があるようだが、ともかくそうした旅もしてみたいものである・・・。
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