まつなる的雑文~光輝く明日に向かえ

まつなる兄さんのよしなしごと、旅歩き、野球、寺社巡りを書きます。頼りなく豊かなこの国に、何を賭け、何を夢見よう?

大阪17番「道明寺天満宮」~神仏霊場巡拝の道・108(さまざまな思い出語ります・・)

2024年08月20日 | 神仏霊場巡拝の道

今年のお盆は大阪の実家で過ごす。13日に広島から高速バスで移動し、実家に到着。昨年他界した父の葬儀以来お世話になっている高野山真言宗の寺院から届いたお札等を仏壇に飾りつけ、一応迎え火も焚いてお盆の準備とする。

翌14日、寺院から山主自ら実家に来ていただき、お盆の供養。暑い中、檀家の要請を受けてルートを決めて回ってらっしゃるが、やはり13日~16日がピークで、山主自らクルマを飛ばしても1日10軒が限度。ちょうどご子息が高野山で修行中の身とのことで、晴れて正式に僧侶となれば負担も少しは軽減されるそうだが・・。

そして15日。この日は京セラドーム大阪でのナイター、バファローズ対イーグルスを観戦する予定である。今回の帰省はお盆の法要に加えて野球観戦、そして神仏霊場巡拝の道めぐりと盛りだくさんだ(その合間に、実家で長年使っていた冷蔵庫の寿命が来たために、家電量販店での購入~納品・引取の対応というのもあったのだが・・)。

ここで神仏霊場巡拝の道のことが出たが、前回7月、消化不良気味の湖東地区、その後の善峯寺を回り、次の行き先を決めるあみだくじで出たのは和歌山6番・御坊の道成寺である。今回の機会を利用して、16日~17日にかけて海南にある和歌山7番・藤白神社とセットで訪ね、和歌山以南をクリアするつもりである。

さて15日、京セラドーム大阪に向かう前に早めに実家を出発。近鉄の藤井寺から大阪阿部野橋行きに乗るところ、逆方向の古市方面の列車に乗る。そして2駅、道明寺で下車。和歌山に行く前段として、実家近くにある大阪17番・道明寺天満宮を訪ねることにした。

実家のすぐ近くには西国三十三所の第5番・葛井寺がある。葛井寺は神仏霊場めぐりの大阪18番札所でもあり、以前正月に帰省した折に神仏霊場めぐりの朱印もいただいている。この時、同じ市内ということで道明寺天満宮にも向かったのだが、正月3ヶ日は朱印は書き置きのみの対応とのことで、札所めぐりとしてカウントしなかった。初詣で忙しい時期なのはわかるが、わざわざ札所まで行ったにも関わらず「これを何と読む!!」と言われた形でがっかりしたのを覚えている。神仏霊場めぐりでは同様の事情で複数の札所がノーカウントとなっているが、今回、神社はお盆関係ないだろうということで訪ねてみた。

道明寺は近鉄南大阪線のほか、道明寺線も発着する。現在は2両編成のワンマン列車がJR大和路線の柏原との間をのんびり行き来する路線だが、現在の近鉄の中ではもっとも古い歴史を持つ路線である。

駅前にあるのは道明寺合戦の石碑。江戸幕府と豊臣氏による大坂夏の陣での激戦地の一つで、後藤又兵衛が壮絶な戦いの末銃撃により戦死したところである。

駅前の細い道をたどると楼門に出る。道明寺天満宮は元々土師神社(土師社)と呼ばれており、相撲の祖といわれる野見宿禰が「土師」の姓とこの辺り一帯を所領として賜り、天穂日命を祀ったのが始まりとされる。仏教伝来後は神宮寺として土師寺が建てられ、土師氏から出た氏族の一つに菅原氏がある。その菅原氏から出たのが平安時代の菅原道真。言わずと知れた学問の神様、天満宮の主祭神である。

道真が大宰府に左遷される際、自身のルーツであるこの地を訪ね、土師寺にいたおばの覚寿尼にも会って別れを惜しんだという。そして道真亡き後、その霊を慰めるために土師神社に天満宮が建てられ、土師寺にも道真の号である「道明」の名前がついた。天満宮はその後あちこちに建立され、現在だと大宰府天満宮、北野天満宮、大阪(天満)天満宮が有名だが、こちら道明寺天満宮も道真ルーツの地の神社として知る人ぞ知るスポットである。

この道明寺天満宮、私個人としては懐かしいスポットである。私はここ藤井寺市出身だが、大学卒業まで過ごしたのは同じ市内でも道明寺寄りである。よって、七五三のお参り、初詣、受験の合格祈願・・などでちょくちょくお参りに来ていた。また梅のスポットとして知られており、梅の時季には境内に多くの露店も出ている。・・さすがにこの猛暑の中ではそうした出店はおろか、他の参拝者の姿もなかったが・・・。

今回無事に朱印をいただく。墨書は「菅原大神」。

境内の一角には、近所の古墳から出土した修羅の復元展示がある。現在世界文化遺産に登録されている百舌鳥・古市古墳群だが、巨大古墳にも使われた大きな石をどのようにして運んだのかを示す貴重な史料として、出土当時はブームにもなった。

また一角には土師社があるが、その手前にある手形は藤井寺市出身の元幕内・花ノ国のものである。初土俵から新入幕までの場所数は当時でも何番目からのスロー出世だったが、新入幕を祝う新聞記事や幕などが当時私が通っていた中学校に掲げられていたと思う。校長よりも教頭が朝礼の挨拶でうれしんでいたように思う。

花ノ国は三役まであと一息の前頭筆頭まで出世し、敢闘賞1回、金星1個を獲得。ただ記憶に残るのは対千代の富士戦で、千代の富士が大鵬の記録を抜いた46連勝目の相手だったり、千代の富士の当時前人未到の通算1000勝の相手だったり・・(花ノ国は自身を「王貞治に当時世界新記録となる756号本塁打を打たれた鈴木康二朗のようなもんや」と振り返ったそうで・・)。

そういえば私の中学卒業時、同学年で大相撲に入門したK君というのがいて、大きな体格のに着物をまとった姿で卒業式に現れたのを生徒たちが取り囲んでいたなあ。花ノ国がスカウトしたかどうかは知らないが、同じ放駒部屋(当時)に入門したとのこと。卒業アルバムを見返すと寄せ書きに「東京で3年はがんばる」と書いていたと思うが、厳しい相撲の修行、それから何年持ったのかな・・。

花ノ国は引退後、襲名資格はあったが年寄株は取得せず(できず?)、四股名の花ノ国のまま若者頭として相撲協会に残っている。幕下以下の力士の指導役や(早い時間のBS中継に解説で出たこともあるらしい)、本場所の運営・進行に携わる裏方として長く貢献し、先の名古屋場所でも千秋楽のテレビ中継で各段優勝決定戦や表彰式での力士の誘導役などで目にした。

スポーツ刈りで、眼鏡をかけた恰幅のいいおっちゃんが若手力士に何やら言葉をかけているのが花ノ国その人である。ただ、さすがに65歳の定年を迎えるようで、年寄株のような定年延長、嘱託の対象外のため、退職となるのかな・・。もしそうだとしても、長く大相撲を支えた藤井寺市ゆかりの有名人として大いに拍手を贈りたい。

久しぶりの天満宮を回った後、近くにある道明寺にもお参りする。明治の神仏分離で現在は別々の寺社だが、共通しているのは菅原道真ゆかりということ。

このまま、土師氏の名前を受け継ぐ土師ノ里から近鉄南大阪線に乗車。さてこれから向かうのは・・・。

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