まつなる的雑文~光輝く明日に向かえ

まつなる兄さんのよしなしごと、旅歩き、野球、寺社巡りを書きます。頼りなく豊かなこの国に、何を賭け、何を夢見よう?

第82番「洞雲寺」~広島新四国八十八ヶ所めぐり(中世からの古刹)

2024年08月02日 | 広島新四国八十八ヶ所

広島新四国八十八ヶ所めぐり、終盤の廿日市駅前シリーズの2ヶ所目は第82番・洞雲寺。JR廿日市の橋上駅舎を渡り、北側に出る。駅前の道は、JR五日市の北口から続く道で、西広島バイパスと宮島街道の間にある生活道路。

その道路沿いに洞雲寺がある。道路の南側には洞雲寺前公園というのがあるが、おそらく昔は同じ境内だったのかなと思う。

整備された境内、山門が広がる。洞雲寺が開かれたのは室町時代。当時の厳島神社の神主(おみくじを引いて「今日~も~カ~プが勝~ち勝~ち勝っち勝ち」と申した方)である藤原教親が創建し、曹洞宗の高僧である金岡用兼(きんこうようけん)により開かれた。やはり宮島が近くなると、広島新四国八十八ヶ所の札所も長年の歴史を持つ寺院が残されている。

洞雲寺は中国地方で勢力を伸ばした大内氏、そして戦国時代の毛利氏、関ヶ原の戦い後の福島氏、広島藩の浅野氏と絶えず保護を受け、その後も地元の人たちの信仰を集めて現在に至る。

本堂にお参りする前に、門をくぐって左手の高台に上がる。ここは墓地があり墓参りの方もいたが、その奥には陶晴賢の墓がある。陶晴賢といえば大内氏の家臣だったが主君の大内義隆を討ち、大友宗麟の弟・晴英を大内氏の当主に迎えながら自身が実権を握った。そこに反攻したのが、安芸の国人領主から戦国大名にのし上がろうと立ち上がった毛利元就である。さまざまな謀略、そして奇襲もあった厳島の戦いで元就が勝利し、晴賢は自害。桜尾城での首実検の後、晴賢の遺骸が葬られたのが洞雲寺である。

境内には他に元就の四男・元清や、桜尾城主であった桂元澄らの墓もある。

さて本堂に向かう。扉も開け放たれている。広島新四国の札所は観光寺院ではないので普段は扉が閉められていることが多いのだが、こうして開け放たれているとはオープンな感じなのだなと、靴を脱いで堂内に入る。

ちょうど寺の方がいらっしゃったので会釈すると・・

「入られると困ります!」と、座禅中にピシャリとやる棒のごとく厳しい言葉を浴びせられる。

まあ、そう言われればそうなのだが、別に立入禁止の表示があるわけでもなく、おっさんの勝手な思いかもしれないがどこか釈然としない・・あ、ここの本尊は釈迦如来。

朱印はといえば、上り口のところに箱があったのでいただく。扉が閉まっていて、外に朱印の箱があるなら外でのお勤めの後に受け取れば済むことだが、本堂の障子が開け放たれ、どうぞお気軽にお参りくださいという雰囲気だったのだが・・。

改めて本堂の外でお勤めとした後、再び廿日市駅を渡って次の第83番・正覚院へ・・・。

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