まつなる的雑文~光輝く明日に向かえ

まつなる兄さんのよしなしごと、旅歩き、野球、寺社巡りを書きます。頼りなく豊かなこの国に、何を賭け、何を夢見よう?

第5回九州西国霊場めぐり~第13番「西巌殿寺」(阿蘇信仰の波乱の歴史を伝える札所)

2021年11月08日 | 九州西国霊場

今回の九州西国霊場めぐりは阿蘇~熊本シリーズ。まずは中岳の噴火の影響で草千里での折り返しとなった阿蘇を訪ね、その帰りに第13番の西巌殿寺(さいがんでんじ)を訪ねる。

阿蘇への道に面して新しい山門が建ち、そこから境内に入る。もっとも本来の正門は別にあり、昔ながらの風情を残す。

西巌殿寺の歴史は奈良時代までさかのぼる。阿蘇は古くから中岳の噴火口を中心に信仰の対象になっていたが、天竺から日本に来ていた最栄読師が聖武天皇の勅命を受けて阿蘇に上り、健磐龍命(たけいわたつのみこと)を感得したという。この健磐龍命は現在の阿蘇神社の祭神である。最栄読師は火口の西の洞窟(巌殿=いわどの)に十一面観音を祀り、絶えず法華経を読んで修行したそうだ。寺の名前はそこから来ている。その後、多くの修行者や修行僧が最栄読師のもとに集まり、今では草原、牧草地が広がるばかりだが坊舎、宿坊が建ち並んだ。

しかし、戦国時代に島津氏と大友氏の争いが起こる。阿蘇神社の宮司でありこの地を治める阿蘇氏は大友氏の支配下ということで島津氏の攻撃対象となり、阿蘇山上の建物も焼き払われ、僧侶や修行者も難を逃れることになった。

やがて豊臣秀吉の天下統一とともに、肥後に加藤清正が入った。清正は阿蘇山上の本堂を復興させるとともに、逃れていた僧侶たちを呼び戻し、阿蘇の麓の黒川に坊舎を復興させた。これにより、元の地区は「古坊中」、黒川は「麓坊中」と呼ばれ、加藤氏の後の細川氏の時代にも保護された。境内には「学頭坊跡」の立て札も残されている。

明治になると神仏分離、廃仏毀釈のために西巌殿寺は廃寺となった。その後、阿蘇山上の本堂、本尊はこの学頭坊に移され、今ではここが西巌殿寺、そして阿蘇山上に再建されたお堂が奥の院となった。

さて、その西巌殿寺だが、石段を上って境内に上がるも建物がない。大きなイチョウの木と、役行者などを祀るお堂、そして石仏群があるだけである。2001年9月、不審火によりこちらの本堂が全焼してしまったという。跡地らしきところには礎石だけが残る。これを再建しようという動きはあるのかな。

さらに、これも後で西巌殿寺のホームページを見つけて知ったのだが、阿蘇山上に再建された奥の院のお堂は、2016年の熊本地震、さらにその後の噴火や台風で大きく損壊してしまったそうだ。現在、改修のための寄付を受け付けているとのことで、寺のルーツである阿蘇山上の復興を優先しているようだ。

前回の九州西国霊場めぐりでは、阿蘇神社とともに、阿蘇にあるもう一つの札所である青龍寺を訪ねた。阿蘇神社は熊本地震で大きな被害を受けたものの、古くからの歴史を受け継ぐスポットとして知られている。一方、青龍寺は神仏分離、廃仏毀釈を受けて個人宅に引き継がれているのが実態だ。阿蘇にある二つの札所、なかなか受難の歴史を歩んでいるようだ。

本坊に向かう。ちょうど、法事か供養で訪ねて来た方と一緒になり、寺の方が玄関に出てくる。本堂がない中で、仏様を拝むなら本坊の中の仏壇のようだが、札所という感じではない。朱印だけ所望する。

結局西巌殿寺ではお勤めをすることなく朱印を受け取ったが、先ほど草千里にて中岳に向かって般若心経を唱えたということで、元来の阿蘇信仰の疑似体験として勘弁してもらおう・・・。

寺を後にして、阿蘇駅に戻る。交差点にも「坊中」の名前があった。そういえば、阿蘇駅も豊肥線の開業当時は「坊中」という駅名で、1961年に現在の駅名になった。かつて、宮脇俊三が著作の中で、観光客誘致を目的とした安易な駅名変更として嘆いていた例の一つである。ただ、「坊中」という名前だとその由来についてこれだけ長々と説明する必要がある。宮脇俊三も、なぜここが「坊中」と呼ばれていたかという歴史まで知っていたかどうか。さすがに阿蘇駅でよかったのではないかと思う。

阿蘇駅に戻る。昼食がまだだが、この先の移動を考えると本格的な昼食ではなく、列車内で何かつまむ程度になりそうだ。熊本に行くなら13時39分発の特急「あそ4号」に間に合うが、そこまで急ぐものではなく、かといって駅周辺で過ごす時間も中途半端なので、13時40分発の鈍行でいったん宮地まで行くことにする。そして折り返しの列車で肥後大津まで向かう。やはりローカル線をのんびりたどってみたい。

ホームで待つうちにやって来たのは、旧国鉄型のキハ140系。これが宮地まで行くなら、折り返しもこの車両である。もっともローカル線らしい車両に乗ることができて一人ニンマリする・・・。

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