中国観音霊場めぐりを終えたその足で、新たに「中国四十九薬師めぐり」というものを始めることにした。またしても、霊場めぐりの多重債務である。
現在、関西2府4県プラス三重を加えた西国四十九薬師めぐりは全体の7割ほど進んでいるが、他の地方にも同じように薬師めぐりがある。この中国四十九薬師めぐりが開かれたのは1997年と、まだ年月は浅い。エリアは当然中国5県にわたっており、岡山県10ヶ所、広島県12ヶ所、山口県11ヶ所、島根県6ヶ所、そして鳥取県10ヶ所と分散している。
中国観音霊場と比べてもカバーするエリアは広い。中国観音霊場の札所が中国地方の外周部にあることがほとんどだったのに比べて、こちら中国四十九薬師は中国山地の中央部にも分布している。これから向かう第1番の大村寺があるのは備中の山中の吉備中央町で、他にも津山や三次といった美作、備北の中国自動車道の沿線にも札所が点在する。今は無き三江線の沿線にもある。また一方ではしまなみ海道の島々や、日本海に突き出た半島の先端にも札所がある。
中国地方のさまざまなところを回るという意味では手ごたえがあるし、初めて訪ねる地も多い。
最初から広島を起点に回る(観音霊場めぐりの時は、前半は大阪からの出発だった)形だが、西国四十九薬師めぐりでやっている、次の行き先を決める「くじ引き&サイコロ」は行わずに、基本的に札所のあるエリア順で回ることにする。ある種の中国一周である。
また、交通手段も柔軟に考える。・・というより、クルマを使う場面が圧倒的に増えると見込まれる。そもそも、第1番の大村寺からして公共交通機関でのアクセスが困難なところ。そこは逆に、クルマでなければ行けない観光スポットを組み合わせるのもいいだろう。
・・・ということで、まずは大村寺に向かうべく、岡山自動車道を北房から南下して賀陽インターで降りる。インターの手前で寺のすぐ横を通っていたのだが気付かなかった。インターから周囲に何もない山道を走り、先ほど通った岡山道の高架橋の下に出る。
最後は急な上りとなり、周りに集落が開けたところで大村寺の広い駐車場に出る。他にクルマ、参詣者の姿はない。
中国四十九薬師めぐりの第1番の石碑もある。いよいよ、新たな札所めぐりの始まりである。
山門の脇に松の木がある。2代目の錦松とのことで、かつては樹齢350年ほどの巨大な松が生えていたそうだ。その周りに「層嶂(そうしょう)の庭」が広がる。吉備高原の山脈の景観を芝生で表し、白砂で雲海を象徴しているとある。この日は快晴だったが、この辺りでは季節によっては朝方に雲海を見ることができるそうだ。
山門を入ったすぐ脇には「鶴亀の庭」がある。枯山水で鶴と亀を表現しているそうで、鶴が羽を広げる様子、亀が首を上げる様子が見て取れる。この2つの庭は、昭和の作庭家・重森三玲(みれい)が設計し、弟子であり知人だった西谷康男が造ったとある。
重森三玲は現在の吉備中央町の出身で、枯山水の作庭を得意とした。代表的なのは東福寺の方丈庭園だそうだが、他にもあちこちの寺社の庭を手掛けている。中国観音霊場めぐりの第15番である周南市の漢陽寺の曲水の庭もそうだ。吉備中央町にも作品が点在しているという。また最近も重森という名前を目にしたな・・と思いめぐらせると、西国四十九薬師めぐり・福知山の長安寺の大方丈前の庭もそうだった。ただしこちらは重森三玲の子・完途の作品。
庭の反対側には茶室がある。「功徳庵」とあり、これも重森三玲の作品である。岡山市内に建てられていたのを移築したそうだ。一般には公開していないようで門も閉じられているが、垣根が低いため建物全体を見ることができる。茶室の価値はよくわからないが、三玲の最高傑作との評価もあるそうだ。
大村寺は聖武天皇の勅願で行基により開かれた。往時は12の子院を有して栄えていたが衰退、鎌倉時代に実智上人により再興された。
現在の本堂は江戸時代、備中松山城主の板倉勝職により再建されたとある。扉は閉ざされているため、そのまま外にてお勤めとする。
本堂の奥に進むと、五輪塔群に出る。岡山道の建設工事のため、大村寺遺跡を発掘した時に見つかったものである。鎌倉時代~江戸時代のものが160基ほどあり、岡山県下で発掘されたものとしては最大規模という。
見どころとしては重森三玲関連のものが多い印象だが、本堂と合わせて一つの山を構成しており、中国薬師めぐりの第1番にふさわしい印象だった。
さて、朱印である。何かの情報で、中国四十九薬師めぐりは書き置きのバインダー式を採用しているとあった。ひょっとしたら寺の方が不在がちで直筆が難しいところがあるのかもしれない。納経帳に直筆でなければありがたくないと思う方も多いだろうが、こうした「ローカル札所めぐり」ではそうとばかりいかないのも事実である。
納経所の札は出ているがカーテンが閉まっている。これは書き置きのパターンかなと思い、窓の前にあった箱を取る。
すると、「申し訳ありませんが留守の時は名簿にお名前をご記入下さい 後日郵送させて頂きます 朱印300円也 送料120円也」という紙が出てきた。果たしてその下には名簿があり、要はここに住所氏名を書き、箱の中にお金を置く仕組みのようだ。
せめて書き置きくらいないのかと思いつつ、まあ郵送してくれるならとその通りにしておいた。これだけの寺で不在というのもどうかと思うが(隣接して、寺の方の自宅と思われる建物はある)、法要で外出しているのかもしれないし、寺にもいろいろ事情があるのだろう。まあ、送られてくるのを待つとして、名前を書き、箱の中に(裸だが)お金を入れ、ここで寺を辞去した・・・。
・・・これが5月30日のこと。そして、この記事を書いているのは6月17日。もう半月以上経過しているが、大村寺から何か送ってきたということはない。不在の場合とあったが、半月も不在??そんなわけないだろう。これは手違いか、放置されて忘れられているか。
こういう場合、寺に電話で問い合わせるべきなのか、何なら現金書留でもう一度送って督促すべきなのか。ことが趣味の札所めぐりなだけに悩ましい。
もう一度大村寺を訪ねるという手もある。先に、大村寺への公共交通機関でのアクセスは困難と書いたが、ふと帰り道、岡山道の高架下にバス停を見つけた。備中高梁駅から出ている備北バスの便で、ご多分にもれず1日数本というところだが、昼過ぎの便に乗れば1時間半ほどの待ち時間で折り返しができる。ただ、そうして来たのはいいがまた不在だったら嫌だし、どうしようかな・・・。
ともかく始めることにした中国四十九薬師めぐりだが、この先もさまざまな出会いがありそうだ・・・。