名古屋から中央線の列車を乗り継ぎ、信州に入る。当初は篠ノ井線に入って松本まで行こうかと思っていたが、塩尻で11時58分発の甲府行きに乗り継いだ。こちらも211系のロングシート。かつて115系の「横須賀色」のボックス席で旅した頃をなつかしく思う。
いずれにしても久しぶりの区間なので、この先行けるところまで行ってしまうか、あるいは他の路線に乗ってみるか考えたが、結局下車したのは上諏訪。何度も訪ねたことがある駅で、若い頃は少し下諏訪方向に行ったところにあるユースホステルにも泊まったし、後に「ユースホステル離れ」してからは、湖に近いホテルに泊まったこともある。お目当ては温泉、湖。
上諏訪は駅のホームに足湯があることでも知られている。設置された当初は服を脱いで入る本式の露天風呂で、私もホームに流れる案内放送ややって来る列車の音を聞きながら入ったことがあるが、どうも落ち着かない感じがした記憶がある。足湯なら周りの目を気にすることもないし、足湯につかりながらホームに来る列車を見ることもできる。
もっとも、今回訪ねるのは本式の風呂である。足湯は時間があればつかることにして、いちど駅前に出て、連絡通路で諏訪湖側の連絡口に渡る。通路には諏訪の名物である打ち上げ花火のポスターが貼られているが、今年については新型コロナウイルスの影響ですべて中止というメッセージもあった。この夏はこうした花火大会というのが軒並み中止となっている。ただ、ニュースを見ると、花火業界の救済や、また人々を元気づけようと、資金を有志から募ってサプライズ的に花火を打ち上げる催しを行ったところもあるようだ。来年の夏には花火が上がることがあるだろうか。
向かったのは片倉館。ここの「千人風呂」に入ることにする。その前に会館を見学する。見学と入浴のセット券を購入するが、まずは検温と、連絡先の記入がある。これまで入浴したことはあるが、会館の見学は初めてである。以前は会館の見学がガイドつきの予約制のみだったが、2年ほど前からフリー見学ができるようになったとのこと。
片倉館は1929年に開業した施設である。製糸業、紡績業を中心に戦前に存在した片倉財閥の代表者の二代片倉兼太郎が、片倉製糸紡績会社の創業50周年を記念して建てたもので、関係者の福利厚生としてだけでなく、諏訪の人たちも利用できる保養施設としての役割を担った。
まずは会館の2階に上がる。ここには204畳の大広間が広がる。こういうところで寝転がったら気持ちいいだろうな。舞台もあるのでちょっと上がってみるが、なかなか壮観である。外観が洋館で中が和式というのも日本らしい。かつては結婚式や表彰式などの式典で使われていたそうで、現在も貸し切りで展示会、お茶会、カラオケ大会などで利用することができる。落語の寄席も似合いそうな感じだ。新型コロナウイルスの影響で今の時点ではそうしたイベントを行うのは難しそうだが、昭和初期の建物がこういう形で現役で使われているのは、諏訪の人たちにとっては誇りであろう。
舞台の上や側面には、元首相の清浦奎吾の揮毫が飾られている。当時の財閥ということで政界にも人脈があったということだろうか。
また、窓から見える温泉施設の外壁には(画像ではわかりにくいが)熊のレリーフが飾られている。「守り熊」ということで、あの位置にあるのは女性浴場を守るためだそうだ。このレリーフは大広間からでなければ見えないだろう。
1階に下りるとこちらも和室が並ぶ。「養浩然之氣(実際は右書き)」と書かれた額が飾られている。片倉館の落成記念として、洋画家・書家の中村不折という人が寄贈したとある。初めて聞く名前だなと思うと解説パネルがあり、夏目漱石『吾輩は猫である』の挿絵を描いた人物とある。ただ私が「へぇ~」となったのは、諏訪の地酒「真澄」や、あの「日本盛」のラベルの文字を書いた人物ということ。
別の部屋には「忠誠貫金石(実際は右書き)」の額がある。こちらは東郷平八郎直筆という。これも片倉館の落成記念で寄贈されたもの。これも、片倉財閥の人脈だろうか。ここで「財閥」だの「人脈」だのと強調すると誤解しそうだが、片倉館は別に片倉財閥の屋敷ではなく、先に触れたように、社員の福利厚生だけでなく地元の人たちも楽しめる施設として建てられたものである。郷土にこうした形で還元するという主旨に共感してくれたと理解するのがよいだろう。
さて、今度は千人風呂である。建物は渡り廊下でつながっているが、利用者はいったん外に出て、もう一度受付である。玄関に片倉兼太郎の胸像があるが、フェイスシールドをつけてコロナ予防のPRをしている。
レトロ感のある入り口から脱衣場に入る。浴室なので当然中の画像はないが、中はギリシャ風というのか、ローマ風というのか、彫刻やステンドグラスなど異国情緒が散りばめられた内装になっている。昭和初期の建物、しかも重要文化財にも指定されている建物がまだまだ現役の銭湯として地元の人に親しまれているのがよい。大理石の浴槽には実際には千人入れるわけではないが、深さが1.1メートルあるということで、中では立ったままつかることになる。ちょうどプールのようなものだ。底には那智黒石が敷き詰められていて、足の裏を刺激してくれる。
千人風呂の浴槽が深いのはなぜだろうか。「製糸工場で働く大勢の女工たちが一度に大勢入れるように、女工が座って眠らないように」という説があるそうだが、果たしてどうだろうか。「女工哀史」的な視線から見れば財閥というのは悪の存在のようだが、いささかこじつけのような気がする。あくまで福利施設、保養施設として建てられたのであれば、単純に、浴槽を(西洋のような)プールの造りにして、中で泳いだり、歩行したりできるようにしただけのことだと思うのだが、どうだろうか。
汗を落としたところで外に出る。千人風呂の2階が休憩室になっていて食事もできるし生ビールも飲めるのだが、ここまで来たのだから諏訪湖の湖畔に行き、湖を眺めながらビールを飲もう。
近くのコンビニで「諏訪浪漫ビール」やつまみを買い求め、湖に向かう。湖面からの風が涼しく、やはり大阪の猛暑と比べて信州は違うなと感じるが、それでも直射日光を受けると暑い。屋根のあるベンチを探すと、遊覧船乗り場の前に空きがあったので陣取る。諏訪浪漫ビールは諏訪の老舗の蔵元である麗人酒造が手がけており、霧ヶ峰の伏流水と上諏訪温泉の源泉をブレンドした仕込み水を使っている。今回いただいたのはケルシュの「しらかば」。
しばらく涼んでいると、遊覧船が14時30分に出航するという。一周25分のミニクルーズ。そういえば、この遊覧船には乗ったことがなかった。もうこの後は松本、長野に移動するだけだから、せっかくなので乗ってみることにする。運航するのは2020年春に就航したばかりの「スワコスターマイン」号。船上パーティーや貸し切りイベントにも対応できるように、固定された座席は最小限にしているが、その分開放的である。特に2階のデッキは360度の展望を楽しむことができる。
この日は天候もよく、所々に雲も出ているが、周囲の山々の稜線もはっきりと見ることができる。四方の山々を一度に見ることができるのは、湖の上ならではである。25分という時間も短すぎず長すぎず、ちょうどよい感じだった。
これで諏訪湖周辺の立ち寄りを終えて、駅に戻る。次に乗るのは15時23分発の松本行き。さすがにホームの足湯につかるだけの時間はなく、そのまま向かい側のホームに渡る。冷房のほどよく効いた車内、松本までしばしウトウトしながらの移動である・・・。