
















弘法大師が修行と産業振興のためにこの地にやって来て、大河(現在の重信川で、当時は伊予川と呼ばれていた)を渡ろうとする時に日が暮れたので河の中洲の松の木の下で野宿した。しかし雨で川の水があふれて身動きが取れなくなり、弘法大師は法力でこの地ににわか造りの庵を結んだ。それが小村大師堂の由来だという。弘法大師はここを拠点として近隣を回る中で、上記の衛門三郎との話になる。衛門三郎が弘法大師を追いかけて四国を回るにあたり、ここで庵と弘法大師像を見つけて、自分の印として木の名札をお供えして旅立ったという。それが「納札」の由来とされている。
文章の中で目に留まったのが、子どもたちを亡くした衛門三郎が我が身を振り返るところで「上人は私に何か相談する事があったのではないか」と問いかけ、解説として「上人は当時の伊予川の治水に目をつけられたものと思われる。此の時衛門三郎が大師と共に工事をしていたら衛門川とか三郎川とかなっていると思われる」と書かれたところである。弘法大師が衛門三郎の屋敷の門前で食べ物を乞うたのが、地元の有力者に河川の治水への協力を依頼したことのたとえ話というのが興味深かった。実際には、慶長年間に松山城主だった加藤義明の家臣で足立重信という人が治水工事を行ったことから、現在重信川と呼ばれるようになった。



ここまで来れば西林寺は近い。川を渡るとまた風も穏やかになり、県道沿いに白衣姿の人も見える。これで到着・・・・。