47番の八坂寺を参拝した後、48番の西林寺に向かう。距離は4.5キロということで、1時間ほどで着く感じである。この辺りは恵原(えばら)地区というところで、周辺の案内板には「お遍路の里」という表示がある。遍路道は一旦ため池のほとりや諏訪神社の前を通り、来る時にバスで通ってきた古い集落の道に出る。
前の記事でも触れたが、この四国めぐりの時は総選挙期間中。候補者の宣伝カーも回っているところ。通りを歩いていると後ろからとある候補の名前を連呼する宣伝カーがやってきた。私を追い越す時、「お遍路中、後ろから失礼します!!」と呼ばれ、車内から運動員の人たちが手を振る。そういうので声をかけられたのは初めて。ちなみにこちらは松山市内でも愛媛2区に属する。
バスで浄瑠璃寺に行く途中に、弘法大師の石像が立つ寺があったのが気になっていた。そして、通りを行くとその寺にやって来た。四国霊場の別格9番の文殊院というところ。別格二十霊場については特に予習していることもなく、こんなところにもあるのかと初めて知った。別格二十霊場とは、八十八所とは別に、弘法大師にゆかりがあったり、伝説が残っていたりする寺で、私のこれまでの四国めぐりの中では、これまで鯖大師、龍光院、十夜ヶ橋というところを訪ねている。それらはスケジュールを組む中で立ち寄ろうとあらかじめ決めていたものだが、この文殊院というのは全くのノーマークだった。
ただ、道沿いの看板を見てうなった。「四国八十八ヶ所発祥の寺院 四国遍路開祖 文殊院」とある。弘法大師が衛門三郎の子どもの供養とともに悪因縁切御修法を行ったとある。衛門三郎というのは・・・第12番焼山寺からの下りにある杖杉庵で登場する。衛門三郎は伊予の長者・豪族で、強欲非道な人物とされている。ある日、屋敷の門前に一人の僧がやって来て食べ物を乞うたが、衛門三郎はこれを追い払う。その後、僧は何日も屋敷に来るが衛門三郎は食べ物を与えるどころか、僧が持っていた鉢を投げ捨てて割ってしまう。僧は立ち去ったが、あくる日から衛門三郎の子どもたちが次々と亡くなった。衛門三郎は、僧が弘法大師であることを悟り、無礼をお詫びしなければと弘法大師を追って四国を回るが、20回回っても弘法大師に会うことができない。そこで21度目に逆回りで回ったところ、焼山寺の麓でようやく弘法大師に出会うことができた。衛門三郎は一連の無礼を詫び、弘法大師もそれを許すとその場で亡くなった。
衛門三郎が四国遍路の開祖であるとか、逆打ちの始まりだとかいう伝説であるが、上に書いたように伊予の国の長者・豪族である。その本拠地というのがこの恵原で、この文殊院は屋敷の跡に建てられたとされている。また、弘法大師も文殊菩薩に導かれてこの地に滞留したことから、文殊院の名前がついたという。
本堂と大師堂が並ぶ形で建っており、せっかくなので本堂でお勤めとする。「四國遍路開祖発祥地」という札が誇らしげに見える。
本堂の前に大きな弘法大師像が立つ。そしてその脇には衛門三郎と妻の石像が立つ。杖杉庵で見た衛門三郎像は、追い続けた弘法大師に許しを請う場面をイメージしていて悲壮感もあったように見えたが、こちらでは弘法大師に深く帰依して「どこまでもお供させていただきますよ」という感じに見える。
納経帳の残りページが少なくなっていることもあり、ご朱印まではいいかなと、再び傘をさして進む。「お遍路の里」を名乗るだけあって、遍路道の案内もきちんと出ており迷うことはない。郊外の住宅や田畑、工場などがある中を黙々と歩くうち、「札始め大師堂」という文字を見る。これは何だろうか。
遍路道沿いに小さなお堂があり、「四国霊場 遍路開祖衛門三郎 札始大師堂」の表札が掲げられている。脇には「お大師様お泊跡」の石碑もある。中にお入りください」との札があったので、雨宿りを兼ねて中に入る。奥には小さな弘法大師堂が祀られており、ここでもお勤めを行う。
この札始大師堂、小村大師堂という名前でその縁起が書かれた紙があったのでいただく。それを読むと、こちらでも衛門三郎に関する話が出てきた。その内容を書くと・・・。
弘法大師が修行と産業振興のためにこの地にやって来て、大河(現在の重信川で、当時は伊予川と呼ばれていた)を渡ろうとする時に日が暮れたので河の中洲の松の木の下で野宿した。しかし雨で川の水があふれて身動きが取れなくなり、弘法大師は法力でこの地ににわか造りの庵を結んだ。それが小村大師堂の由来だという。弘法大師はここを拠点として近隣を回る中で、上記の衛門三郎との話になる。衛門三郎が弘法大師を追いかけて四国を回るにあたり、ここで庵と弘法大師像を見つけて、自分の印として木の名札をお供えして旅立ったという。それが「納札」の由来とされている。
文章の中で目に留まったのが、子どもたちを亡くした衛門三郎が我が身を振り返るところで「上人は私に何か相談する事があったのではないか」と問いかけ、解説として「上人は当時の伊予川の治水に目をつけられたものと思われる。此の時衛門三郎が大師と共に工事をしていたら衛門川とか三郎川とかなっていると思われる」と書かれたところである。弘法大師が衛門三郎の屋敷の門前で食べ物を乞うたのが、地元の有力者に河川の治水への協力を依頼したことのたとえ話というのが興味深かった。実際には、慶長年間に松山城主だった加藤義明の家臣で足立重信という人が治水工事を行ったことから、現在重信川と呼ばれるようになった。
大師堂を後にして、遍路道も県道に出る。そしてその重信川を渡るが、川の上は風が強い。折り畳み傘の骨が折れそうだ。ここは我慢。対岸には河川敷のゴルフ場もある。治水が進んだ現代でもこれだけの広さの川で、弘法大師の当時というのはもっと暴れ川だったのかなと思う。
ここまで来れば西林寺は近い。川を渡るとまた風も穏やかになり、県道沿いに白衣姿の人も見える。これで到着・・・・。
前の記事でも触れたが、この四国めぐりの時は総選挙期間中。候補者の宣伝カーも回っているところ。通りを歩いていると後ろからとある候補の名前を連呼する宣伝カーがやってきた。私を追い越す時、「お遍路中、後ろから失礼します!!」と呼ばれ、車内から運動員の人たちが手を振る。そういうので声をかけられたのは初めて。ちなみにこちらは松山市内でも愛媛2区に属する。
バスで浄瑠璃寺に行く途中に、弘法大師の石像が立つ寺があったのが気になっていた。そして、通りを行くとその寺にやって来た。四国霊場の別格9番の文殊院というところ。別格二十霊場については特に予習していることもなく、こんなところにもあるのかと初めて知った。別格二十霊場とは、八十八所とは別に、弘法大師にゆかりがあったり、伝説が残っていたりする寺で、私のこれまでの四国めぐりの中では、これまで鯖大師、龍光院、十夜ヶ橋というところを訪ねている。それらはスケジュールを組む中で立ち寄ろうとあらかじめ決めていたものだが、この文殊院というのは全くのノーマークだった。
ただ、道沿いの看板を見てうなった。「四国八十八ヶ所発祥の寺院 四国遍路開祖 文殊院」とある。弘法大師が衛門三郎の子どもの供養とともに悪因縁切御修法を行ったとある。衛門三郎というのは・・・第12番焼山寺からの下りにある杖杉庵で登場する。衛門三郎は伊予の長者・豪族で、強欲非道な人物とされている。ある日、屋敷の門前に一人の僧がやって来て食べ物を乞うたが、衛門三郎はこれを追い払う。その後、僧は何日も屋敷に来るが衛門三郎は食べ物を与えるどころか、僧が持っていた鉢を投げ捨てて割ってしまう。僧は立ち去ったが、あくる日から衛門三郎の子どもたちが次々と亡くなった。衛門三郎は、僧が弘法大師であることを悟り、無礼をお詫びしなければと弘法大師を追って四国を回るが、20回回っても弘法大師に会うことができない。そこで21度目に逆回りで回ったところ、焼山寺の麓でようやく弘法大師に出会うことができた。衛門三郎は一連の無礼を詫び、弘法大師もそれを許すとその場で亡くなった。
衛門三郎が四国遍路の開祖であるとか、逆打ちの始まりだとかいう伝説であるが、上に書いたように伊予の国の長者・豪族である。その本拠地というのがこの恵原で、この文殊院は屋敷の跡に建てられたとされている。また、弘法大師も文殊菩薩に導かれてこの地に滞留したことから、文殊院の名前がついたという。
本堂と大師堂が並ぶ形で建っており、せっかくなので本堂でお勤めとする。「四國遍路開祖発祥地」という札が誇らしげに見える。
本堂の前に大きな弘法大師像が立つ。そしてその脇には衛門三郎と妻の石像が立つ。杖杉庵で見た衛門三郎像は、追い続けた弘法大師に許しを請う場面をイメージしていて悲壮感もあったように見えたが、こちらでは弘法大師に深く帰依して「どこまでもお供させていただきますよ」という感じに見える。
納経帳の残りページが少なくなっていることもあり、ご朱印まではいいかなと、再び傘をさして進む。「お遍路の里」を名乗るだけあって、遍路道の案内もきちんと出ており迷うことはない。郊外の住宅や田畑、工場などがある中を黙々と歩くうち、「札始め大師堂」という文字を見る。これは何だろうか。
遍路道沿いに小さなお堂があり、「四国霊場 遍路開祖衛門三郎 札始大師堂」の表札が掲げられている。脇には「お大師様お泊跡」の石碑もある。中にお入りください」との札があったので、雨宿りを兼ねて中に入る。奥には小さな弘法大師堂が祀られており、ここでもお勤めを行う。
この札始大師堂、小村大師堂という名前でその縁起が書かれた紙があったのでいただく。それを読むと、こちらでも衛門三郎に関する話が出てきた。その内容を書くと・・・。
弘法大師が修行と産業振興のためにこの地にやって来て、大河(現在の重信川で、当時は伊予川と呼ばれていた)を渡ろうとする時に日が暮れたので河の中洲の松の木の下で野宿した。しかし雨で川の水があふれて身動きが取れなくなり、弘法大師は法力でこの地ににわか造りの庵を結んだ。それが小村大師堂の由来だという。弘法大師はここを拠点として近隣を回る中で、上記の衛門三郎との話になる。衛門三郎が弘法大師を追いかけて四国を回るにあたり、ここで庵と弘法大師像を見つけて、自分の印として木の名札をお供えして旅立ったという。それが「納札」の由来とされている。
文章の中で目に留まったのが、子どもたちを亡くした衛門三郎が我が身を振り返るところで「上人は私に何か相談する事があったのではないか」と問いかけ、解説として「上人は当時の伊予川の治水に目をつけられたものと思われる。此の時衛門三郎が大師と共に工事をしていたら衛門川とか三郎川とかなっていると思われる」と書かれたところである。弘法大師が衛門三郎の屋敷の門前で食べ物を乞うたのが、地元の有力者に河川の治水への協力を依頼したことのたとえ話というのが興味深かった。実際には、慶長年間に松山城主だった加藤義明の家臣で足立重信という人が治水工事を行ったことから、現在重信川と呼ばれるようになった。
大師堂を後にして、遍路道も県道に出る。そしてその重信川を渡るが、川の上は風が強い。折り畳み傘の骨が折れそうだ。ここは我慢。対岸には河川敷のゴルフ場もある。治水が進んだ現代でもこれだけの広さの川で、弘法大師の当時というのはもっと暴れ川だったのかなと思う。
ここまで来れば西林寺は近い。川を渡るとまた風も穏やかになり、県道沿いに白衣姿の人も見える。これで到着・・・・。