まつなる的雑文~光輝く明日に向かえ

まつなる兄さんのよしなしごと、旅歩き、野球、寺社巡りを書きます。頼りなく豊かなこの国に、何を賭け、何を夢見よう?

第12回四国八十八所めぐり~内子町歩き

2017年10月24日 | 四国八十八ヶ所
伊予大洲から松山には内子線回りで戻るとして、特急に乗車。内子で下車する。ここでは2時間あまりを町歩きとする。一度回ったことはあるがもう10数年前のことである。雨がやむ様子もなく、高架駅から傘をさして歩く。まず町並みまでは数百メートルの距離だ。

旧街道に入る。内子もかつての遍路道の一部であり、今も遍路宿として営業しているところもあるそうだ。この先は第44番の久万高原の大寳寺。歩くとハードなコースである。

まずは、内子で最も有名な建物と言っていい内子座に着く。大正天皇の即位を祝って、地元の有志が建てた芝居小屋。地元の人たちの娯楽の場としての役目を果たしてきた。一時取り壊しの話も出たが、町に寄贈され、改修も施して現在も劇場として、またまちづくりの拠点として活躍している。

公演がない時は観光客も見学ができる。舞台や枡席、地下のからくりや大向こうなど、さまざまな角度から芝居小屋を眺める。自分の体がデカイだけかもしれないが、枡席というのは疲れそうに思うが・・。ただ、こうした劇場での公演の雰囲気というのは、現代のホール式の建物とはまた違うものか、一度観てみたいなと思う。個人的には歌舞伎より落語のほうが魅力あるが。

内子座を出て先に進む。昔の警察署の建物がビジターセンターだったり、人形や調度品で昔の町家の店先を再現した商いと暮らしの博物館もある。ふと前を見ると、「南無大師遍照金剛」の白衣の上にレインコートを着て、菅笠に折り畳み傘という重装備の歩き遍路がいる。これから歩いて久万高原を目指すのだろうか。

伊予銀行の角を曲がると八日市の伝統的な町並みに行くが、いったん直進して細い路地を入る。着いたのは高橋邸というところ。高橋龍太郎という方の生家である。「高橋龍太郎て誰やねん」という方がほとんどだと思うが、戦前の産業界で大日本麦酒を経営していた方である。この大日本麦酒、現在のアサヒビールとサッポロビールの前身である。ビールを日本の大衆の飲み物に・・と尽力した人で、私にとっては手を合わせたくなるくらいの人だ。

邸宅の玄関で丁重に迎えられ(内子は人気でも、高橋邸に来る人はそれほどでもないとのこと)、座敷や応接間を見学する。ビール関係の展示もあるが、私がうなったのば別にある。というか、今回これを観るために高橋邸に来たと言ってもいい。

「高橋ユニオンズ」。かつてパ・リーグに所属していた球団である。パ・リーグ発足当時の不安定なリーグ運営の中で、言わば「個人出資」の形でできた高橋ユニオンズ。実質3年、しかも2年目はトンボ・ユニオンズの名前、成績も史上史上最弱と言っていいくらいの球団だったが、今でも語り継がれる球団である。フジテレビ「プロ野球ニュース」の佐々木信也さんの出身球団でもあり、この人のおかげで伝わっている話も多い。

「高橋」などと、オーナーの名前がそのまま球団名になったというのは過去にも現在にもないこと。見ようによってはオーナーのワンマンチームになるが、当時の世相ではそうではないはずだ。きっと、リーグの実情を見て、当時のパ・リーグ会長だった永田雅一に説得されて、男気なのか仕方なくなのかで引き受けたのだと思う。そうした方が内子の町中で静かに隠居しているようで、これも面白いなと感じる。高橋ユニオンズの歴史について書かれたノンフィクション『最弱球団高橋ユニオンズ青春記』(長谷川晶一著)の一冊を読んでみようか。

再び通りに戻り、八日市の町並みを歩く。ここについては内子の町並みの名所であり、その一々は触れない。歩いてみて、道の両側の建物の並びにうなるばかりである。

その一軒、中学校の向かいに堂々と建つのが上芳我邸である。内子は江戸時代から製蝋で栄えたが、その中でも大家だったところだ。今では内子で和蝋燭づくりを営んでいるのは別の1軒だけで、上芳我邸は当時の歴史を伝える役目である。

町並み保存の取り組みの一つとして平成に入って大修復をしたそうで、その様子も紹介されている。

また、別に建てられた木蝋資料館では、和蝋燭の製造工程が道具や史料、模型で紹介されている。ハゼの実が原料というのを初めて知った。ハゼの実を蒸して押し潰すと、脂肪分が採れる。これを型に取ったのが木蝋で、和蝋燭だけではなく、軟膏やクレヨンの原料、果てはCDにも使われている。へぇ~とうなったのは、大相撲の力士の髷つけ油にも使われていること。木蝋を椿などの油で伸ばし、香料を混ぜているそうだ。

ハゼの木は南から伝わったとされ、国内では主に九州や四国で生息、栽培されている。ただ、現在の生活で和蝋燭にせよ、洋蝋燭にせよ、蝋燭を使う場面というのはどのくらいあるだろうか。四国八十八所を回る中で蝋燭は灯しているが、100円ショップで買ったものである。内子の和蝋燭・・・寺の本堂なら使っているところもあるのだろうが、ただの札所めぐりとなると、こういうところが簡易なものになってしまう。線香も100円ショップ、数珠は・・・親からいただいた、奈良だったか京都だったかの仏具店のものを使っているが、今や数珠も100円ショップで売っている。

上芳我邸ではかつての製蝋の道具や工場も残されていて、内子のこの町並みを作る元となった伝統産業についてよくわかる。なかなか見ごたえのあるスポットだった。

ここで折り返しとして、町並みから少し離れた国道沿いのフジにあるセルフうどん「なみへい」でうどんと天ぷらの昼食として、駅に戻る。内子には「屋根つき橋」というのがあり、田丸橋や弓削神社の橋が知られているそうだ。私もある方が訪ねた写真を見せてもらうことがあり、行ってみたいと思ったが、クルマでないと行けないところとあって断念。またいつか、内子を訪ねることがあれば、レンタカーを使って行くとするか。

帰りは鈍行に乗る。13時55分発の松山行きで、キハ54の単行。全てロングシートだが、最近はこの手の座席の車両が増えているので慣れている。空いていれば脚も伸ばせて広く使えるのはよい。八幡浜のほうでちょっとした事故があったそうで、遅れた特急を先に通した後、定刻から10分ほど遅れて発車する。もう松山に戻るだけのことで、10分の遅れは別にどうということもない。

往路の「愛ある伊予灘線」を観光列車「伊予灘ものがたり」で優雅?にたどったのとは対照的に、山の区間をワンマンのローカル車両で地味にたどる。ただこれも鉄道旅行の楽しみである。向井原で「愛ある伊予灘線」と合流し、平野部に戻って伊予市に到着。このまま乗っていればホテル最寄の松山に戻れるのだが、ここで下車する。今日は呑み鉄・・もとい乗り鉄の日でもある。そのまま松山に戻るのも芸がないなということで・・・・。
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