44番の大寳寺を出たのが13時、この後およそ10キロを歩いて、岩屋寺の参拝を17時までに終わらせるのがこの14日の行程である。もちろん、その後岩屋寺17時40分発のバスに乗らなければ松山に戻ることはできない。「四国のみち」と遍路道の看板を頼りに歩くとする。まずは、3キロ先の河合というところが目的地になる。
細い車道から遍路道が分かれる。早速上りである。ここに来て雨粒を感じるが、降っているという感じではない。木についていた水滴が風に吹かれて落ちてきたようだ。地面には少し川状に水が流れていて、沢蟹も見つかる。
上りが続く中、先ほどの二人連れに追い付く。お二人の間でもペースが違うようで、挨拶して一人ずつを追い越す形になる。別に速さを競うものではなく、それぞれのペースで行くわけだが・・。
上りきったところに石の祠や木のベンチがあり、今度は一転して下りに変わる。この祠は峠御堂と呼ばれている。まずは一つ峠を越えたわけだ。上りはしんどいが、まだ杖を頼りに、最悪這ってでも何とかなる。ただ、下りは足元に気を使うし、滑る危険もある。私の場合は、下りで膝の後がピリッと来ることがあるので慎重になる。追い越した二人連れの足音が聞こえてくる。
ともかく降りきると車道に出た。そこは県道12号線の峠御堂トンネルの東側の出入口。クルマならトンネルを通るし、歩きでもトンネルを行けば距離と時間は軽減できる。ふと、高知の土佐市で36番の青龍寺を目指した時のことを思い出す。トンネルでなくわざわざ峠道を歩くのはしんどいが、歩いたら歩いたなりのことはあるなと思う。
ここからしばらく車道を歩くが、歩道があるわけでなく、白線とガードレールの間のわずかな空間が頼りである。遠くのほうから、総選挙の支持を訴える選挙カーの声が聞こえてくる。地元の人たちにはどのように響いているだろうか。
車道から脇道の階段があり、これを下りると河合の集落に出ることになる。最短距離ならこのまま車道を行けばいいのだが、ここは案内どおりに行く。階段を下りると古い家屋が並ぶ細い通りに出る。標識に従って進むと、屋根つきのベンチとトイレのあるスペースがある。この河合の集落はかつて遍路宿が軒を連ねていたそうだ。四国八十八所の札所めぐりの道は、ガチの歩きなら「一筆書き」がベースである。ただ、大寳寺と岩屋寺の間は、「打ち戻り」として、岩屋寺が行き止まりの終着点の形で、再び大寳寺に戻ることになる。鉄道の本線から分岐した盲腸線のようなものだ。このため、岩屋寺まで歩く人のために、河合の遍路宿で荷物を預かるというのが行われていたとある。今はクルマで行く人がほとんどとあって、ここで泊まる人も荷物を預ける人もほぼいないのだろう。もっとも、私は夕方のバスで岩屋寺から一気に久万高原の町中に戻るので、預けようにも預けられないが。
時刻は14時、集落の家並はそのまま続き、住吉神社の横から信号のある交差点に出る。岩屋寺にはここを右折とあるので曲がろうとする。その時、交差点の左斜め前から呼び声と拍手の音がした。そちらに目を向けると、「ちょっと休みませんか~!」と声がする。そちらには公民館があり、歩きの人向けのお接待所とある。
「どうぞごゆっくり」と言われ、「これはお接待」と、リンゴやようかん、トマトなどが盛られた盛られた紙皿が出る。さらには熱いお茶、甘酒、缶のお茶も出る。テーブルの上にはボウルがあり、地元産のトマトが浮かんでいる。それも渡される。ここまでの「お接待」は初めてで、実に恐縮する。
テーブルには女性の先客が一人いて、岩屋寺を回った帰りだという。ちょうど出るタイミングで、紙皿に残った食べ物は係の人がビニール袋に包んで持たせていた。河合の集落は岩屋寺への「打ち戻り」だと書いたが、今は公民館がその役割を果たしている様子だ。ただ、こうした形で開けているのは春と秋だけで、この秋も次の週末までだという。「せっかくなのでご記帳を」と言われ、台帳に住所氏名を書く。それを見て「藤井寺・・・昔の藤井寺球場やね」と、相手の大将が言う。昔、少しの間大阪にいたそうで、その時に球場の名前は聞いた覚えがあるとか。「藤井寺→藤井寺球場」という連想に出会えたのはうれしい。藤井寺球場が近鉄バファローズの1軍本拠地でなくなってから20年あまり、今やそうした連想に触れることもなかなかないだけに・・。
記帳を見ると、この日の欄に名前があったのは10人ほど。「お遍路は歩く・・というイメージありますが、歩いているのは全体の何パーセントだけですよ」「春と秋だったら、春のほうが多いやろうね」と言われる。私のような公共交通機関ベースの札所めぐりの割合がどのくらいなのかわからないが。
話をしている間に、先ほど二人連れが交差点からそのまま岩屋寺の方向に曲がって行った。お接待所から「お~いお遍路さん!! ちょっと休んで行きませんか~!!」と、大声と拍手で呼びかけるが、気づかない様子でそのまま歩いて行った。あらあら。でも、そうした「おせっかい」が苦手な人たちなのかもしれない。
これから岩屋寺を目指すと言うと、「2時間半あれば着くけど・・お兄さんならもう少し早いかもしれないけど、ここを14時半には出なければ」と言われた。時刻は14時を回っていて、ならばギリギリの時間になるのかな。であればなおのこと早く出なければ。結局私も皿のものを袋に包んでいただいて出発となる。「今日はどうするの?」と訊かれて、岩屋寺からバスで久万高原に戻り、乗り継ぎで松山に戻るというと「松山まで下るの??」と驚いた感じだった。今からなら岩屋寺に着くのは夕方、暗くなってから松山に「下る」ことができるのか??という様子だった。
ともかくここでお礼を言って、これから本格的になる岩屋寺までの遍路道を進むことに・・・・。
細い車道から遍路道が分かれる。早速上りである。ここに来て雨粒を感じるが、降っているという感じではない。木についていた水滴が風に吹かれて落ちてきたようだ。地面には少し川状に水が流れていて、沢蟹も見つかる。
上りが続く中、先ほどの二人連れに追い付く。お二人の間でもペースが違うようで、挨拶して一人ずつを追い越す形になる。別に速さを競うものではなく、それぞれのペースで行くわけだが・・。
上りきったところに石の祠や木のベンチがあり、今度は一転して下りに変わる。この祠は峠御堂と呼ばれている。まずは一つ峠を越えたわけだ。上りはしんどいが、まだ杖を頼りに、最悪這ってでも何とかなる。ただ、下りは足元に気を使うし、滑る危険もある。私の場合は、下りで膝の後がピリッと来ることがあるので慎重になる。追い越した二人連れの足音が聞こえてくる。
ともかく降りきると車道に出た。そこは県道12号線の峠御堂トンネルの東側の出入口。クルマならトンネルを通るし、歩きでもトンネルを行けば距離と時間は軽減できる。ふと、高知の土佐市で36番の青龍寺を目指した時のことを思い出す。トンネルでなくわざわざ峠道を歩くのはしんどいが、歩いたら歩いたなりのことはあるなと思う。
ここからしばらく車道を歩くが、歩道があるわけでなく、白線とガードレールの間のわずかな空間が頼りである。遠くのほうから、総選挙の支持を訴える選挙カーの声が聞こえてくる。地元の人たちにはどのように響いているだろうか。
車道から脇道の階段があり、これを下りると河合の集落に出ることになる。最短距離ならこのまま車道を行けばいいのだが、ここは案内どおりに行く。階段を下りると古い家屋が並ぶ細い通りに出る。標識に従って進むと、屋根つきのベンチとトイレのあるスペースがある。この河合の集落はかつて遍路宿が軒を連ねていたそうだ。四国八十八所の札所めぐりの道は、ガチの歩きなら「一筆書き」がベースである。ただ、大寳寺と岩屋寺の間は、「打ち戻り」として、岩屋寺が行き止まりの終着点の形で、再び大寳寺に戻ることになる。鉄道の本線から分岐した盲腸線のようなものだ。このため、岩屋寺まで歩く人のために、河合の遍路宿で荷物を預かるというのが行われていたとある。今はクルマで行く人がほとんどとあって、ここで泊まる人も荷物を預ける人もほぼいないのだろう。もっとも、私は夕方のバスで岩屋寺から一気に久万高原の町中に戻るので、預けようにも預けられないが。
時刻は14時、集落の家並はそのまま続き、住吉神社の横から信号のある交差点に出る。岩屋寺にはここを右折とあるので曲がろうとする。その時、交差点の左斜め前から呼び声と拍手の音がした。そちらに目を向けると、「ちょっと休みませんか~!」と声がする。そちらには公民館があり、歩きの人向けのお接待所とある。
「どうぞごゆっくり」と言われ、「これはお接待」と、リンゴやようかん、トマトなどが盛られた盛られた紙皿が出る。さらには熱いお茶、甘酒、缶のお茶も出る。テーブルの上にはボウルがあり、地元産のトマトが浮かんでいる。それも渡される。ここまでの「お接待」は初めてで、実に恐縮する。
テーブルには女性の先客が一人いて、岩屋寺を回った帰りだという。ちょうど出るタイミングで、紙皿に残った食べ物は係の人がビニール袋に包んで持たせていた。河合の集落は岩屋寺への「打ち戻り」だと書いたが、今は公民館がその役割を果たしている様子だ。ただ、こうした形で開けているのは春と秋だけで、この秋も次の週末までだという。「せっかくなのでご記帳を」と言われ、台帳に住所氏名を書く。それを見て「藤井寺・・・昔の藤井寺球場やね」と、相手の大将が言う。昔、少しの間大阪にいたそうで、その時に球場の名前は聞いた覚えがあるとか。「藤井寺→藤井寺球場」という連想に出会えたのはうれしい。藤井寺球場が近鉄バファローズの1軍本拠地でなくなってから20年あまり、今やそうした連想に触れることもなかなかないだけに・・。
記帳を見ると、この日の欄に名前があったのは10人ほど。「お遍路は歩く・・というイメージありますが、歩いているのは全体の何パーセントだけですよ」「春と秋だったら、春のほうが多いやろうね」と言われる。私のような公共交通機関ベースの札所めぐりの割合がどのくらいなのかわからないが。
話をしている間に、先ほど二人連れが交差点からそのまま岩屋寺の方向に曲がって行った。お接待所から「お~いお遍路さん!! ちょっと休んで行きませんか~!!」と、大声と拍手で呼びかけるが、気づかない様子でそのまま歩いて行った。あらあら。でも、そうした「おせっかい」が苦手な人たちなのかもしれない。
これから岩屋寺を目指すと言うと、「2時間半あれば着くけど・・お兄さんならもう少し早いかもしれないけど、ここを14時半には出なければ」と言われた。時刻は14時を回っていて、ならばギリギリの時間になるのかな。であればなおのこと早く出なければ。結局私も皿のものを袋に包んでいただいて出発となる。「今日はどうするの?」と訊かれて、岩屋寺からバスで久万高原に戻り、乗り継ぎで松山に戻るというと「松山まで下るの??」と驚いた感じだった。今からなら岩屋寺に着くのは夕方、暗くなってから松山に「下る」ことができるのか??という様子だった。
ともかくここでお礼を言って、これから本格的になる岩屋寺までの遍路道を進むことに・・・・。