まつなる的雑文~光輝く明日に向かえ

まつなる兄さんのよしなしごと、旅歩き、野球、寺社巡りを書きます。頼りなく豊かなこの国に、何を賭け、何を夢見よう?

第13回四国八十八所めぐり~しまなみ海道をゆく

2017年12月09日 | 四国八十八ヶ所
松山からの帰りに選んだのは福山駅行きの高速バスである。そういえば愛称を書いていなかったが、「キララエクスプレス」号という。

海の景色、菊間の遍昭院とプラント、そして加計学園と車窓にいろいろなものが逃れたところで、四国本土を後にする。来島海峡のサービスエリアのバス停でも乗客があり、来島海峡大橋へと進んでいく。道路は高速道路だが、横には自転車、歩行者用の通路がある。島から島へサイクリングというのが人気で、私もレンタサイクルで多々羅大橋を渡ったことがあるが、あの高さは結構怖い。真下が海というのが余計にそう感じさせる。まだこうしてバスに乗っているぶんには景色を楽しめるのだが。

この後は大島、伯方島とたどる。バス停はあるが乗り降りなく走っていく。

大三島に入る。大三島といえば数々の国宝、重要文化財の刀剣や甲冑を有する大山祇神社が有名だが、この神社、実は四国八十八所とも関連があるそうだ。昨年、レンタサイクルで多々羅大橋を渡って大三島を訪ねた時に大山祇神社にも参拝したが、そのことには気づかなかった。次回以降の今治シリーズでその辺りのことも触れることができるだろうか。

多々羅大橋を渡ると広島県である。大阪からの四国めぐりで、まさか広島県を訪ねることになるとは。ただ、今治駅~新大阪駅間だと、経路検索サイトでは、特急しおかぜで岡山から新幹線に乗り継ぐのと、今治から福山までバスで出て新幹線に乗り継ぎのと、時間的にそれほど変わらない。しまなみ海道の高速道路が全通した効果である。

広島県は生口島、因島、向島と渡って行くが、残念ながら外が暗くなった。日の長い時季ならしまなみ海道の景色をもっと楽しめたのだが。

ただ、最後に本州に渡る時に、尾道水道と尾道の町並みの夕景が見られたのにはうなった。

これで本州に戻り、新尾道駅に到着した。ここで下車する人も結構いた。定刻から10分くらい遅れたようだが、そのくらいなら問題ない。このバスを選んだ時に、初めての新尾道駅から新幹線というのも考えたが、何せこだま号しか停まらない。それなら福山まで行ったほうがよいだろう。

この後は山陽自動車道で福山東インターまで来たが、出た後が混んでいた。国道に合流する信号だが、広尾のバス停がすぐ近くなのになかなかたどり着けない。広尾でも下車があり、国道2号線に入って福山駅に着いたが、17時30分の定刻から20分ほど遅れた。まあ、新幹線までは30分あるから、福山での食事は無理としても、売店で買い物する時間はある。

その福山駅、ここに来るのは久しぶりだが、目の前の建物が立派になっていて驚いた。また、「バラの街」を公言しているだけあって、駅前にバラ園ができていたのも初めて見た。こうしたところを乗り換えだけで通過するのはもったいない気もするが、今回はあくまで松山から大阪への乗り換え場所である。せめて、新幹線車内での食事として、牡蠣の燻製とか、せんじ肉など買い求め、実家への土産にカープ坊やが包装に使われているもみじ饅頭を一緒に買う。四国に行くと言ったその土産がもみじ饅頭というのも、カープファンの親への洒落のつもりだ。

福山から乗ったのは、18時17分発の「さくら562号」。指定席は満席で、取っていた窓側の私の席がポカンと空いていたのが申し訳なく思う。通路側の隣の女性客は、その前の通路側の席の男性客とのカップルのようで、別に悪いことはしていないつもりだが、かえって気を遣う。それを払拭するには・・・牡蠣とせんじ肉で「呑み鉄」モードに入ることに。

新大阪に到着。帰りの移動も長い時間楽しんだ感じで、いろいろなモノを見た2日間もようやく終わりである。次は松山から今治シリーズで6つの札所があるが、アクセスも含めてどのように回って行こうか・・・・。
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第13回四国八十八所めぐり~最後は思いきって・・・

2017年12月07日 | 四国八十八ヶ所
11月26日、伊予鉄道の松山市駅前にてバスを待つ。14時20分発の神戸行きがやって来て大勢の客が乗るが、私はこれを見送り、次の14時30分発のバスを待つ。

そこにやって来たのは中国バスの車両。行き先は「新尾道・福山」とある。これが、帰りの便として選択したバスである。大阪に戻るのに、新尾道、福山を通ろうというものである。バスは予約制であらかじめ乗車券を買っていたが、座席は自由である。また、予約がなくても空席があれば乗れるそうで、乗務員の手元の一覧表には名前が10人ほどしかなく、直前に来た客もウェルカムという感じの対応だった。自由席ということで3列シートの最前列に陣取る。

帰りにこのバスを選んだのは、本四ルートの一つであるしまなみ海道をバスで走り抜けたかったため。瀬戸内側に来るとさまざまなアクセス方法があるということで、その一つとして。14時30分に松山市駅前を出て、17時30分に福山駅前に着く。福山からは新幹線として、予約の便までは50分近くの乗り継ぎ時間がある。

JR松山駅前に着く。ここから7~8人ほど乗客があるが、多くは当日直接利用である。多客期はわからないが、普段の土日は予約なしでも乗れるほどの利用率なのだろう。

松山駅前から国道196号を走るが、この道は結構交通量が多い。市街地を抜ける方向だがトロトロしてなかなか進まない。特段混雑するようなスポットがあるとは思えないが・・。まあ、福山まで定刻で3時間、遅れたとしても途中で取り返すか。

しばらくウトウトしても同じような郊外の景色で、伊予北条の停留所に着く。この辺りまで来ると渋滞はなくなったが、やはり遅れが出ているようだ。

先ほどはウトウトしていたが、伊予北条から先の景色は素晴らしく、目がさえる。曇って灰色の感じだが穏やかな海を存分に眺める。予讃線でも同じ海沿いを走ったが、国道のほうが海に近く、スピードもドライブと同じである。高速バスといいつつ延々と国道を行くわけだが、室戸岬でも同じようなこともあり、こうしたルートもありだと思う。

菊間を通り、国道に面して遍昭院という名前の寺が見える。また菊間は瓦で有名なところで、かなり昔に一度訪ねたことがある。瓦の製作や作品が見られる施設があった。

穏やかな海が一変して巨大なプラントが現れる。太陽石油の事業所で、ここから海を離れて内陸に入る。今治が近づいており、スマホで位置を追っていくと、バスは第54番の延命寺の近くを通る。私の四国めぐりでは、今回最後の札所と次回最初の札所との間が何らかの交通手段でつながるように考えていて、第53番の円明寺から延命寺までのルートは、松山から今治まで移動することが理想的だが、このバスで通ったことで、ルートをたどったと見なしてもいいのかなという気になった。

その延命寺の近くを過ぎ、今治の市街地に入る手前にしまなみ海道への入口がある。ここまで来れば後は高速道路を走るだけである。

・・・さて、今治という地名を聞くと皆さんはどのようなことを連想するだろうか。今治城、タオル、造船、やきとり、来島海峡・・・といったところが多いかと思う。変わったところで日本食研の宮殿型の工場とか。ただ、2017年について言えば、「加計学園獣医学部」というのも入るのではないだろうか。「森友・加計問題」「モリカケ」と言われ、安倍内閣への「忖度」があったのではとする野党やマスコミの批判で、「忖度」というのが流行語対象にもなった。

加計学園の問題についてはこのブログではあれこれ言わないようにしているが、それはそうと、加計学園獣医学部は今治のどこにできるのかは気になる。今治の郊外で住宅、商業施設と合わせて、文教地区の整備を行っているそうだが、どこだろう。

それは高速道路から近かった。進行右手に何やらフェンスで囲まれた建物が見える。その上部に「加計学園」の文字が見える。それはここだったのか。慌ててカメラを出したが景色は遠ざかる。スマホ地図で、だいたいこの辺りかと見当をつける。だから何やねんという感じだが・・・。

バスは来島海峡のサービスエリアに停車する。ここからの乗客もある。逆に言えば、本州から今治にアクセスするポイントでもある。さて、次の延命寺にはどうやって行こうか・・・?

ここまで来たところで記事が長くなったので、いつまでも引っ張るわけではないが、しまなみ海道編は次の記事ということで・・・申し訳ありません。
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第13回四国八十八所めぐり~松山城と坊っちゃん列車ミュージアム

2017年12月06日 | 四国八十八ヶ所
道後温泉を後にして、市内電車で松山城を目指す。札所めぐりの白衣はもうリュックにしまったが、金剛杖はまだケースに入れていない。松山城は平山城で、歩いて上る遊歩道もある。その杖代わりにしよう。

大街道で下車して東雲の登城口を目指すが、ここで雨が強くなった。別に濡れてまで上るほどのこだわりはないので、ここはロープウェイにする(並走するリフトは悪天候のため運転中止だった)。久しぶりに来たがロープウェイ乗り場の建物も新しくなったようだ。

ロープウェイで上がると傘の貸し出しがあり、これを差して城内を歩く。入り組んだ通路で、天守閣の前までぐるぐる回る感じである。

天守閣の広場に出る。ここから先が有料ゾーンだが、せっかくなので入る。入口の傘立ての横に杖立があり、別に四国めぐり用ではなく平山城に上るための杖立だが、そこに預ける。

重要文化財として江戸時代の姿が保存されていて、急な階段を上り最上階へ。あいにくの天気なのが残念だが、松山市内を四方に望む。昨日訪ねた太山寺、円明寺方面、そして今朝訪ねた久米の浄土寺から繁多寺、石手寺方面も見ることができる。これで、松山めぐりも一段落したなとほっとする。

松山に来たら、市街地にある「坂の上の雲ミュージアム」に行くのもよいなと思ったが、松山城を下りた後で帰りのバスの時間が気になる。時刻は13時を回っていて、松山市駅前からのバスは14時30分発。急げば回れないことはないが、ちょっと厳しいかな。以前に一度訪ねたからということで省くことにする。司馬遼太郎の世界に触れるならば東大阪の記念館に行くかと、妙に納得させる。

その代わりというわけではないが、大街道から銀天街のアーケードを歩く。松山に来たならこのエリアに一度は泊まれば良かったかな、この繁華街で一杯やれば良かったかなと思うこともある。

松山市駅前に到着。駅の地下は「まつちかタウン」として店が集まっているが、伊予鉄道の店では遍路用品も扱っている。市内に8ヶ所あるのは大きい。

もう少し時間があるので、「坊っちゃん列車ミュージアム」に行くことにする。伊予鉄道のホームページでPRされていて、気になっていたところ。まあ、司馬遼太郎と伊予鉄道を天秤にかけた形である。

その場所は、松山市駅の高島屋と道路を挟んだ向かい側の伊予鉄道本社ビルである。驚いたのは、その1階にスターバックスが入っていて、坊っちゃん列車ミュージアムはその奥にある。コーヒーを飲みながら伊予鉄道の歴史にも触れるという面白い造りだ。コーヒーは注文しなかったが、ミュージアムのコーナーに行く。

機関車の実物大の複製があり、伊予鉄道の歴史の紹介がある。気軽に接してもらおうという雰囲気である。

またこの日はイベントが行われていた。プラレールの線路が並び、どれか一つの線路に模型を走らせると、途中トンネルで覆われたいくつかのポイントの切り替えを経て、最後に着いたレールの番号に合わせて伊予鉄道グッズなどの景品がもらえる。勧められたのでやってみたところ、全国の地方私鉄の旅行ガイドが当たった。こうしたところを旅先にする参考に使わせていただく。

イベントとして他には松山の街をレイアウトした鉄道模型の走行や、伊予鉄道各線の前面展望の映像の上映があり、鉄道ファンに楽しめるものだった。鉄道模型にはJRの懐かしい車両もあれば市内電車もあるもの。結局、司馬遼太郎<伊予鉄道ということでよしとなった・・・。

そろそろ時間となり、コインロッカーから荷物を出してバス乗り場に出る。次にこの乗り場に来るのは伊予鉄道バスの神戸行き・・・。
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第13回四国八十八所めぐり~道後温泉のひととき

2017年12月05日 | 四国八十八ヶ所
石手寺のお参りを終えたところで、今回の松山市内5ヶ所めぐりはこれで終了である。時刻は10時を回ったところだが、お参りを終えるのを待っていたかのように雨が降りだす。間の悪いことに折り畳み傘は荷物とともに松山市駅のコインロッカーの中である。まあ、傘なしでもいけそうなくらいの量なので我慢する。

これから残り時間は完全な観光ということで、石手寺の前で白衣を取り、まずは道後温泉に向けて歩く。途中道路沿いに祠と弘法大師像がある。日切大師という。日にちを切ってお願いすると叶えてくれるそうだ。

1キロほどで温泉街に入り、立派なホテルも並ぶ。例えばバスツアーで来るような団体遍路などは、このようなホテルにも泊まるのだろうか。また一方ではユースホステルやゲストハウスもあり、バックパッカーには人気である。私も大学に入る前初めて松山に来た時には道後の松山ユースホステルに泊まった。初めてのユースホステルであり、その後、学生や社会人に成り立ての頃は何ヵ所か利用していたが、最近はすっかりご無沙汰している。旅のスタイルが変わってしまった。

伊佐爾波神社にも参拝。長い石段も、この日は金剛杖のおかげで苦にならず上っていく。11月26日、こちらも七五三のご祈祷を受ける家族連れが目立つ。

道後温泉の本館に着く。やはり松山の名所ということで国内外の観光客で賑わう。最近、別館ということで「飛鳥乃湯」というのがオープンしており、どちらに行こうか迷ったが、ここはやはり建物が重要文化財の本館だろう。階下の神の湯と休憩所つきのコースを選ぶ。

久しぶりの昔ながらの浴槽である。何も足さない、何も引かないシンプルな造り。私の四国めぐりでは松山の湯として駅前の喜助の湯を利用しており、わざわざ道後まで入りに来なくても・・とすら書いたことがあるが、やはり歴史あるここは来てよかった。

湯上がりに2階の休憩所で浴衣姿で涼んでいると、そとから何やら歓声、そして太鼓の音が響く。何事かと障子を開けて欄干に出ると、外ではスポーツウェア姿の男子たちが並んでいる。その中には四国アイランドリーグの愛媛マンダリンパイレーツの選手のユニフォーム姿も見える。マラソンでも始まるのかと思ううちに合図で一斉に走り出す。これは「道後温泉一番走り」というもので、道後温泉本館前から湯神社までの250メートルを走り抜けて、「一番桶」を目指すというもの。西宮戎神社の福男選びのようなものか。これが第6回ということで、距離やスタート時刻は回ごとにいろいろ変えているそうだ。

湯上がりに外に出ると前の通路が開けられている。今から女子の頂上決戦ということで、せっかくなのでスタートの瞬間を見る。湯神社には行かなかったのでどのようなゴールの雰囲気なのかは見られなかったが、これから道後のイベントとして定着していくことだろう。

さて時刻は11時を回り、早いが昼食とする。松山市内での食事はとりあえず最後となるので、何か松山らしいものをと思う。そんな中で本館前のアーケードに入ると、すぐのところに「魚武」というのを見つける。表に「愛媛を食べつくせ!」というキャッチコピーがある。

ここで瀬戸内の刺身、じゃこ天に鯛めしがセットの御膳を注文。松山市のことで、鯛めしといえば、ぶっかけご飯の南予風と、鯛釜めしの東予風の両方があるが、ここは釜めしを選択。できるまで時間がかかるということを理由に、道後の湯上がりとして道後ビールをいただく・・・いや至福の味。鯛釜めしもしっかり鯛の風味を感じることができた。

さてここから松山城に向かう。最初はこの記事は帰りのバスに乗るまでのことを一気に書くつもりだったが、道後で昼から一杯やるところまでで長くなった。だらだら引っ張って申し訳ないですが続きはこの後の記事で・・・。
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第13回四国八十八所めぐり~第51番「石手寺」

2017年12月04日 | 四国八十八ヶ所
四国八十八所をこれまで50あまりを回ってきたが、これから訪ねる石手寺というのは中でも有名な寺ではないだろうか。道後温泉とセットで観光で訪ねる人も多いと思う。そうした観光名所の寺として知られる一方で、人によっては「珍スポット」と見ることもあるようだ。

さてへんろ橋から山門に着くと、道路に面してブッダやその他の石像が並ぶ中、「集団的自衛権不用」と書かれたパネルが立てられている。これまでの札所でこのようなメッセージが正面に掲げられているのを見たのは初めてだ。

まずは手水場で手を清める。ふと横を見ると膝まづく男性の石像がある。その視線の向こうには弘法大師が立ち、男性の横には一体の球形の石が安置されている。ご存じの方も多いだろうが、この男性は衛門三郎である。前にも徳島の焼山寺、そして前回久米の南の文殊院で衛門三郎の像があった。

石手寺は元々安養寺という名前で、聖武天皇の勅願で行基が薬師如来を祀ったとされている。それが石手寺という名前になったのは、四国遍路の末にようやく弘法大師に出会った衛門三郎が、最期に「河野氏の家に生まれ変わり、世のため人のために尽くしたい」と弘法大師に語った時に、弘法大師はその手に石を持たせた。後に、河野氏に一人の男の子が産まれたが、生まれつき左手を結んで離さない。そこで安養寺で祈祷してもらったところ、左手が開いて、中から石が出てきた。その石には「衛門三郎再来」と書かれていた。このことから石手寺と言われるようになったという。遍路の初めとされる衛門三郎に関する寺ということで、八十八所めぐりの中でもポイントになるところだ。

名物のやきもちや遍路用品、仏具など売る回廊を抜けると、国宝の仁王門に出る。巨大な草鞋が奉納されている。ただここで仁王門を彩って?いるのが、何やら七福神の像や、先ほどもあった「集団的自衛権不用」の看板、さらには山積みのパンフレット、小冊子の類である。その小冊子も、仏教と日本国憲法の関連について書かれたものや、今の大乗仏教というよりはブッダの教えについて書かれたもので、色合いも派手である。質素な感じの雰囲気が多い四国の寺にあって、結構賑やかだ。何やら政治臭がしないでもない。

とは言え、仏教というものをベースに、あるいは本当の仏教の意味を発信しようという積極性はこれまでになかった光景である。私もあちこちの札所めぐりをしているが、あまりそうした面は意識していなかった。たまには(と言うと怒られるだろうが)仏教について正面から見るのもいいだろう。ということで、何種類かの冊子をいただき、とりあえずリュックにしまう。

境内は広く、正面奥の本堂とともに、手前の三重塔が存在感ある。その三重塔の前にも千羽鶴やら、不戦、平和についての文字が並ぶ。ここまで来ると「平和」というのが石手寺の訴えるところであり、そのベースには「不殺生」というのがあることが伝わる。そして、それを積極的に発信しようとしていることも。その意味で非常に現代的な寺だなと思う。

本堂に向かう。その前には、平和を祈念するとして愛媛県知事、松山市長や、地元選出の国会議員の名前が書かれた札が立つ。ここでいつものようにお勤めだが、何だか空気に圧されているように感じる。

本堂からは矢印に導かれるように、裏手の洞窟に向かう。地底マントラ洞窟というもので、石手寺が珍スポットだとか妖しいだとか、一方でパワースポットとも言われる要因の一つだそうだ。「100円以上のお気持ちを」とあるので、100円玉を賽銭箱に入れて中に入る。

金剛界と胎蔵界という密教世界を体感できるとあるが、果たしてその意図することはどこまで伝わるか。中は照明はあるが暗く、金剛杖を頼りに前に進む感じである。歩けばものの数分の長さだが、入ってみると実際の時間より長く感じる。そこをくぐって外に出ると山道が現れた。ここでさらに歩くと石手寺の奥の院ということでさまざまな仏像が並ぶ一角(珍スポット)に着くのだが、この時の私はそうしたことは知らず、また洞窟を引き返し、さらに横手にある暗い洞窟を抜ける。洞窟を歩くのも修行というか、金剛界、胎蔵界を実体験しようというもので、洞窟内にもいくつかの仏教用語の解説板があるが、これらを理解するにはこちら自身の頭をもっとフラットにしなければならないなと思うところである。

ちょうど出たところが大師堂。こちらは落書き堂の異名があり、かつては正岡子規や夏目漱石も何か書いたそうである。ただ、こうして見ると全体的に意味不明というか、昔の人に比べて落書きの中の語彙や発想も貧弱になっているのかなという感じがする。

大師堂でのお勤めの後、三重塔の下に出る。塔の下の二辺に砂袋が置かれている。四国八十八所のいわゆるお砂踏みであるが、ここは衛門三郎ゆかりの寺、お砂踏みは88番からの逆打ちでするようにとある。その順番で回り、第1番の霊山寺で終了。ここで、衛門三郎に関する小冊子をいただく。後日これを読んでみたが、衛門三郎伝説というのが改めて深い話だと紹介されている。また「新訳』として、衛門三郎が弘法大師(初めに衛門三郎の屋敷を訪ねた時は貧しいボロボロの僧の姿)を追い払ったのはなぜか、また衛門三郎がずっと四国を回り続けたのはなぜか、逆打ちの理由や意味は何なのか・・・ということについて、石手寺としての解釈を紹介している。さまざまな表現に限界のある古文に現代的な解釈を加えたもので、衛門三郎側からのアンサーソングのような構成だが、こういう解釈ができるのかと、なかなかうなるものがある。これまで聞いていた衛門三郎の話に、「一石」投じる感じである。石手寺における衛門三郎伝説の解釈をベースに映画一本できるのではないか。

それはさておき、三重塔の前のお堂が納経所で、ここでご朱印をいただく。ちょうど団体客の添乗員が納経所で大量の朱印帳を出している中で、途中割り込んだ形である。この前もこの後も、境内では白衣、笈摺姿の人を多く見かけていて、巡拝ツアーに参加の人たちも石手寺にはいろんな期待を胸にお参りしていることだろう。

これで石手寺はおしまいにしてもいいのだろうが、せっかくなので宝物館に向かう。入館料200円は入口の賽銭箱に納める方式で、中は史料保存のためか薄暗い。そこに、衛門三郎が生まれ変わった時に手にしていたという石が展示されている。衛門三郎が石を手にして河野氏の家に生まれ変わるというのは現実にはあり得ないことだし、話としてでき過ぎていると思う。衛門三郎の伝説じたいが伊予の権力者だった河野氏の創作であると思うが(五来重の『四国遍路の寺』でも、石手寺については寺の知名度の割にはあっさりとした記述で終わっている)、単なる創作なら現代にいたるまで遍路の話として伝わることもないだろう。

宝物館を出て、仁王門に向かう。途中には、戦争や災害で苦しむタイやミャンマーなど東南アジアの国々へのボランティア活動について紹介したパネルが飾られている。こうしたことも石手寺の積極的な活動なのだろう。これらを見てふと思い出したのは、西国三十三所の中でも前衛的な活動をしている壷阪寺。あちらは巨大な石仏を建てたりして「珍スポット」と紹介される一方で、目の不自由な方への支援を積極的に行っている。この石手寺とも根っこのところでは同じような精神があるのかなと思う。

これで石手寺のお参りは終了。この後は松山めぐりの定番ということで、まずは道後温泉を目指す。四国八十八所めぐりもこれで松山市内シリーズは一段落・・・・。
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第13回四国八十八所めぐり~第50番「繁多寺」

2017年12月03日 | 四国八十八ヶ所
浄土寺を後にして次に向かうのは繁多寺(はんたじ)。2キロ足らずの道ということでそのまま歩いて行く。しばらく県道を歩くが、そのうちに歩道がなくなる。県道もクルマの交通量が多く、結構ヒヤヒヤする。

そこへ、園芸店のところに「右へんろ道 左御城下」という石柱が出て、歩きは側道に案内される。こちらはクルマが来ないのでほっとする。その奥が墓地になっていて、その間を抜ける。後は右手に山、左手に住宅地という中を歩く。松山郊外の閑静な住宅地という趣である。

浄土寺から20分ほど、最後は坂道を上って高台に出る。松山市街を見ることができる。その中のこんもりした丘は松山城である。天候が良ければ瀬戸内海も見渡せるとあるが、この日はあいにくの曇り空である。山門に着くが、仁王像はなく屋敷の門のような構えである。

幅の広い境内、正面の奥に山を背にした本堂が建つ。この辺りは景観樹林保護地区に指定されているそうだ。

繁多寺は孝謙天皇の勅願により(昨日から回っている寺は聖武天皇や孝謙天皇の勅願というのが続いている)、行基が本尊の薬師如来を祀ったというのが由来とされている。五来重の『四国遍路の寺』によると、元々は背後の山である東山で修行していた行者たちが麓に招かれて病気を治したり占いをしたのが繁多寺の由来だとしている。山の寺に対して、「畑の寺」ということで「はたでら」と読んだとか。確かにこの辺りの町名は「畑寺」である。一時は衰退したが、平安から鎌倉時代にかけて再興し、時宗の一遍もこの寺に籠って修行したことがあるそうだ。

本堂の左手には鳥居があり、お堂が一つある。こちらは歓喜天を祀っている。江戸時代には徳川家の帰依を受けたそうで、歓喜天は四代将軍家綱の念持仏だったという。

そうした由緒ある古刹なのだが、繁多寺はある筋では有名なスポットである。「水曜どうでしょう」での人気企画である四国八十八所めぐりの第3弾のこと。いつもの大泉洋さんに加えて、ミスター(鈴井貴之さん)、安田顕さんの3人で逆打ちで回り出したが、この2人はスケジュールの都合で道後温泉でお別れ。いつもの一人になった大泉さんがテンション下がった状態で繁多寺で寺のコールを終えた後、本堂から白衣姿の男が走ってくる。「50番、繁多寺!、ファンタジ~!!」と叫ぶその主は、大泉さんが所属する劇団のリーダー、森崎博之さん。これはディレクター陣がしかけたドッキリで、素で驚く大泉さんの表情と、この後、マンネリになりかけだったクルマ遍路も一味違った盛り上がりになったということで、どうでしょうの名所の一つと言ってもいいだろう。

寺そのものは東山山麓ののどかなところだが、例えばここから松山市街の夜景などを見れば、「ファンタジー」な場所・・・かもしれない。

納経所で朱印をいただいた後は、石手寺である。時刻はまだ8時半で、石手寺までは3キロほど。このペースで行くと、石手寺まで行った後で松山市街を回る時間は十分確保できそうだ。

遍路道は桑原八幡神社の前を過ぎ、住宅地に入る。地図で見ると県道から一本中に入った道で、クルマの通行がほとんどないので安全ではあるが、果たしてこの道で合っているのかなと時折不安になる。

そんな中で再び県道に合流する。この辺りは歩道もあるので安心して歩く。石手寺までの距離が少しずつ短くなり、石手川にかかる橋を渡る。渡り終えて欄干を見ると「へんろ橋」とある。道後温泉の歴史スポットの一つとしても紹介されているようで、橋のたもとの案内板では「白衣に金剛杖のお遍路さんに出会えるかもしれませんよ」とある。まあ、私が通ったところで別に誰かが声をかけるわけでもないが。

「へんろ橋」を渡り、そのまま進むと石手寺の前に出る。道後の観光スポットとしても有名なこの寺に足を踏み入れる・・・。
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第13回四国八十八所めぐり~第49番「浄土寺」

2017年12月01日 | 四国八十八ヶ所
11月26日、松山市内に残した浄土寺、繁多寺、石手寺を回る。これに道後温泉や松山城をつけるとなると、朝から回ることになる。朝食はホテルのレストランは利用せず、前日にコンビニで買っておいたもので済ませる。

まだ夜明け前の松山駅前から、一度松山市駅前に市内電車で移動する。帰りは松山市駅前から高速バスに乗るので、駅のコインロッカーに荷物を預けるためである。6時37分発の横河原行きに乗車する。目指すのは前回のゴール地点だった久米駅。

15分ほどで久米に到着した頃、ようやく外も明るくなってきた。ただどんよりした雲が空を覆っている。冬の感じである。天気予報では松山市内は曇り、降水確率は10~20%とある。四国の各札所の納経所の時間は、一ヶ所を除いて7時~17時とされているのは、もっとも日が短い冬の時季の日の出から日の入りまでだからというのが実感できる。新しくてきれいな駅の待合室で金剛杖を取り出し、白衣を羽織る。

浄土寺は駅から歩いて数分のところ、そろそろ納経所が開く時間かなと向かうが、その手前に立派な造りの神社に出会う。日尾八幡神社である。長い石段が伸びており、これは由緒がありそうだと、まずは敬意を表してこちらにお参りする。

日尾八幡神社は奈良時代、孝謙天皇の勅願で宇佐八幡から祭神を招いたのが起こりとされている。祭神も神功皇后、応神天皇、宗像三女神をはじめとしてさまざまに祀られている。また、以前は別のところに祀られていた伊予比売命(いよずひめのかみ)という女神は、伊予の国の地主神とされている。源頼朝、河野通信、加藤嘉明といった、各時代の有力者たちも社殿の改築を行い、松山藩も厚く保護したという。

また、境内の一角には東道後神社という祠がある。前回、札所めぐりの最後に東道後温泉「久米之癒」を利用したが、その時、東道後温泉というのが安政の大地震の時に浄土寺の境内から大量の湯が湧き出たのが始まりという歴史に触れた。それと、日、月、星の神を祀る東道後神社の信仰が重なったということが、東道後温泉の賑わいにつながったとされている。今回は時間の関係で東道後温泉には入らないが、前回から話がつながった形で満足する。

日尾八幡神社の境内から脇道を下ると浄土寺がある。墓地の間を抜け、いったん境内の脇から外に出て、改めて山門の前に立つ。地元の人たちの散歩ルートのようで、おはようございますと声をかけられる。正面の本堂が山を背にした形で建つ。

浄土寺も孝謙天皇の勅願とされていて、恵明上人により開かれ、行基が本尊の釈迦如来像を祀ったという。後に弘法大師が伽藍を再興したことから四国の札所の一つとなったようだ。ただ、先の日尾八幡神社に比べると歴史が薄いように思う。日尾八幡神社が歴とした存在で、浄土寺というのはその別当寺だったのかと想像する。別当寺にしては境内は結構広いが・・。

この浄土寺は釈迦如来を本尊としているが、本尊の厨子には、平安時代に諸国で念仏を唱え、浄土思想を広めた空也上人の像が安置されている。空也は3年ほど伊予に滞在したそうで、その間に念仏を広めたとある。空也といえば、京都の六波羅蜜寺にある口から南無阿弥陀仏と仏を吐く像が有名だが、浄土寺に安置されているのはそれと同じような像だという。

ただこの空也上人像も秘仏扱いのようで、やはり目立つのは四国の札所としての弘法大師である。本堂隣の大師堂でもお勤めをしていると、地元の散歩の人が本堂や大師堂にやって来て手を合わせる。境内にも弘法大師の千何百回忌を記念する石柱が並ぶ。

納経所に向かう。手前の庭では七福神の像が参詣者を出迎えてくれる。納経所には誰もおらず、ブザーを鳴らすと奥から若い僧が出てきた。この日の納経所は私が口開けかな。

次は50番の繁多寺を目指す。地図によれば2キロほどということで、再び日尾八幡神社の前に出てから、北へと歩き始める・・・。
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第13回四国八十八所めぐり~松山でエビス顔

2017年11月30日 | 四国八十八ヶ所
太山寺、円明寺と回ってJR松山駅に戻る。ここで宿となるターミナルホテル松山へ。昼に荷物を預けた時に支払いは済んでいるので、そのまま部屋のカギと荷物を受け取って中に入る。

部屋は喫煙室だが角部屋が当てられていて、窓の外はちょうど市内電車の松山駅前である。電車がガタゴト走る音がよく聞こえる。それをうるさいと感じる人にはあまり居心地がよくないだろうが、私としては面白い。前回の松山宿泊はすぐ近くのホテルサンルートだったが、その時は予讃線の線路を見下ろす部屋だった。いずれもリクエストしたものではないが、そうした部屋割りも八十八所めぐりのおかげかなと、勝手にありがたく思う。

さて夕食として外に出る。わざわざ大街道、銀天街まで行かなくても、駅前の数少ない店でよしとする。前の時は2泊でそれぞれ違う地元チェーンの居酒屋に行ったが、今回は「大衆酒場」的なところに入る。松山駅の交差点の角にある「大衆酒場エビス」。

開店直後ということで私が一番乗り。店そのものは新しい感じだが、内装はしっかり大衆酒場の感じがする。ホッピーも店の推しの飲み物だ。

メニューは大衆酒場に付き物の一品がいろいろあるが、おすすめには瀬戸内の魚や地鶏が並ぶ。「媛っこ地鶏」のモモ肉を刺身でいただく。愛媛県のいくつかの地域で育った地鶏にこのブランド名がついていて、こちらで出されたのは宇和島の三間町産だという。三間町といえば四国八十八所めぐりでも龍光寺、仏木寺を訪ねていて、のどかな景色を思い出す。

ふぐの刺身もいただく。ふくさしとなると皿の上に薄切りを丸く乗せたものを想像するが、こちらで出たのは厚めに切られ、普通の魚の刺身のように盛られていた。歯応えを楽しめる。

これらに合わせるのはホッピー。グラスに焼酎を結構多めに入れてくれるのでちょっとキツメだが、松山でホッピーを濃くいただくというのが、ディープな一時に感じてしまう。

入った時は他に客はいなかったが、開店すれば立地条件の良さもありほぼ全ての蓆が埋まる。多くは観光客というよりは地元客のようで、隅のカウンターに座ったのは常連さんらしく、店員と気軽におしゃべりしていた。

この「大衆酒場エビス」には看板メニューとして「エビスセット」というのがある。自分で七輪の炭火で肉や野菜を焼くのだが、これが結構なボリュームである。ワンドリンクつきで1200円で、ドリンクが300~400円だから、それを差し引くとお得感が増す。客の多くがエビスセットを頼むために、あちこちから七輪の煙が出てくる。焼肉店と大衆酒場がごっちゃになった感じで、これは面白い。

炭火焼の味を楽しんだところでおしまいとして、その足で隣のスクエアにあるキスケBOXに向かう。もちろん、喜助の湯に入るためである。ターミナルホテル松山では割引入浴券を販売していて、タオルは部屋のものを持参することができる。二種類の成分の湯を楽しみ、入浴後は休憩室でくつろぐ。ここはすっかり私なりの松山での癒しスポットになった感がある。

ホテルに戻りゆったりする。翌26日は後回しになった第49番の浄土寺、第50番の繁多寺、そして第51番の石手寺と回り、道後温泉と松山城を訪ねる。なお大阪に戻るためのバスは、伊予鉄道の松山市駅前を14時30分に出発する。松山市内8ヶ所めぐりの最後はどのような形になるだろうか・・・?
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第13回四国八十八所めぐり~第53番「円明寺」

2017年11月29日 | 四国八十八ヶ所
山の中の大寺という感じの太山寺を後にして、次の第53番の円明寺(えんみょうじ)を目指す。距離は2キロほどで、先ほどバスで通った県道を道なりに行けばよいとある。今度は交通機関もないことからそのまま歩いて行くことにする。

太山寺の仁王門を後にして200メートルほど歩くと、県道に面した一の門に出る。一応門の建物はあるが、別に鎌倉時代からのものというわけではない。ただ改めて門から寺のほうを振り返ると、仁王門が小さく見える。これだけの規模、歴史のある寺なのに、松山の中でメジャーな観光地として紹介されていないのが奥ゆかしいと思う。松山の寺といえば、道後温泉にある石手寺の名前が挙がるが、順番が逆になるものの明日訪ねることにしている。

県道を歩くと交差点の一角にコスモス等の花が植えられてちょっとした憩いの場になっているところがあり、片廻というバス停がある。これは松山市駅から運転免許センターを結ぶ系統で、30分に一本くらいの本数がある。太山寺から歩いて10分くらいのところにあったから、太山寺へのアクセスにも使えそうだ。

ここからは平坦なルートで、淡々と歩く感じである。見る限り、他に歩いて札所を回っている人はいないようだ。この辺りは和気というところで、円明寺の近くには予讃線の伊予和気駅がある。「和気」と聞いて思い浮かべるのは奈良~平安時代の政治家である和気清麻呂だが、その一族と直接の関係はないそうだ。ただそうした地名が残っていることは、その当時からの歴史を感じさせる。

県道は右手に曲がるが、寺へは細くなった道を直進する。道の左手に円明寺の山門がある。先ほどの太山寺とは対照的に、和気の集落に溶け込んだような雰囲気がある。寺の周囲にも高い土塀があるわけでもなく、気軽に出入りできる雰囲気だ。山門をくぐると境内の中央に中門があり、正面奥に本堂がある。本堂の中の欄間に、左甚五郎の作とされる龍が彫られているそうだが、よくわからない。

円明寺はこれも聖武天皇の勅願で行基がこちらは阿弥陀如来を祀ったのが開創とされている。当初は近くの海岸に建てられたが、度重なる兵火のために衰退し、江戸初期に地元の豪族の手で現在地に移されたとある。札所といいつつも、町中の神社を思わせる雰囲気なのはそれと関係あるだろうか。

山門の近くにある大師堂でもお勤めとする。

この大師堂の左奥、いくつかの石柱が並ぶ奥にひっそりと立つのが「キリシタン灯籠」。江戸時代、キリスト教は禁止されていて、「隠れキリシタン」という信仰があったことは歴史の時間で習う話だが、長崎とか島原、天草とか、九州に多い印象である。これまで、観音像に似せたマリア像や、天神様だったかにキリストや十字架を埋めたものを史料で見たことはあるが、四国にこのような、灯籠というか墓石のようなものがあるとは知らなかった。後でネットで見たところ、愛媛県にはキリシタン関連の遺跡や遺物が結構あるそうで、西では伊予大洲、内子、東では伊予北条から今治にかけて見られるという。円明寺の大師堂のそばにひっそりと立つのは、弘法大師ならおおらかに守ってくれるかなという姿にも感じられる(もし、キリストと弘法大師がガチで議論したらどのような中身になるか・・というのは置いておく)。

この後、境内の観音堂や不動明王像などに手を合わせて、最後に納経所でご朱印をいただく。これで53番まで来たが、途中の49~51番を飛ばしている。これは翌日に回ることにして、時刻は15時半近くとまだ早いが本日はここまでとする。

円明寺から3分ほど歩いて伊予和気駅に着く。改修工事中のようでフェンスが置かれている。ここで白衣を脱ぎ、金剛杖をケースにしまう。壁に、円明寺、太山寺、石手寺への道順を書いた紙が貼られている。八十八所めぐりで利用する人もそれなりにいるのかな。次に乗るのは15時34分発の伊予市行き。かつては貨物を扱っていたという側線のレールが残るホームから乗り込み、松山まで2駅揺られる。バスで松山駅に着いてから3時間あまりで2ヶ所を回ったことになる・・・。
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第13回四国八十八所めぐり~第52番「太山寺」

2017年11月28日 | 四国八十八ヶ所
JR松山駅から歩いて3分ほどの伊予鉄道大手町駅から13時02分発の高浜行きに乗る。終点の高浜の先には松山観光港があり、呉、広島へのフェリーが出ている。JR西日本ではこのフェリーを絡めて広島と松山を周遊するきっぷを発売している。今回は松山が目的地ということで、一時このきっぷの使用も考えてみたが、新幹線がのぞみの限定便ということで見送りとした。

車内は座れるくらいの乗車率だが、先頭部で前面展望を楽しむ。まずは市内電車との平面交差。全国的にも珍しい鉄道風景である。

続いては古町駅。高浜線と市内電車の接続駅だが、松山駅前を経由した市内電車の線路が左から近づいてきて、高浜線の線路を斜めに横切って、右側にあるホームに入る。これも珍しい光景である。

その後、国道を跨ぐ高架線や、JR予讃線との並走もあり、15分ほどで三津に到着した。太山寺へのアクセスとしてここで下車する。スマホの地図を見ると、終点の高浜から山登りで裏手から太山寺に行くこともできそうだ。

三津駅の近くには三津浜港があり、松山では古くに開かれた港町である。夏目漱石の『坊っちゃん』にも登場する。今は山口県の柳井との間のフェリーが出ている。三津の駅舎もそうした港町の観光を意識した感じのレトロ調の建物である。港町を歩くのも面白そうだが、今回はそのまま太山寺に向かう。

駅から太山寺までは地図だと3キロくらいありそうで、これを歩こうと思っていた。しかし駅舎を出ると目の前に「太山寺」と表示されたバスが停まっている。太山寺ループという、太山寺から三津の町中を循環する系統である。日中1時間に1本のバスだが、これだと10分で着くとのことで、これも公共交通機関遍路として乗ることにする。

しばらく町中を走った後で上りに差しかかる。ゴルフの打ちっぱなしがあり、「HIDEKI」という文字とともに、ゴルフの松山英樹選手の看板が掲げられている。この時は、松山選手に何か関係ある打ちっぱなしかなということで、バスで通過しただけで写真も何もないが、この記事を書く中でびっくりしたのが、松山出身の松山選手が幼少期にここで練習していたということである。種目は違うが、イチローが愛知で練習していたバッティングセンターの横を過ぎるようなものである。うーん、知らなかったとはいえバスであっさり通過はもったいなかったかな。知っていれば三津駅から歩いてせめて写真くらい撮っていたことだろう:・・・。

一の門のバス停から狭い参道に入り、太山寺の仁王門前が終点である。石段を挟んで、太山寺の石柱とバス停のポールが並び立つ。

太山寺の創建は飛鳥時代までさかのぼるという。豊後の真野の長者が船で難波に向かう途中、高浜の沖で嵐に遭った。そこで長者が観音様に祈りを捧げると山の上から光が射し込み、嵐が止んで無事に着陸することができた。山の上に行ってみると十一面観音を祀った小さなお堂があり、長者はこれに感謝して、豊後の匠たちを集めて立派なお堂を建てた。これが一夜のうちに組み上がったと言われている。後に聖武天皇の勅願で行基が十一面観音像を奉納し、その後の天皇たちも観音像を奉納している。

現存する建物で特に古いのは本堂と仁王門で、いずれも鎌倉時代、伊予の守護である河野氏の手によるとされている。まずくぐった仁王門は国の重要文化財である。

仁王門をくぐったら境内・・・ではなく、道路がまだまだ先に続く。俳句の町らしく道端に句碑もある。少しずつ坂が急になり、納経所がある本坊からもまださらに奥に上がる。最盛時は七堂伽藍と60以上の塔頭寺院があったというから、山全体が寺だったのかもしれない。

坂を上りきると大日如来や弘法大師像が見える。石に願い事を書いてお供えするというのもある。ここで最後の石段を上がり、三の門をくぐるとようやく本堂に着く。

本堂、堂々とした建物である。こちらは何と国宝に指定されている。鎌倉時代の建立で、どこか武家らしい雰囲気が感じられる。まずはこちらでお勤めとする。境内には白衣、笈摺姿の人も目立つ。多くはクルマなのだろうが、そこへ10人ほどの笈摺姿の学生らしいのがやって来た。金剛杖にリュックで、太山寺を含めたウォーキングも兼ねているのかな。

続いて石段を上がり大師堂にお参り。瀬戸内海に面した山の上ということで、修行にも適したところだったのかなと思う。

その奥に観音像が立っている。足元の案内では「身代わり観音」とある。2001年3月24日、松山沖を震源とする芸予地震が起きた。当時私は広島で勤務していて、地震があったのは覚えている。職場では別にどうという被害はなかったが、帰宅すると棚から落ちたコップの破片が散らばっていた。まあ、整理整頓ができていなかっただけのこと。

この観音像は元々太山寺の奥の院がある山の頂上に立っていた。しかし芸予地震の時に台座から落下した。芸予地震が地震の規模としては大きく、それも地震が少ない瀬戸内で起こったことは、当時広島でもショックなこととして伝えられたが(広島では呉のほうで被害あり)、地震の大きさの割には被害は少なかったとされている。その理由を地元の人たちは「この観音様が身代わりになったからだ」として、この観音像を改めて太山寺に安置した(山頂には「2代目」が建てられているそうだ)。私の部屋の被害がコップが割れたので済んだのも観音様のご加護ということかな。そういうことがあったのか。四国八十八所めぐりをするまで、太山寺という存在すら知らなかっただけに、改めて勉強になった。

太山寺は聖徳太子も訪ねたことから、法隆寺夢殿をモデルとした聖徳太子堂もある。ここは必勝祈願のしゃもじをお供えするようだ。聖徳太子は百済救済のために軍を出していて、その時に伊予に来たとされている。道後温泉が聖徳太子の頃からというのと通じている。結局諸事情でこの時は朝鮮半島まで派兵されなかったが、松山の海側というのが外への拠点になっていたこともうかがえる。

これで境内を回ったとして、今度は坂道を下って納経所がある本坊に向かう。ご朱印をいただき、由緒ある太山寺へのお参りはこれでおしまい。次は第53番の円明寺だが、太山寺から比較的近いところということでそのまま歩いて向かうことに・・・・。
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第13回四国八十八所めぐり~まずは松山行き

2017年11月27日 | 四国八十八ヶ所
11月25日の朝、JR難波駅上の湊町バスターミナルに現れる。今回はJR高速バスの利用ということで、7時05分発の便を利用する。

徳島から数えて13回目ともなれば大阪から四国へのアクセス、また四国から大阪へ戻る手段もさまざまな種類が出てくる。四国に入ってしまえば、札所を回る順番やルートというのはある程度決まったものになるが、私の場合は「どうやって四国に行くか」の計画のほうを楽しんでいるなと感じることがある。なるべく、行き帰りでルート、交通手段は変えたいところで、瀬戸内側に来るとその組み合わせもこれまで以上にいろいろ出るのではないかと思う。

今回の車両は西日本JRバスのグランシート車。前々回、前回と松山からの復路で利用している車両だが、往路で松山にバスで向かうのは初めて。これを早割で購入しており、定価6900円のところがネットでのカード決済で4900円となる。この早割は2席限定のものだが、前回、松山からの帰りで同じように購入したが、パソコン操作のミスか、3列シートの真ん中が当たってしまった。早割では他の空席への変更ができないということでそのまま真ん中の席に座って戻ったが、今回はきちんと窓側の席が確保できた。

朝のバスターミナルは各地へ向かう高速バス、また到着した夜行バスが頻繁に出入りしており、私が乗る7時05分の松山行きの乗り場では、その前に5分おきに続けて高松行きが2本出発し(JRバスとフットバス)、さらにその前は徳島行きが出て行った。ラッシュ時のようである。

3列シート、プライベートカーテンがついた車両である。夜行バスなら標準設備のカーテンが日中の便にもつくということで、移動中のプライバシーを保つというのが売りだが、朝の便だし、カーテンは別にいいかなと思う。周りの景色が少しでも見えればよいかなという感じで、カーテンを閉めているのは乗客の半分くらいのものだった。

土曜日の朝だが大きな渋滞もなく、神戸から明石海峡を渡る。朝日が海によく映えている。天気予報では25日、26日とも雨の心配はほぼなさそうとのことである。

最初の休憩場所である室津パーキングエリアに到着する。これまでトイレの改築工事が行われていたが無事に完成しており、真新しい。ここで10分休憩であるが、グランシート車の場合は、プライベートカーテンを引いている乗客に配慮して、出発前の人数確認は行わないというアナウンスがある。こういうことを言われると、休憩時間でも長々と買い物して乗り遅れてはいけないと、トイレを済ませるとそのまま戻ってしまう。アナウンス通り、時間が来ると静かにドアが閉まる。

鳴門海峡を渡る。橋の上からだとよく見えないが、ちょうど渦潮が見られる時間か、観潮船が回っている。高松道から徳島道への乗り継ぎも以前に通ったルートである。徳島の札所の案内が出ると、四国めぐりを始めた当初のことを思い出す。

徳島道に入り、少しウトウトしたところで吉野川サービスエリアで休憩のため停車する。路面が少し濡れていたのは一雨降っていたか。山の中で紅葉も進んでいるようで、カメラやスマホを向ける人もいる。ただ、あまり見とれて乗り遅れてはいけない。駐車場に戻ると、グランシート車両がもう1台停まっている。高知行きとの表示があるが、大阪から高知行きの始発は松山行きよりも20分早く出たはずである。渋滞でもしていたのだろうか。

なお、ここで時間になり発車しようとすると、おばさんが一人前から走ってきた。松山行きで間違いないのだが、公衆電話で話をしていてテレホンカードが出てこなくなったと言っている。運転手が気づいたからいいものの、もし乗り遅れたらどうなってしまうのだろうか。料金を払えば後続の便に乗せてくれる・・・ことはないか。団体旅行のバスなら添乗員がサービスエリアを走り回って客を捜すのだろうが、高速バスの乗り遅れはやはり自己責任ということか。JRバスにわざわざ訊くことでもないだろう。

川之江のジャンクションから松山道に入る。途中、三島川之江インターに停車して、下車する人もいる。地図で見れば川之江と伊予三島の両駅の中間にある。この辺りもいずれは回ることになるが、高速バスでのアクセスも頭に入れておくことにする。

この後は川内インターにも停車して、松山インターから市街地に入る。クルマの量は結構多いが流れていて、渋滞という感じはしない。「途中渋滞もなく若干早く着いております」という運転手のアナウンスの通り、目的地のJR松山駅には12時39分の定刻より10分ほど早く到着した。

この後は札所めぐりということで、順番がいったん先に飛ぶが、海側の三津にある52番の太山寺に向かう。その前に大きな荷物を預けようと駅のコインロッカーに向かうが、どうやら満杯のようだ。

普通ならここでがっかりするところだが、今回はそのようなことはなかった。駅からすぐのターミナルホテル松山がこの夜の寝床だが、フロントが24時間開いていて、チェックイン日の荷物預かりができるとあった。果たしてフロントを訪ねると快くバッグを受け取っていただき、「受付もできますよ」と言われたので宿泊代も先に支払う。まだ昼なので部屋には入れないとしても、これは手間が省ける対応だった。

昼食は軽いながら地元らしいものとして、駅構内の「かけはし」で名物のじゃこ天うどん。別皿でじゃこカツもいただく。また、四国八十八所めぐりとしては今回で松山駅ともお別れかということで、持ち帰りにじゃこ天単品も購入する。翌日の朝食にも充てる。

昼を回ったところで、これから札所めぐり。まずは三津を目指すとして、伊予鉄道高浜線の大手町に向かう・・・。
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第13回四国八十八所めぐり~松山市内プランニング

2017年11月24日 | 四国八十八ヶ所
私の四国八十八所めぐりシリーズは今回で第13回。前回は松山市内に入った48番の西林寺まで行き、伊予鉄道の久米駅で終了となっている。今回目指すエリアは久米駅近くの49番浄土寺からである。

すっかり晩秋から冬の気配となった11月25日~26日の日程で、松山宿泊ということで予定を組む。札所の他に、道後温泉や松山城といった、いわゆる松山観光の大所も行っておきたい。また、松山までのアクセスは前回がJRの特急「しおかぜ」だったので、今回は変化をつける意味で高速バスで、しかもJRではなく私鉄系(阪急・伊予鉄)のバスで伊予鉄の松山市駅に着くということにする。当初は、25日の朝からバスに乗って昼過ぎに松山に入るとしてプランを考えていた。まずは午後の半日で松山城、道後温泉という観光地を回る。翌26日に久米駅から49番浄土寺、50番繁多寺、51番石手寺を回り、もう一度道後温泉やら松山の繁華街を回った後で帰途につく。松山市内8ヶ所のうち、海側の三津浜にある残り2ヶ所を次回に回す・・・というもの。

ただ、松山行きが近づくに連れていろいろな考えが出てくる。次回に回すとした2ヶ所である52番太山寺、53番円明寺についても、今回で一緒に回ってしまってよいのではとも思う。別に先を急ぐものではないが、松山シリーズの次の今治シリーズも楽しみである。ただこれも1泊2日で回るとなると、2日目の松山出発のリミットが14~15時台ということもあり時間的に厳しいかもしれない。

地図や時刻表とにらめっこするうち、これら5つを一つのエリアとして、回る順番を入れ替えてしまおうということにした。四国については札所順に回るのとしていたが、すでに徳島、高知の一部の札所で順番をシャッフルしたことがある。寺の名前は省略するが、11番まで行った後は、16番~17番~12番~18番~19番、20番~21番、22番~24番~25番~26番~23番~13番~14番~15番と、3回のシリーズでエリアを細かく分けて回っている。今回プランニングとしたのは、25日の午後半日で海側三津浜の52番太山寺と53番円明寺を回り、翌26日に久米駅から49番浄土寺~51番石手寺と訪ねるというものである。石手寺に行った後で、道後温泉や松山城を少しくらい楽しむ時間は取れるだろう。このため、松山までのアクセスはJRバスでJRの松山駅に出ることにした。円明寺へ行った後、最寄りの予讃線伊予和気駅から松山駅に戻るのがちょうどよい感じというのがその理由である。合わせて、当初予定していた市街地のホテルも松山駅前に変更した。一方で、帰りは伊予鉄の松山市駅からとなるわけだが、今回はちょっと意表を突くようなコース取りをしてみた。それが当たりになるかどうかは、行ってから、いや帰る時のお楽しみである。

前回、9月の台風で延期して10月に行ったが全般的に雨模様だった。果たして今回は天候に恵まれるだろうか・・・?
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第12回四国八十八所めぐり~旅の最後は・・・

2017年10月31日 | 四国八十八ヶ所
松山市内には四国八十八所の札所は8ヶ所あるが、そのうち前半の浄瑠璃寺、八坂寺、西林寺の3ヶ所を回り、久米駅で打ち止めということにした今回の四国めぐり。時刻は13時前で、帰りのJRバスは15時30分に松山駅を出発する。残った時間はあと少しである。

そんな中、現在地はその名も東道後温泉。ホテルの他に日帰り入浴ができるところも何ヶ所かあり、その一つである「東道後温泉 久米之癒(くめのゆ)」に向かう。この時点でまだ白衣を着ていたが、係の人や入浴に来ていた地元の人も別に驚く様子はない。

平日の昼間ということで、入っているのはほとんどが地元のお爺さんたち。料金も450円と「銭湯価格」なので、気軽に来ている感じである。洗い場の湯も温泉というのに驚いた。普通の浴槽や源泉かけ流しの露天風呂の他に、岩盤浴もある。サウナ室のようなところで、イス状に造られた岩盤に座って身体を温めるものである。

東道後温泉の歴史がパネルで書かれていて、安政の頃、この地で大地震が起きた時に、49番札所の浄土寺の境内に湯が噴き出して、石段に滝のように流れ出た。この時、道後温泉の湯が止まったので、道後の人たちは浄土寺に参って「道後にお湯を返してください」と願掛けをした。そのためか湯は元通りに道後に戻ったという。

浄土寺の隣に東道後神社というのがあるそうで、日、月、星の神様が祀られている。今の東道後温泉はこの神社の氏子の地に湧き出たということで地元の人に親しまれているそうだ。こういう話に触れると、先に浄土寺に行けばよかったかなと思うが、もしそうすれば東道後神社の存在には気付かなかっただろう。これもまた次の楽しみである。

ロビーが休憩所も兼ねており、おにぎりや麺類といった軽食も置いている。これにて今回打ち止めということで、まずは入浴後の一杯。あとは軽い昼食としてしばらく休む。

久米之癒から久米駅までは歩いて3分ほど。新しい感じの駅舎が出迎える。次回はここがスタート地点ということになる。やってきた電車で伊予市駅に出て、市内電車に乗り継いで松山駅に戻る。バスに乗る前に、駅構内のうどん屋「かけはし」で名物のじゃこ天うどんをいただく。

松山駅15時30分発の神戸・大阪行きは、西日本JRバスの「グランシート」。今回は早割で購入している。松山から大阪まで6900円のところが5000円となり、ネットでクレジットカード決済だと4900円である。ただし2席限定。予約時に窓側の席を指定した。

しかし、スマホ画面上にチケットを表示させてみると驚いた。座席が3列シートの真ん中になっていた。これは予約時の操作ミスだろうか。座席指定ができたつもりのところができていなかったとか。窓口に確認すると、早割の場合は座席の変更はできないと言われる。「今のところ満席ではないので、伊予三島のインターを過ぎるとどなたも乗って来ませんから、空いている席に移っていただいても結構ですけど・・・」と言われる。

どこか空いていれば移ろうかと思い、真ん中の席に座る。車内を見渡しても真ん中に座っているのは私だけのようだ。仕方ないかという感じで出発するが、このグランシート、座席はゆったりしている。また両側の客がカーテンを閉めれば(グランシート車両は、昼行便でも真ん中の席を含めた座席ごとにカーテンがある)プライベート空間が広がるように見える。こちらもリラックスモードだし、また外もそのうち暗くなるし・・・ということで、実際には後方の窓側の席もいくつか空いていたが、もうこのままでいいかということにする。

吉野川サービスエリア、淡路島の室津パーキングエリアという、高速バスでの定番のところで休憩し、順調に湊町バスターミナルに戻ってきた。2泊3日、いろいろなものに出会えた札所めぐりであった。

さて次回からだが、松山市内の残り5ヶ所、その次は今治シリーズと続く。これらはこれからの秋から冬にかけて回ることになるが、ど舞台が瀬戸内側に移るということで、アクセスも新しいパターンが出てくるかもしれない。また時刻表とにらめっこである・・・・。
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第12回四国八十八所めぐり~第48番「西林寺」

2017年10月30日 | 四国八十八ヶ所
重信川を渡り、交通量の多い県道40号線沿いに西林寺に着く。小川があり、それをまたぐ石の橋の向こうに山門がある。仁王像が立つ山門はこの日初めてである。

こちらは聖武天皇の勅願にて行基が建立したとされ、当初は別の場所に建てられたという。それが弘法大師が四国修行でこの地に来た時に国司と協議して、現在の場所に移したという。また、この頃村は干ばつで苦しんでいたが、弘法大師は錫杖を突くと清水が湧いたという。今回は行かなかったが、寺の西に杖の淵公園というがあり、現在では全国名水100選にもなっている。先の記事の衛門三郎ではないが、西林寺を市の北側の山の中から重信川の近くに移したというのは、治水との関係なのか、弘法大師に何らかの意図があったのだろうか。

境内には屋根つきの休憩所があり、雨宿りする人もいる。その中には朝方に浄瑠璃寺までのバスに乗っていた、白衣姿ではないほうの男性もいた。まずはお参りということで本堂に向かう。こちらは18世紀の初め、宝永年間の再建だという。本尊は十一面観音。

続いての大師堂は、本堂と比べて新しい感じがする。ネット記事によると2008年の再建とある。さらにその手前には何かのお堂の工事中である。古いものと新しいものが混在している感じだ。

こちらでご朱印をいただく。ちょうど12時を知らせるチャイムが鳴る。バスで浄瑠璃寺に着いたのが9時過ぎだったから、3時間で3つの札所プラス別格霊場一つを回ったことになる。お参りを終えて山門を出ようとすると、法衣姿の人たちが外からぞろぞろと入ってくる。遍路バスツアーの団体ではなく、プロの僧侶たちである。門の前に停まっていたバスの表札を見ると、高野山真言宗の僧侶たちだ。こういう人たちも四国八十八所の巡拝ツアーだろうか。

さてここからは伊予鉄の久米駅を目指して歩くことになる。クルマなら県道40号線をそのまま北上すれば着くところだが、ちょうど遍路道は県道から離れる。高井という地区を行く。昼食をどうしようかと思うが、このまま駅まで行ってしまうことにする。なお時間的には久米駅に近い浄土寺までお参りできるくらいの時間はあると思うが、これは次回に取っておくことにする。

近郊の住宅地の中を歩く。この日は右手に折り畳み傘、左手に金剛杖という格好で歩いているが、半日雨に降られるというのは初めてのことだった。四国めぐりも半分を過ぎたからか、あるいはこの雨のせいか、杖に貼っているステッカーも少しずつはがれてきている。バファローズのステッカーはともかく、四国アイランドリーグのロゴとキャラクターのシールはもう非売品である。これはこれで四国を回る印としてそのまま残しておきたい。

再び県道40号線に入り、国道11号線との交差点を過ぎる。この辺りから久米地区に入る。ここまで来ると住宅も増えてきた。沿道の久米小学校の校門の前には埴輪が並んでいる。6年生の卒業制作というが、この辺りも古墳の歴史があったのだろうか。

さてこのまま向かえば久米駅に着くわけだが、雨にも濡れたし、せっかくなのでひとっ風呂浴びることにする。何でもこの辺りは東道後温泉というところのようで・・・。
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第12回四国八十八所めぐり~別格9番「文殊院」、札始大師堂

2017年10月29日 | 四国八十八ヶ所
47番の八坂寺を参拝した後、48番の西林寺に向かう。距離は4.5キロということで、1時間ほどで着く感じである。この辺りは恵原(えばら)地区というところで、周辺の案内板には「お遍路の里」という表示がある。遍路道は一旦ため池のほとりや諏訪神社の前を通り、来る時にバスで通ってきた古い集落の道に出る。

前の記事でも触れたが、この四国めぐりの時は総選挙期間中。候補者の宣伝カーも回っているところ。通りを歩いていると後ろからとある候補の名前を連呼する宣伝カーがやってきた。私を追い越す時、「お遍路中、後ろから失礼します!!」と呼ばれ、車内から運動員の人たちが手を振る。そういうので声をかけられたのは初めて。ちなみにこちらは松山市内でも愛媛2区に属する。

バスで浄瑠璃寺に行く途中に、弘法大師の石像が立つ寺があったのが気になっていた。そして、通りを行くとその寺にやって来た。四国霊場の別格9番の文殊院というところ。別格二十霊場については特に予習していることもなく、こんなところにもあるのかと初めて知った。別格二十霊場とは、八十八所とは別に、弘法大師にゆかりがあったり、伝説が残っていたりする寺で、私のこれまでの四国めぐりの中では、これまで鯖大師、龍光院、十夜ヶ橋というところを訪ねている。それらはスケジュールを組む中で立ち寄ろうとあらかじめ決めていたものだが、この文殊院というのは全くのノーマークだった。

ただ、道沿いの看板を見てうなった。「四国八十八ヶ所発祥の寺院 四国遍路開祖 文殊院」とある。弘法大師が衛門三郎の子どもの供養とともに悪因縁切御修法を行ったとある。衛門三郎というのは・・・第12番焼山寺からの下りにある杖杉庵で登場する。衛門三郎は伊予の長者・豪族で、強欲非道な人物とされている。ある日、屋敷の門前に一人の僧がやって来て食べ物を乞うたが、衛門三郎はこれを追い払う。その後、僧は何日も屋敷に来るが衛門三郎は食べ物を与えるどころか、僧が持っていた鉢を投げ捨てて割ってしまう。僧は立ち去ったが、あくる日から衛門三郎の子どもたちが次々と亡くなった。衛門三郎は、僧が弘法大師であることを悟り、無礼をお詫びしなければと弘法大師を追って四国を回るが、20回回っても弘法大師に会うことができない。そこで21度目に逆回りで回ったところ、焼山寺の麓でようやく弘法大師に出会うことができた。衛門三郎は一連の無礼を詫び、弘法大師もそれを許すとその場で亡くなった。

衛門三郎が四国遍路の開祖であるとか、逆打ちの始まりだとかいう伝説であるが、上に書いたように伊予の国の長者・豪族である。その本拠地というのがこの恵原で、この文殊院は屋敷の跡に建てられたとされている。また、弘法大師も文殊菩薩に導かれてこの地に滞留したことから、文殊院の名前がついたという。

本堂と大師堂が並ぶ形で建っており、せっかくなので本堂でお勤めとする。「四國遍路開祖発祥地」という札が誇らしげに見える。

本堂の前に大きな弘法大師像が立つ。そしてその脇には衛門三郎と妻の石像が立つ。杖杉庵で見た衛門三郎像は、追い続けた弘法大師に許しを請う場面をイメージしていて悲壮感もあったように見えたが、こちらでは弘法大師に深く帰依して「どこまでもお供させていただきますよ」という感じに見える。

納経帳の残りページが少なくなっていることもあり、ご朱印まではいいかなと、再び傘をさして進む。「お遍路の里」を名乗るだけあって、遍路道の案内もきちんと出ており迷うことはない。郊外の住宅や田畑、工場などがある中を黙々と歩くうち、「札始め大師堂」という文字を見る。これは何だろうか。

遍路道沿いに小さなお堂があり、「四国霊場 遍路開祖衛門三郎 札始大師堂」の表札が掲げられている。脇には「お大師様お泊跡」の石碑もある。中にお入りください」との札があったので、雨宿りを兼ねて中に入る。奥には小さな弘法大師堂が祀られており、ここでもお勤めを行う。

この札始大師堂、小村大師堂という名前でその縁起が書かれた紙があったのでいただく。それを読むと、こちらでも衛門三郎に関する話が出てきた。その内容を書くと・・・。

弘法大師が修行と産業振興のためにこの地にやって来て、大河(現在の重信川で、当時は伊予川と呼ばれていた)を渡ろうとする時に日が暮れたので河の中洲の松の木の下で野宿した。しかし雨で川の水があふれて身動きが取れなくなり、弘法大師は法力でこの地ににわか造りの庵を結んだ。それが小村大師堂の由来だという。弘法大師はここを拠点として近隣を回る中で、上記の衛門三郎との話になる。衛門三郎が弘法大師を追いかけて四国を回るにあたり、ここで庵と弘法大師像を見つけて、自分の印として木の名札をお供えして旅立ったという。それが「納札」の由来とされている。

文章の中で目に留まったのが、子どもたちを亡くした衛門三郎が我が身を振り返るところで「上人は私に何か相談する事があったのではないか」と問いかけ、解説として「上人は当時の伊予川の治水に目をつけられたものと思われる。此の時衛門三郎が大師と共に工事をしていたら衛門川とか三郎川とかなっていると思われる」と書かれたところである。弘法大師が衛門三郎の屋敷の門前で食べ物を乞うたのが、地元の有力者に河川の治水への協力を依頼したことのたとえ話というのが興味深かった。実際には、慶長年間に松山城主だった加藤義明の家臣で足立重信という人が治水工事を行ったことから、現在重信川と呼ばれるようになった。

大師堂を後にして、遍路道も県道に出る。そしてその重信川を渡るが、川の上は風が強い。折り畳み傘の骨が折れそうだ。ここは我慢。対岸には河川敷のゴルフ場もある。治水が進んだ現代でもこれだけの広さの川で、弘法大師の当時というのはもっと暴れ川だったのかなと思う。

ここまで来れば西林寺は近い。川を渡るとまた風も穏やかになり、県道沿いに白衣姿の人も見える。これで到着・・・・。
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