文芸書評を聞いててちょっと気になりだしたら、なんかやたら気になってしょうがないんだが。
文芸の世界で使われる「ノンフィクション、フィクション」というジャンル分け。
時々「フィクションはどっちだったっけ? 創作だったよな」と確認することがある。僕みたいに確認する人 他にも大勢いらっしゃるんじゃないかな。
なぜか? ノンフィクションの「ノン」は否定する「・・・じゃない」の意ですよね。こんな分類法を使うなら「ノン」じゃない側が「はっきりしてる」「確固たる」「優位な」とかそんな「強いもの」であって、「ノン」がつく方は「優位なもの以外の有象無象」みたいに把握しませんか? 感覚的にですよ。
文芸作品を「事実物」と「創作物」と訳して考えると、「事実物」の方がはっきりしてるし、僕には「強いもの」に感じられる。だから「ノン」を付けられるのは「創作物」の方が妥当で、「リアル」と「ノンリアル」って分類してくれた方が感覚的に掴みやすい感じなんです。「本物とそれ以外の創り物」みたいな。
でも、確立された区分用語だからそれに馴染めばいいんです。これ以上とやかくは言いませんが、それならそれでどうしてこうなったんだろうと考えちゃう。
多分こうなんですよ。文芸の芽生えからずーっと「文芸=創作物(小説)」だった。情報化社会が出現してきて「事実を知らせる」ことが重要になり、それまでの文芸と違うジャンルが生まれてきた。そこで区分しようとなって、それまで「主」だった「創作物」にまず「フィクション」の銘を付けた。必然的に「フィクション」じゃない物には「ノンフィクション」の名が付いた。
こうやって名が付いた経緯を推測してみると、若いころからそんなに「フィクション」に親しまなかった僕故のとまどい、混乱なのかも知れない と思うようになった。
文芸の世界で使われる「ノンフィクション、フィクション」というジャンル分け。
時々「フィクションはどっちだったっけ? 創作だったよな」と確認することがある。僕みたいに確認する人 他にも大勢いらっしゃるんじゃないかな。
なぜか? ノンフィクションの「ノン」は否定する「・・・じゃない」の意ですよね。こんな分類法を使うなら「ノン」じゃない側が「はっきりしてる」「確固たる」「優位な」とかそんな「強いもの」であって、「ノン」がつく方は「優位なもの以外の有象無象」みたいに把握しませんか? 感覚的にですよ。
文芸作品を「事実物」と「創作物」と訳して考えると、「事実物」の方がはっきりしてるし、僕には「強いもの」に感じられる。だから「ノン」を付けられるのは「創作物」の方が妥当で、「リアル」と「ノンリアル」って分類してくれた方が感覚的に掴みやすい感じなんです。「本物とそれ以外の創り物」みたいな。
でも、確立された区分用語だからそれに馴染めばいいんです。これ以上とやかくは言いませんが、それならそれでどうしてこうなったんだろうと考えちゃう。
多分こうなんですよ。文芸の芽生えからずーっと「文芸=創作物(小説)」だった。情報化社会が出現してきて「事実を知らせる」ことが重要になり、それまでの文芸と違うジャンルが生まれてきた。そこで区分しようとなって、それまで「主」だった「創作物」にまず「フィクション」の銘を付けた。必然的に「フィクション」じゃない物には「ノンフィクション」の名が付いた。
こうやって名が付いた経緯を推測してみると、若いころからそんなに「フィクション」に親しまなかった僕故のとまどい、混乱なのかも知れない と思うようになった。
今回のコメント 大変面白くて、さらに考えることが広がって来るものです。この本文書いてから「さて自分は」と振り返ってみた。フィクション嫌いが先にあったわけじゃない。ただ読まなかったというだけ。それより表で遊ぶ方が好きだった。本にしたしむ性格で無かった。気が付いたら「理屈っぽい」正確になってた。フィクションが「所詮虚構じゃん」だったかな。理系の頭に構成されてたし。
理系、文系にも通ずる話なのかな。
本に親しむようになったのは司馬遼太郎の時代もの。フィクションであり、ノンでもある。そのあたりからフィクションそのものにも手を出したかな。
「現実を直視しない弱さ」と書いてるけど、そこは性格、いいの悪いのということじゃないだろう。
ということは君は新聞はあまり読まんのかね?
えばれません。
でも生きてる自分に関係してることだからね、聞いてなかったから損したなんてこともでてくるよ。オレみたいに文句言えよなんて言わないから、世の中どっち向いて動いてるかくらいは解釈してないとまずいんじゃないか。
無事帰還して、家のPCから入力です。
、君のブログは、相当広範囲に、世の中をとらえはじめているこてとに、気づいた。的外れの時もあることは感ずるが、君の感性が、相当に、的を得ているとも思う。自分は、それで世の中を知るのだ。自分も学生時代は、有名な新聞社をコネもありながら、二っつとも落ちた。政治的なことへの興味はは、そこいらあたりから、気持ちが失せたのです。
いま、岳さんのブログにより、新聞を読むよりも、短時間で、的確に、この世を捉えられる。これはありがたいことだ。君の好奇心に引っ張られて、君が模索して、苦慮していることが、今生きている日々の、国民の、市民の、人たちの、日々や、苦悩を、かなり的確にとらえていることが、感じられる。自分にとっては指針、あるいは道しるべなのです。新聞は、5分で、大体がわかる。あとは、岳さんの解釈を信じて、頼る方が、自分には納得がいく。そして、有利なのだ。
自分にははっきり言うと、新聞に一時間費やす時間もない。新聞に引きずられたくもない。デレビにも、そしてシステムにも。
傲慢すぎたかもしれぬが、今の気持ちです。
僕だって気分屋で、例えば今はもう菅さんとは決別宣言したので文句は書かないできてる。つまり「メディア的」でいるなら、気分屋はいかん。水平的に網羅してないと と思う。こんな非常に自分的な社会世評でしかないぜよ。
まっそんな偏った見方だって「ひとつの見方」と考えれば正しいとも言えるか。そんなこんなを御理解の上「覗き窓」にしてくださいよ。
そうそう新聞だって「偏ってる」もんだな。それを知ってて読んで、社会見てる。同じか。