「生産手段を人々の管理下に置こう」
国家の下でなく、企業の元でもない、ましてや全地球的組織の下でもない 人々が自発的に組織した集団(コモン)の管理下に置こう。そうすることで「各人はその能力に応じて人々に与え、各人にはその必要に応じて人々から与えられる」社会が実現できる。
資本主義経済の元で人間社会は大きく変わって来た。+の面も大きかったのだろう。しかし、ーの面もいろんな箇所で顕在化してきてる。(格差社会、異常気象、等々) 今の僕には「こういう+があった」とされる点も「ほんとに+なのか?」の疑問符がついてる。「4Gが5Gになったら」「東京大阪間を1.5時間で移動できるようになったら」「歩きながら電話ができたら」人間は幸せなんだろうか? 「幸せな事」だと認めたとしても、反対側に生まれてる「負の面」を加味したら「生きづらくなってる」のかもしれない。
このまま今の調子で歩んでいっていいのか? 幸せに繋がってると自信もって言えるのか? マイナスが増えるとの不安はないのか? 「いい社会だ」と自信もって言えない社会を将来に残していいのか? 「上手く行かんのが、不条理なのが世の中さ」と思考停止してないか?
真剣に考えなきゃいけない、もう待ったなしの時期に来てると僕は考えてる。
でも今の社会論理(がっちり組まれた資本主義経済)の中では別の構造を想像しにくく、ついつい「これが人の世さ」と諦めがちになる。
マルクスの思想が正しいか、誤ってるかではなく、ガチガチに構成されてる今の世の中をあえて外から眺めてみる道具として読んでみる価値があるのではないかと感じた。
僕自身、最初の「労働は自然への働きかけ(=物質代謝)だ」とするところから上手く理解できてない。もうひとつ、「必要だから働きかける」の次に「欲しいから働きかける」という「人の性」がでてくるのではないか。「共同体の中で働きかけ方を議論して」となるのだろうけど、「欲しいと思った人は素直に引き下がって大人しくしてる」だろうか?
資本論を通して現世を垣間見てるが、「やはりこうしかならんのでは」になっちゃう。今回の講師「斎藤幸平」さんが書かれてる『人新世の「資本論」』も読んでみようと考えてる。
国家の下でなく、企業の元でもない、ましてや全地球的組織の下でもない 人々が自発的に組織した集団(コモン)の管理下に置こう。そうすることで「各人はその能力に応じて人々に与え、各人にはその必要に応じて人々から与えられる」社会が実現できる。
資本主義経済の元で人間社会は大きく変わって来た。+の面も大きかったのだろう。しかし、ーの面もいろんな箇所で顕在化してきてる。(格差社会、異常気象、等々) 今の僕には「こういう+があった」とされる点も「ほんとに+なのか?」の疑問符がついてる。「4Gが5Gになったら」「東京大阪間を1.5時間で移動できるようになったら」「歩きながら電話ができたら」人間は幸せなんだろうか? 「幸せな事」だと認めたとしても、反対側に生まれてる「負の面」を加味したら「生きづらくなってる」のかもしれない。
このまま今の調子で歩んでいっていいのか? 幸せに繋がってると自信もって言えるのか? マイナスが増えるとの不安はないのか? 「いい社会だ」と自信もって言えない社会を将来に残していいのか? 「上手く行かんのが、不条理なのが世の中さ」と思考停止してないか?
真剣に考えなきゃいけない、もう待ったなしの時期に来てると僕は考えてる。
でも今の社会論理(がっちり組まれた資本主義経済)の中では別の構造を想像しにくく、ついつい「これが人の世さ」と諦めがちになる。
マルクスの思想が正しいか、誤ってるかではなく、ガチガチに構成されてる今の世の中をあえて外から眺めてみる道具として読んでみる価値があるのではないかと感じた。
僕自身、最初の「労働は自然への働きかけ(=物質代謝)だ」とするところから上手く理解できてない。もうひとつ、「必要だから働きかける」の次に「欲しいから働きかける」という「人の性」がでてくるのではないか。「共同体の中で働きかけ方を議論して」となるのだろうけど、「欲しいと思った人は素直に引き下がって大人しくしてる」だろうか?
資本論を通して現世を垣間見てるが、「やはりこうしかならんのでは」になっちゃう。今回の講師「斎藤幸平」さんが書かれてる『人新世の「資本論」』も読んでみようと考えてる。
情けないが、文句ばかり言いながら、人生を終ることになるのだろう!
勉強して体に入れてしまった考えはどうしても出ますよ。この歳になると動かないけど、経験談の中で伝える そうなっていいんじゃないですか。期待してますよ。
自分としてはもうちょっと体系づけたいな。