カワセミ側溝から(旧続・中岳龍頭望)

好きな言葉は「のこのこ」。好きなラジオ中継「相撲」。ちょっと苦手「煮た南瓜」。影響受けやすいけど、すぐ忘れます。

差別から逃れる帰国事情の顛末

2023-06-11 | HORROR

 北朝鮮帰国事業というのが、戦後大規模に行われたことがある。戦後復興に喘ぐ日本にあって、共産主義国として国家指導で重工業などに力を入れて成長著しいと漏れ伝えられていたお隣の国は、日本の知識人からも「地上の楽園」と謳われ、日本の国内だけでは崇められるような風潮があったという。さらに日本国内には、50万ともいわれる在日朝鮮人が暮らしていた。彼らは何かと日本国内で差別を受けたとされ、十分な待遇を得にくいと考える人々も少なくなかった。そうしてこの帰国事業に乗じて、家族ともども北朝鮮に移住しようと考える人々で殺到した。なかには思想的な人もいたのだろうが、朝鮮人に限らず日本人妻などもともに同行し、延べ93000人にも達したという。
 当時共産主義国から逃れて亡命する人はあっても、西側諸国から共産主義国に逃れる人は皆無と言われた。このような日本の機運に北朝鮮側も戸惑いを覚えていたが、プロバガンダ政策として、同胞ソ連などから強い要請もあり、日本からの移住を受け入れる姿勢に転じていった。
 そうして双方の大いなる夢を乗せて北に向かった船がたどり着いた北の港で、すでに喜劇的な何かの悲劇が始まっていった。北は港をあげて大歓迎の踊りで出迎えたのだが、そもそも日本では虐げられてやって来る可哀そうな一団であるという認識であった。ところが船に乗っている人々は、明らかに小ぎれいな服を着て、ヘアスタイルは多様で、実に豊かそうな人々ばかりなのだ。
 一方船の人々も、港の情景を見て、なんだか異様なものを感じていた。港に舞う土埃の中迎えに来ている人々の顔は、皆黑く日焼けしているように見えた。これは何かの間違いなのではないか。ひょっとすると騙されたのではないか。
 そのようにして悲劇の引き上げ事業は十年近くにもわたって継続された。北に渡った人々は、持ってきていた貴重品や服などを売って糊口をしのぎ、尽きるとそのまま貧困化し、飢えに苦しんだ。多くのものは、再度亡命し韓国や中国、そして日本に帰ってきた。そのまま命尽きるものも少なくなかった。日本からやって来た人々は、皆わがままで言うことを聞かず、政治犯として捕まりやすく監視下にも置かれた。日本で受けてきた朝鮮人という差別から逃れてきたにもかかわらず、帰国人としての差別を受ける生活になったということだったのである。
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