カワセミ側溝から

好きな言葉は「のこのこ」。好きなラジオ中継「相撲」。ちょっと苦手「煮た南瓜」。影響受けやすいけど、すぐ忘れます。

セオリーはどこまで共通認知か

2009-03-10 | 雑記

 勝負の結果は受け止めなければならないということは第一ではある。しかし、なんか日本拙いなあと思う象徴的なのは、八回2アウト二塁の青木の場面だった。
解説の古田の言葉を借りるなら、右サイドスロー投手から左打席の青木の膝元へ来るスライダーは無いというセオリーだった。その古田の解説通り、青木はアウトサイドへのストレートに絞り込んで打席の前に心持踏み込んでスイングした。しかし来たボールはインサイドへのスライダーだった。結果的に引っかけてピッチャーゴロに倒れてしまった。
 これは日本の野球というものの象徴的な姿のような気がした。
 日本のセオリーならそのような投球をしないことは、ものすごい圧力の中当たり前になる。結果論かもしれないが、もしセオリーを無視して内角へスライダーを投げて打たれた場合、首脳部はバッテリーをどのように処罰することだろうか。もし抑えたとしても、冒険を評価するような人がいるのだろうか。
 日本の社会で通用する方式を相手も同じようにやるはずだと考えることで、おそらく国際試合のような場面では勝負を分けかねない。そのような時、やはりセオリーを守ったかどうかを重視するような考えが日本にはないのだろうか。日本が本当に実力があるのに勝てないのだとしたら、やり方に問題があると考える方が自然ではないか。その問題点の一つに、日本独自の社会的セオリーともいえる考え方があるのではないか。確率的に高いものが、安全策といわれるものが、ひょっとすると日本の最大のウイークポイントなのではないかと思うのであった。
コメント (2)
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