カワセミ側溝から(旧続・中岳龍頭望)

好きな言葉は「のこのこ」。好きなラジオ中継「相撲」。ちょっと苦手「煮た南瓜」。影響受けやすいけど、すぐ忘れます。

明日からも出張です

2009-03-01 | 雑記

 今の時期は年度末ということで、いろんな会が出て来いという催促をする。こちらとしても立場上同じように人を集める案内などするのでお互い様だといえるが、しかし同じような面子が毎回集まることも珍しくなく、このような効率の悪さがまさしく日本社会という縮図なのだなあと強く感じる。当事者だから僕らのほうに改革意識がなければならないということは棚に上げてはならないことであるにせよ、実際に内情を知っているからこそこの構図を突き崩すことの難しさも同時に感じることではある。日本が歴史的に外圧でしか変化できなかったということは、そういう事情があるせいかもしれない。
 僕の属している業界は、本当に親方日の丸にどっぷりと依存している体質から絶対的に抜けきれない弱い業界である。必要があってそのようになっているという歴史があるにせよ、悪魔のキスがなければ生きられない情けない生き物であることにかわりがない。個人的にその依存で家族は生計を立てている以上、逆らうことができないということに過ぎないわけで、このような人間的弱さということを思うと、自立ということがいかに大変な勇気を伴うことなのかということも考えないではない。そのような弱みから脱しきれない自己と同業の同志たちを見るにつけ、日本のためにはある程度崩壊したほうがいいということもいえるのかもしれないなどとも思わないではない。もちろん同業者の前では口が裂けてもそのような発言はできない。そして外圧をひそかに期待しているということなのかもしれない。もちろん守るべきものは全力で守る。その上で絶対に生き残ってやる。
 現在の状況は関が原の戦いなのか、すでに西南戦争の段階なのかということも重要かもしれない。関が原ならどちらに転んでもおかしくはない。西南ならすでに無駄かもしれない。そういう意味である。今の視点からだと、どちらも決着は知っているわけだが、当事者としては、そうではなかっただろうという意味である。もちろん今の状況でどちらの立場だということは、ほとんどよくわからない。ひょっとすると勝っても地獄が待っているのかもしれない。
 日ごろはあんまりな愚痴は控えるようにしているのだが、わかりにくい表現で愚痴ってしまった。今の危機的状況は百年に一度のものだというような表現がされているわけだが、もちろんその危機が終わったという認識でいることはまずいだろうとも考えている。僕は依存元である日本という親方を心から信頼しているわけではない。僕らの業界では嘘つきは役人の始まりであるということは公然の秘密であって、これまでも彼らの言葉を翻訳理解することが唯一の繁栄の手段であった。これからは、その繁栄ということから生き残りという表現に書き換えなければならないということになるというのが、正確なところだろう。できることならば災い転じて福となすよう、本当に知恵を絞ることが必要だ。しかし、それは結局のところ外圧によって仕方なく行われることになるだろう。いや、外圧というより崩壊によって仕方なくだ。面白いわけがないが、ほとんど壊れるのだから気づいてしまえばかえって気が楽だ。これからどんな騒ぎが目の前で展開されるのだろうか。考えてみると僕が生きている間にこのようなことが起こるなんて、誰が予想できただろう。人間のめぐり合わせというものは、まったく考えられないような時間の流れの中にいるらしい。そして、やっぱり人間というものは、本当にちっぽけな存在なんだと思うのであった。
コメント
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