カワセミ側溝から(旧続・中岳龍頭望)

好きな言葉は「のこのこ」。好きなラジオ中継「相撲」。ちょっと苦手「煮た南瓜」。影響受けやすいけど、すぐ忘れます。

ふさぎこんでしまう気分だ

2008-11-24 | 時事

 元厚生事務次官殺傷テロの犯人が報道されている通りだとすると、これほど意味の無い殺人であったのかという脱力感を禁じえない。本当だとするとやはり精神異常者である可能性は高そうだし、無罪という方向へ舵が切られていくことになるのだろうか。そうであれば39条をどうにかすべきだということは、本当に真剣に考えなくてはならないことだろう。詐病の可能性も含めて、社会不安が治まらない気もする。
 たかじんの番組をビデオで見ると、裁判員制度のことを取り上げていた。僕はこの制度には不安を持っていたし、はっきりと馬鹿げた愚策だと思っていたのだが、この番組で裁判員制度の問題点を指摘する井上何某という人の話を聞いていると、やはりこの井上氏のような裁判官に判断を任せることの方が問題が大きいかもしれないと思うのだった。本人はきわめてまともに問題を憂いているには違いないのだが、この人がまともな判断が出来る人のようにはとても思えないのだ。ちょっと特殊すぎる感じが漂っていて、小さいことにこだわりすぎて人を裁くことに適さない印象を受けた。すべての判事の代表ではないにしろ、このような考え方の人が判事を務めていたことは事実である。裁判員制度が行なわれることになったのは、やはり根本的に信用できないレベルの人が現職にそれなりに存在するということがいえるのではないだろうか。
 麻生総理の失言には違いないとは思い、あきれもするのだけれど、医師の常識欠落発言に抗議する医師会の方が常識的に何かが欠落しているようにも見えるのは確かである。もちろんすべての医師がおかしいなんて事はありえないし、医師以外の職業の人の方がおかしい可能性のほうが高いようにも思えるけれど、それを差し引いても執拗に騒ぎ立てる神経の方に異常さがにじみ出ている。今まで政治的に強い影響力を持って政治にかかわってきたことは事実だし、その影響力が行使できなくなった後に病院の諸問題が表面化してきたことも、大きな背景なのではないかとも思える。救急医療を支える大病院の勤務医に対する差別的な境遇が大きな歪になるまで拡大した責任の多くは、これまでの医師会の活動ではなかったのか。
 しかしながら、専門家という人たちに対するこの漠然とした不安のようなものは何なのかという思いがないわけではない。すべて任せておけばいいなどとはいえないにせよ、それほど信用というものが脆弱になってしまうのは何故なのか。
 考えてみると、いろいろな物事に対して人々が潔癖になりすぎて、不安というものが鰯の大群が揺れ動くようにうごめいているようなイメージがある。そのまま何かに飲み込まれるだけの運命にありながら、ただうごめくままに迷走するより無い鰯であるならば、思い切って群れから離れる決意をすべきなのかもしれない。先ずは自分の目で物事を確かめることから始めなければ、とてもこの不安な空気から独立することがかなわないのではないだろうか。
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