カワセミ側溝から(旧続・中岳龍頭望)

好きな言葉は「のこのこ」。好きなラジオ中継「相撲」。ちょっと苦手「煮た南瓜」。影響受けやすいけど、すぐ忘れます。

頑なにならないように

2008-11-15 | 映画

グッバイ・レーニン/ヴォルフガング・ベッカー監督
やさしい嘘/ジュリー・ベルトゥチェリ監督

 嘘も方便といわれる。気遣いとしての嘘はあり得るということだろう。嘘をつくことが相手にとって良いことというのは、どういう場合が多いのだろうか。お世辞は嘘の一種かもしれないが、あまりに真っ赤な嘘だとかえって白々しい。相手に信用してもらう必要もあるので、もともと相手がそう思っているようなことであれば嘘にはならない。もしくはそう思いたいということであっても、受け入れやすいということだ。少なからずそういってもらうことで、願望をかなえることにもなるのかもしれない。
 さて、奇しくもどちらの映画も社会主義国という体制が背景にあるようである。社会主義というものは、ある意味でその存在そのものが嘘の下手な体制であったということなのではないか。何故なら資本主義だって嘘はついているわけで、そのことはある程度了解済みで動いているようなところがある。社会主義は厳格にその事実を認めようとしない。頑固な嘘なので崩壊の仕方が激しくならざるを得ない。なんだかそんな気もする。
 そういう危なかっしい嘘であっても、おそらく当事者たちにとっては永遠に続くであろうことのように思えるようになると、さらに悲劇的なことになってしまう。自分自身を嘘に合せなければ生活ができないのである。さらにそういう嘘が嘘でなくなった後であっても、その嘘に付き合い続けようとする試みを行うとどうなるのか、ということがこの映画の仕組みになっている。クリスマスのサンタのようなものを、サンタの正体を知っている人につき続けるようなものなのだけれど、これが映画の中ではある程度はうまくいくわけで、本当に危うい綱渡りである。まあ、誰でも予想することだが、いつまでもそのままでいられるわけがない。その時になって人はどのような行動をとるのかという意外性については、映画を見てもらうよりないのかもしれない。
 二つとも本当に成功した話なのかどうかは置いておくが、相手を傷つけたくないという思いを持っている嘘であっても、自分自身の心にあるエゴというか、保身のための嘘であることには変わりがない。嘘というのは、結局は自分を守るためについてしまうものなのだ。どうしても嘘をつかなければならないような立場になったら、ばれた時に素直になれるのかという覚悟が必要になる(まあ、開き直る人もいるかもしれないが)。もちろんばれない可能性もあるから、ギャンブルなのかもしれない。もしくはその嘘自体を自分も信じて心中するか。
 まあしかし、このような大それた嘘をつき続けるつもりがあるのなら、素直に話す決断をする方がずっと楽なような気がしないではない。それにいつまでも逃げ続けるような毎日に耐えられるのかということも加味すると、とても割に合う嘘ではない気もする。少なくとも僕は、こういう嘘に加担する立場になるような仲間とは一緒にいたくない。さて、それでは本当に僕が正直者なのかどうかというと、それはやはり内緒にいておくのである。程度の問題はあるにせよ、やはり嘘の利用の仕方で人間の生活はなりたっているのかもしれないのだから。
コメント
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