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カワセミ側溝から

好きな言葉は「のこのこ」。好きなラジオ中継「相撲」。ちょっと苦手「煮た南瓜」。影響受けやすいけど、すぐ忘れます。

夏向きだから夏に向くとは限らない

2016-08-13 | 音楽

 ラジオを聞いていたら「夏の間もっともよく聞いた曲の一つ」といってリクエストがされていた。このような妙な翻訳調の日本語が、まったく増えたもんだなと思う。日本語として成り立つが、やっぱり妙だ。他にも「もっとも」があるらしく聞こえるが、そうであれば「もっとも」は不適切だろう。無ければ「一つ」は省いていい。「もっとも」を使いたいくらいよく聞いたと言いたいが、しかし厳密にいうと他と比べて「もっとも」か客観視できないという意味だろうか。まあ、考え過ぎだろうな。
 ということなんだが、夏になると聞くようなものってあるかな。レッチリは聞くが、ふさわしいと頭の中でなんとなく思っているだけのことで、やっぱり冬にも聞いている気がする。ビーチボーイズは冬の方が合うという話はいくつか聞いた覚えがあって、確かになんとなく彼らの内省的な感じは、サーフィンの曲であっても冬でいい感じはする。
 もうあまり聞いてないけど、トゥールは夏祭りの移動中なんかにはよく聞いていた。移動時間が短いと、ドラマチックなところがあまり堪能できないが、ああいうヘビーさというは、夏向きだったな、と思う。
 ケミカルブラザーズも、昔の夏には結構聞いた。何か前に進まないような繰り返しが、夏の暑さに向くのではないか。
 以前は夏フェスに一度くらいは行ってみたいな、と思っていたことも無いではないが、もう体力的に自信が無い。勝手もよく分からんし、身近に仲間もいない。それにやっぱり遠い。一人の行動が嫌いというわけではないけれど、こういうのはあんまり一人じゃない方がいい気もする。でも野外というのはやはり暑いし、汗かきでお腹の調子がすぐに悪くなる体質だから、やっぱりおいらには無理だわー、と思ってしまう。デカい音量も、耳が悪くなりそうだし、老後に早く耳が遠くなるのは嫌である。さらにこんな言い訳を考えているのが嫌である。
 ということで、録音している行き当たりばったりの曲を、たまたま夏に聞いております。
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政治とミュージシャン

2016-07-06 | 音楽

 ミュージシャンの政治的発言が話題になることがある。有名人だから実に当たり前のことだけれど、取り上げる側に恣意的な判断がある場合の方が多いと感じる。なんかノセられちゃったかな、という感じか。言っちまったもんは仕方ねえ、という開き直りもあるかもしれない。前々から言いたかったよ、という人もいるが…。
 よく西洋では当たり前だけれど、日本では稀だという意見も聞かれる。日本は興業で食っている人を指して、あまり政治的(に偏ること限定だが)には発言しないというに過ぎないと思う。個人的にはどうであるにせよ、発言力が強い自分の事を知っているなら、控えた方が賢明という考えもあるだろう。大衆的なことを言ったとしても、ミュージシャンという個人は既に大衆ではありえない。
 しかしそもそも政治的な人でミュージシャンというのはいる。言葉も商売道具だから、自分のスタイルとして政治的なことも含めて言う(歌う)。外国だとスプリングスティーンみたいな人か。しかし彼の曲は皮肉にも反対陣営が自分たちの応援歌として使われたりした。文意が詩的過ぎると読み間違えられる。まあ、それが皮肉になってお笑いにはなるが。
 しかし、日本でも反権力に敏感で声を上げる人はそれなりに居る。それがロック的なスタイルとして人気が出る場合もある。生活のためにやっているとしたら、それはなかなかいい戦略だ。もっとも反権力で弱者だと勘違いしている人もいるので、それなりに残念だったりもする。若いころはいいが、年取ったら自分の頭で考えることも必要だろう。
 さらに音楽家だった人が、ある意味では客寄せパンダで政治家になったりもするわけで、これはかなり残念な感じはする。しかし選挙は美人投票の側面も否めない。さらに本当に政治家を志すというのは国民としてはまっとうな権利だから、その職業の人を排除することは出来ない。倫理的な問題としてはだから、政治家は最初に有名人を目指すべきという論も立つだろう。そうするとミュージシャンのような大衆の支持を一度得た人が政治発言をするのは、非常に効率的なのかもしれない。
 英国のEU離脱の国民投票で、ノエル・ギャラガーは投票日の朝に決めると発言した。忙しくていかないかもしれない、とも言った。文意はいろいろあるが、重要な問題を国民にゆだねる方法についても批判しているらしいこと(つまりキャメロンのような指導者は最低だということだろう)、今回の問題に対して、例えばイラク戦争のときは国民投票を選択しなかった。そのような欺瞞に憤りを覚えているという意味もあったらしい。その上で国民を先導するような態度を自分は取らず、当日という言い方で各人に考えさせることを選択したと言える。彼の立場は知らないが、この背景を日本にまともに伝えたメディアはやはりあまり知らないので、やはり恣意的に用いる人にも知能が必要だとは感じた。
 少し前の話になるが、鈴木宗男が国民的な悪人認識をされている最中に、松山千春は公然と鈴木を支持した。これで松山はかなり株を下げた訳だが、僕はこれに大変に感心した。これはミュージシャンの話を少し超えたところにあるが、自分の考えに躊躇が無いばかりか、そして社会的な背景を分かりながらやっているだろうことは間違いなかろう。北海道の状況が異常だという意見も聞かれたが、ちゃんと鈴木氏は落選した。僕は松山のファンでは無かったが、そうして彼の主義にも何の賛同も感じないが、しかし、ミュージシャンでまともな発言の仕方だとはこの時感じた。反権力であるような人なら、松山のようなことをすべきではないのか。まあ、通じないから諦めてはいるが…。
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選曲の火が着く

2016-06-16 | 音楽

 LINEのプロフィールの上のところにLINE music というちっこい表示が出ていて、これが自分の好きな音楽を添付できるシステムと知った。後で知ったことだが、ひと月限定の無料サービスということだった。後で知ったのだからなんとなくずるいな、という感覚は今はあるが、これに音楽を乗っけることを考えるのがそれなりに楽しい気分になったのは確かである。
 最初はやっぱりツェッペリンでRoyal orleans にしていたのだが、二日ぐらいしてふとHots on for nowhere に変更した。どちらかというと僕の感じじゃないかと思ったのだろうか。こんな風にして一度変えてみると、毎日変えないと調子が出ない。翌日は何故かヴァン・ヘイレンのhot for teacher にした。なんでだが笑っちゃうところが好きなのだ。
 ところで最初はカタカナで曲を探してたのだが、上手く探せないことが案外多い。めんどくさいがアマゾンを表示させて英語表記を確かめて探すと、検索率が格段に上がる。まあ、洋楽だから仕方がないことだけど、古い歌だとあんがいいろんな人がリメイクしてたりして、目当てのバンドに行きつかない。そうしてカラオケの曲が出てきたりして、そういうのもけっこう楽しいという感じだった。
 確かそこでクラッシュのtommy gun に変えて、やっぱ懐かしいなと感慨にふけり、モット・ザ・フープル all the young dudes に飛んだ。さすがにちょっと古いけど、格好はいい。せっかくだからクリームのsunshine of your love ときて、何故かここで思い出して10CCのI’m not in love にしてみた。だいぶ感じは変である。
 実は曲は変更しないまでも、それまでにけっこう曲の検索はしてしまう。前奏が長すぎたり地味だったりしてキャッチーじゃないな、と思うとどんどん次の曲を探す。何のためにやっているのかよく分からないからバカみたいなんだが、そういうのはたぶん面白いのだろう。
 本当はけっこういろんな曲を探し出して迷いに迷ってジミヘンはlittle wing にする。まあ、なんでもかっこいいからいいけど、こんなに短い曲だったっけ? 
 順番は怪しいが途中でスザンヌ・ヴェガのluka 。そして、スプリングスティーンのhungry heart 。ストーンズのjust my imagination などと選曲。ピストルズというか、シド・ヴィシャスのmy way も外せない。D・ボウイのcat people 。ドアーズは迷ったけどlight my fire にした。
 ここらあたりでロックロックばっかりもなんだか(そればっかりじゃないけど)な、と思ってTLCが何故か好きだった時代があってdiggin’ on you にしたんだが、ちょっと感傷的な個人的な事件があって、always on my mind はペットショップボーイズの方で選択した。プレスリーでも良かったんだけど、僕らの時代じゃないので。
 今後はもちろんニルバーナとかパールジャム、レッチリなども選択予定。王道ばっかりですいません。ジャニス・ジョプリンとかママス&パパスもボブ・ディランも行きます。たぶん。まあ、どうでもいいですね。結局、誰も聞いてないだろうことが寂しかっただけです。

追伸:結局その後のラインナップ。
smoking gun. / Robert cray
love is the drug ./ Roxy music
get into it . /The strypes
blues hand me down./ Vintage trouble
hold on. /Alabama Shakes
stop whispering. / Rediohead
i bet you look good on the dance floor./ Arctic monkeys
you can't hurry love./ The supremes
the dock of the bay./ Otis redding
you really got me. / the kinks
cold turkey./ john lennon
helter skelter./paul mccartney
chandelier. /sia
like a rolling stone./bob dylan
california dreamin'./ The Mamas & The Papas
move over./janis joplin
sympathy for the devil./rolling stones
every breath you take . /the police
money. / pink floyd
dani california./red hot chili peppers
jeremy./ perl jam
hard to make a stand. /shelyl crou
smells like teen spirit./nirvana
you might thik. /cars
build me up buttercup. / the foundations
bohemian rhapsody. / queen.
speech less. / lady gaga.
are you gonna be my girl./ jet.
what a wondeful wold. / ramones.
realin' in the years. / steely dan.
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日本語のラップのもっとも恥ずかしい部分を惜しみなく MOROHA

2016-05-27 | 音楽

 ご多分に漏れず僕もテレビの「しゃべくり」でMOROHAを見て、興味を抱いて二枚買って聞いてみた。最初にⅡの方から聞いたので、ファーストを後から聞くとやはりⅡの方がそれなりに洗練されている印象を受ける。ファーストの荒削りもいいのだけれど、よりストレートに迷いがなくなったような印象だ。彼らの歌(?)はラップということらしいのだけど、まあ、ラップだろうな、とは思うものの、やはり正当な、というか、一般的なラップ・ミュージックとはずいぶん違う。ギター一本で、そのわきでボーカルが一人語りしているスタイルで、ラップのようなファッショナブルな感じは微塵も無くて、泥臭いと言った方がいい感じかもしれない。それがいい味であるのは確かで、しかしむしろ詩を調子よく読んでいる感じはしないではない。さらにしかし、韻を踏んだ詩の朗読という感じとは少し違う。でもまあ、たぶん即興では無くて、少し演劇めいているという感じかもしれない。
 ラップのアルバムは数枚持っているようで、まったく聞かない訳ではないけれど、そんなに関心のある分野ではない。ほとんどはつまらないし、さらに外国のものだから、はっきり言って聞いているのは偽善的であるとさえ感じる。物珍しさと、どうせ訳が分からないのでBGMとして流して聞くことがある程度なのだろう。実際には渋谷さんがエミネムのことをあまりに凄いと持ち上げるので、しばらく聞いていたら分かることもあるかもしれないと思っていたのだが、他のラップには面白いものはあるとは思うものの、エミネムに関しては、まあ、時代に消えるような、日本人には関係のないものに過ぎないように思えてきて失望すらした。関係ないので失望したことすら無駄という感じだ。
 さらに日本語のラップだが、そもそも誰がラップ・ミューシャンなのかさえ知らない。映画のサイタマノラッパーは名作だと思うが、彼らがミュージシャンなのかさえ知らない。ラジオでは宇多丸がラッパーらしいと知っているが、彼の映画評には興味があっても、ラップに興味があるわけではない。
 そもそもの問題としては、赤毛のアンなどでも見られるように、西洋社会では詩の朗読などの文化があって、韻を踏んだ詩そのものを音で聴くことに喜びを感じているらしい土壌がある。日本にも無いわけではないが、その価値がそれほど高いわけではない。中国にも古くから漢詩があって、恐らく西洋と同じで韻を踏むリズムが何より素晴らしい感銘を与えるものらしい。ならば中国文化とラップは相性がよさそうだが、政治的土壌がそれを許さないという疑いも少しありそうだ。
 さて、MOROHA(このような表記は好きではないが、彼らの考えなんだろうから仕方がない。「もろは」と読むようだ)だが、正直に言って聞いていて、最初はお尻がむずがゆくなるような感覚を覚える。特に一人で聞いていても恥ずかしい感じだ。恐らくこれは歌っている方もそのはずだと思うのだが、それが彼らのスタイルで、それが彼らの気迫のようなものを素直に伝える武器になっている。むずがゆさはじきに慣れるが、今度はこれを良いと思う自分に、少し不安になってくるのだ。不安になるが、確かに力強く気持ちを掴まれる感じはする。僕はそこまで若くないので彼らの言っていることに素直に共感できるものではないのだけれど、さらに、なんか違うけどな、という部分も多いのだけれど、それでもやっぱり凄いことが行われている臨場感に酔ってくるのである。そうして曲が終わるとホッとするような感じと、余韻がまだ残っていて、凄いな、と思うのである。基本的にはほとんどワンパターンといっていいのだけれど、いちおう曲は違うし違う物事を違うパターンで歌ってはいる。そうしてもっと違うことを言っているのを聞きたいな、と思うのである。
 これを聞いてよかったと正直に言っている自分を知った人に知られたくないのだが、僕も正直なので言わざるを得ない。友達にするにはめんどくさい連中かもしれないが、今後もCDは買うかもしれないです。頑張ってください。
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ファンの聖地は

2016-04-12 | 音楽

 先日広島に出張に行った折、同行の士のある先輩が、「そういえば広島といえば吉田拓郎の出身地だよね」と言っていた。歌は歌えないけど拓郎世代なんだそうだ。そうか、拓郎は確かに広島じゃけんね~、とは思ったが、僕らの世代なら奥田民生かな、と思った。思いはしたが、彼らの広島のどこの場所が聖地ということは無い。彼らがどこでお好み焼きを食べたりラーメン食ったりしたのかというのさえ知らない。ファンとはいえ、そんな感じか。
 ところでやはり先日江の島の前を通ったのだが、その前に茅ヶ崎も通って、「ああ、そう言えば桑田佳祐が俺の家も近い、とか歌ってたな」と言った。実際に家は知らないが、地元の人なら知っていることだろう。やっぱり地元コンサートは盛り上がるらしくて、この地域の人たちには、同胞としての愛があるのかもしれない。観光地だから、目当ての観光客もいるかもしれない。
 まあしかし、そういうことを考えると、ビートルズのリバプールとかアビーロードとか、そういう海外の有名どころの観光聖地というのは凄いもんだな、と思う訳だ。僕が知らないだけで日本の音楽家にだってそういう聖地はあるのかもしれないんだけど、なんだかよく思い出せない。漠然と出身地は知っているが、そこに行って気分を楽しむような感じはあんまり無い。
 そう思ってたんだが、長崎には居るじゃないか。地元のラーメン屋に行列が出来たり、稲佐山登り口をウロウロする観光客がいるらしいじゃないか。まあ、単に熱烈なファンがいるなら、そのような現象が起こるということですね。僕にもそのような情熱があったら、人生楽しいかもしれないです。
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孤立する私のこと

2016-02-16 | 音楽

 僕の世代のロック・ファンというのは、ちょっとナイーブに複雑なところがあって、ロックが好きだからといって、それが単純に共通項であるとは限らない。まあ、それは別の世代でも当たり前のことだとは思われるのだが、出来るだけ今の音も聞こうとは心がけてはいるものの、要するに心がけて聞かない限りは、今のロックというものに対して、たいした共感があるわけではない。いや、もちろん心が勝手にキャッチするような感覚になる場合もあるのだけれど、まあ、以前のように理解できているとは限らない。それでいいというのは、当然いいのだけれども。
 ところで今の世代や、たまにだが同世代であっても、ロックミュージックが好きだという話の展開になると、「じゃあ、ボンジョビとか」といわれてガックリ肩を落とすということがあるわけだ。いや、好きな人はいるだろうけど、そういう分類のされ方は乱暴だな、というか。今は言われ慣れたようなところがあるけど、ボンジョビがロックだという認識さえ、ちょっと意外な感じもしさえする。いや、ロックなんでしょうね。さすがに。
 しかしながら、本当に狭い範囲でロックが好きという訳でもないのである。ちょっと古いがパンクでもプログレでもリズム&ブルースでも聞くのである。ただ、テクノみたいなものだと、ちょっと好みが分かれるかな、という感じだろうか。初期のテクノと今のテクノはかなり乖離があるので当然だけれど。
 また、80年代になってからのダンスミュージックというのが、これまた複雑な感じがするのである。最近はロックレジェンドというような言葉があって、普通は例えばそういうのは、ジミヘンだとかジム・モリソンあたりまでだと、それなりにそうだったかな、という気分になるが、いわゆる最近はEDMがブームになってしまって、そうして最近はELOなんかも新譜を出すような驚くべき状況になってしまって、なんだかもうぐちゃぐちゃといろんなものが一緒くたになって、以前からいいものが聴きつがれてきたような言説を耳にしたりするのである。いや、絶対に断絶はあったはずで、僕らと今は切れていて当たり前なんだけど、そうしてそういう連携の気分なんて大人げなくいってまったくないのだけれど、相手の方から親和的に手を差し伸べられているような気分になる時があるという訳だ。
 まあ、何の事だか分からないだろうけれど、いい大人になっているにもかかわらず、ロックの話になると大人げなくなっている自分を発見してしまう訳です。それでまあ、今となってはずいぶんオジサンになったバンドが次々に新譜を出していて、以前ならストーンズとかオジー・オズボーン程度のお笑いで済んだものが、それですまなくなって複雑な心境なんである。結局、ちょっと聞いてしまったりもするけど、そしてそれなりに悪くないものもあってさすがだとも思うことがあるにせよ、でもまあ青春は帰らないものだな、という冷めていく自分がいる。仕方ないからヒップポップでも聞くべきなんだろうか(さらに混沌)。
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昔から恐るべき人

2016-02-10 | 音楽

 先日中島みゆきの特集をやっているテレビを見た。多くの人が中島みゆきの楽曲を歌っていた。もちろん僕も中島みゆきのことは知っている。歌われていた歌もけっこう知っていた。要するにそれだけたくさん売れる曲を書けたということであり、売れる歌を作れるというのはすなわち天才なんだろうと思われる(売れない歌なら、プロでなくても無数に作られることは可能だからだ)。それは誰もが認めることで、さらに中島みゆきを自分で歌いたい人が相当数いるのだということを改めて知った。そうして他人に楽曲を提供しているからというだけでなく、今は特に中島みゆきの歌をカバーして歌うという行為自体が、大変に歌手の間で競われるように行われていることも知った。そういえば、あんまりテレビを熱心に見ない僕のような人間であっても、例えば「糸」という曲などは、複数の人が歌うのを見た覚えがある。この曲などは特に巷間でヒットした歌という印象が無かったけれど、確かに歌自慢の歌手が歌うとそれなりに様になるいい曲である。
 中島みゆきは僕の子供の頃から歌っている息の長い人気歌手である。ところが僕の若いころにはなぜだかテレビに出ることは無くて、曲がヒットしているとはいえ、その動く姿を見ることは出来なかった。写真では美しい人のように見えたが、現在も美しい人には違いないが、若い頃には何か事情でもあったんだろうかといぶかったものだ。ところがラジオ番組では声を聴くことが出来て、もの凄くふざけた口調で変なことを言う人だということを知って、さらに驚いた。極端にアングラ的というか、マイナーな感じで一般的でない。しかしそこが逆説的に良くて、歌以外でも熱烈なファンがいたようだ。
 大人になって、女性でなくてある知り合いの男性から、どうしても中島みゆきを聞くべきだという話を聞いて、仕方なくだまされたと思ってCDを買ったことがある。さっそく通勤で聞いてみた訳だが、帰りの夜道でなんだか怖くなって聞き続けることが叶わなかった。歌声も怖いのだが歌詞が特に怖い。これを延々と聞き続けられるというのはある種の才能が必要ではないかと感じて、そのまま聞くことは無かった。
 しかしながらその時は僕も若かったのだろう。今聞くとそんなに怖いわけではない。内容のほとんどは僕には理解しかねるにせよ、感動する言葉づかいもけっこうある。また曲のアレンジというか、なかなか斬新なものもけっこうある。特に歌詞が注目される人だけれど、音楽に対する全般的な造詣の深さがうかがわれる。
 ドキュメンタリーでも紹介があったのだが、ステージでは、演劇ともつかぬミュージカルとも違う、独特の演出を施して何曲も歌うようなことをするらしい。これを見に来る客も、中毒のようにリピートするようになるらしい。そういう意味ではサービス精神も旺盛で、若いころにテレビに出なかった訳は知らないまでも、ある程度自分の世界を、自分の演出のもとに表現したいという考えのある人なのかもしれない。
 声量はあるが歌いまわしは独特のものがあって、やはり女性なのでかなりキーが高い。それでも工夫して男でも結構歌う人がいる。中性的ではないのだけれど、それでも結構様になる曲も多い。極端に複雑な楽曲が多いわけではないが、幅も広く、新しく書かれる曲は、やはり時代を映すような斬新さが確かにある。そうして、どういう訳かあまり古びることが無いのである。それだけシンプルで普遍的なところがあるということなのだろう。
 以前から大変に人気がありながら、また、その功績が積み重なって、今非常にウケる要素がそろっているということかもしれない。そういう人が他にいないとは言えないが、改めて日本を代表するような偉大さを享受できる状態にあるようである。時々だが、やっぱり僕には怖くなってしまうことがあるのだけれど、それはまだ僕にも若さが残っているということかもしれない。まさに恐るべき人なんであろう。
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歌の上手い基準

2015-12-24 | 音楽

 生まれて初めて買った(買ってもらった)レコードは何だったか。本当に記憶しているかは怪しい話だし、すでにその痕跡が無いのではあるが、たぶん「およげ!たいやきくん」だったのではないかと思われる。自宅にあるターンテーブルの使い方は、このレコードを繰り返しかけることで覚えたと思う。B面の「いっぽんでもニンジン」ももちろん大好きで、なぎら健一が後に出てきてこの歌を歌っていたということを知ったときは、全然気づかずにいたことに衝撃を受けた覚えがある。この歌は大人が熱心に聞いたから大ヒットしたのだ、と言われたが、やはりしかし子供であった僕らは当然繰り返し何度も飽きずに聞いた覚えがある。その後子門真人は繰り返し変なパンタロンを穿いてテレビに登場し、ついでにガッチャマンなどの歌も歌った。
 この頃は歌謡曲もボチボチ聞き出すという年頃であったろうが、やはり子供向けの歌、みんなの歌やら、このたいやきくんのようにポンキッキなどの子供番組で歌われる歌に親しんでいたように思う。幼稚園とか学校で習う歌も素直に歌うし、テレビの歌も結構歌っていたような記憶がある。「飛べ飛べとんび」とか、何故か歌っていた。
 「パタパタママ」とか「黒猫のタンゴ」とかも道を歩きながら歌った覚えがある。最初は堺雅章が歌っていた「北風小僧の寒太郎」なんかも登下校に歌っていたのではなかったか。そうして「たいやきくん」ほどではなかったにせよ、「山口さんちのツトム君」がまた大ヒットした。これは子供心に少し大人の歌という感じはした。なんとなくいやらしいというか。その後「おなかの大きな王子さま」くらいまでは聞いていたように思うが、やはりだんだんと聞かなくなった。
 ところでこのような子供向けの歌を歌う人たちというのは当然のように歌の上手い人たちが多くて、子供心に歌が上手いという基準が、このようなタイプの歌い方という感じがしていたように思う。少年児童合唱団の歌はうまいとは思うが、子供心にはあんまり感心しない。やはり尾藤イサオとかなどが歌うと迫力もあるしさすがだな、という感じなのだった。
 歌謡曲の方は今聞いてみると当時のアイドルめいた歌手においてもそれなりに歌が上手いと思うのだが、それでもやはりひどく下手もいた。というか、段々と下手な人たちが多くなっていくような印象がある。可愛いから多少下手でも愛嬌じゃないか、という気分は子供には分からない。でもアグネス・チャンくらいになると、やはり楽しいとは思ったけど…。森昌子が上手いというのもわかりやすかった。しかしこれはやはり大人にウケる感じなのかも、というのはあった。
 子供でも上手いなあ、と最初に思ったのは、尾崎紀世彦だったようにも思う。凄い声量で素晴らしかった。子供だから真似をするが、こんな声を出せる友人はいなかった。布施明も上手いのだが、子供向けではなかった。
 テレビ主題歌などで知っていて、好きだったのは鈴木ヒロミツで、ドジな感じの役者さんなのに歌が上手いギャップに惹かれたのかもしれない。後になってモップスという伝説のバンドのボーカルと知った。
 しかしながらテレビの歌で何とも凄いと思ったのは、松崎しげるである。当時もドラマなどに出て面白い人というのはあったが、歌になると豹変するような迫力があった。奥さんを次々に変える(実際は3回らしい)ことから、やはり女は歌の上手い男に弱いのかな、と思った。
 ところで歌が上手いということについては他に思い出がある。何故か父の思い出である。山本リンダの歌を歌うと大人にウケるので、ふざけてよく歌っていた。それで、父からなんで山本リンダの歌を好んで歌うのか? と聞かれた訳だ。正直なところウケるから歌っていたと思うのだが、何故か僕は「リンダは歌が上手いから」と答えた。父は怪訝な顔をして、「あれが上手いというのか?」とさらにいう。僕は「だって、あんな歌い方ができる人は他に居ないから」といった。この答えに父はしきりに感心し、確かにそうかもしれない。山本リンダは歌が上手いかもしれない、としばらくつぶやいて僕の頭を撫でた。これは褒められたのかは微妙なのだが、なんだかとても嬉しかったのである。
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歌い継がれるということ

2015-12-06 | 音楽

 僕が中学生だった1980年は、ピーター・セラーズが死んだ年である。前年公開の「チャンス」という映画でゴールデングローブ賞を取ったことで話題性があり、もともと悪かったらしいが心臓発作で急逝したということもあり、日本でもそれなりに話題になって繰り返し映像が流れた。出世作ピンクパンサーは、多少お色気があるということで子供の頃にはあまり家庭で鑑賞することが許されておらず、改めてテレビで大量にそういう映像が流れるので、楽しんで観たように思う。まあ、実のところコメディとしてそんなに面白いもんかな、という子供らしい感想は持ったものだが…。
 この年には個人的にさらにショックなことに、その後9月の末にジョン・ボーナムが死んだ。ツェッペリンは前の年に「インスルー・ジ・アウトドア」というやや残念なアルバムを発表しており(でもまあ僕はそれでも嫌いなアルバムではない。ファンというのはそういうものなのだ)、それなりに盛り上がっていたのに、これで事実上バンドは解散ということになってしまった。ボンゾ無しにツェッペリンは成り立たないといわれると、そうだったんだな、と改めて残念でならなかった。
 そういう暗澹たる気分の中で年末を迎えるときに、ジョン・レノンが撃たれたというニュースが流れた。ジョン・レノンは長い間子育てのために活動休止をしていて、満を持してアルバムを発表したばかりで、巷間ではその中の曲「スタンディング・オーバー」が流れまくっていた。もともとビートルズは僕より少し先輩たちの音楽で、既に古典として聴かれているということはあったにせよ、世の中はパンクロックになっていて、若い人間にとっては、ちょっとオジサンくさいという感じはあった(もしくは軟弱という感じかもしれない)。それでもスタンディング・オーバーの曲のちょっと元気の出るような感じは新鮮で、やっぱりジョンは凄いよな、というような音楽仲間でもない奴からの反応も良好だったと記憶する。そういうタイミングで撃たれたというまさにショッキングな事件で、このようなことがあっても銃規制をしないアメリカという国は、何と野蛮なんだろうと改めて思ったものだ。
 そういうことで改めてビートルズやジョン・レノンの曲を弾くバンドが爆発的に増えた。ロックっぽい「ヘルタースケルター」をコピーするのも流行ったが、どういう訳かジョンがベン・E・キングの曲をコピーしたスタンド・バイ・ミーを歌うというのが、圧倒的に流行った。かくいう僕もその一人で、あんまり何回もこれを歌ったので、いまだにたぶんいつでも歌える唯一の曲である。ちなみにコード展開がRCの「スローバラード」やポリス(スティング)の「見つめていたい」と同じなので、まあ、その後も重宝したということもあるかもしれない。
 ジョン・レノンの声というのは、日本人男性の平均的な声の質とは少し違う感じの高さがある。細い感じも無いではないが、しかし細くなり切らず張っている。これが聴くものに心地よさを与えるのではないかという話もあって、ちょっと信じてしまいそうになるのだが、まあ、いい声なのだ。恐らく多くのモノマネがあるはずだろうけれど、なんとなくジョンのような感じにならない。そういうところをいろいろ工夫して歌うところに、この歌を歌うという、もしくは聴くという楽しさがあるように思う。ジョンのことを思うけれど、自分なりに歌うより無い。そういうところがスタンダードとして残るということになるんじゃなかろうか。いまだに時々やはりスタンド・バイ・ミーは聴かれることがあって、そのたびにこの息の長さとある種の新鮮さがあるらしいことに驚くことになる。僕が死ぬ頃までそんな感じなら、本当に凄いことだとまた思うのだろうな。
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古いんだか新しいんだか変わらない面々

2015-10-22 | 音楽

 ちょっと思うところあってFMの放送を聞いていたら、懐かしのモーターヘッドの音が聞こえてきた。しかし、なんとこれが新譜だという。小さな驚きを覚えたが、それにしても相変わらずどんな曲を聞いてもあんまり変わり映えしない。凄いというかさすがというか、新譜の意味があるんだろうか。しかし年寄りが頑張っていることには異論はない。今や珍しくなくなっているとはいえ、これだけハードな人たちが唸っていることを思うと感慨深いものがある。何を唸っているのかは英語が得意でないので分からなくていい感じだ。
 珍しくないとはいえ、ちょっと前にスコーピオンズがやはり新譜を出していなかったっけ? 僕らの若いころにはどういう訳かドイツのヘビメタが結構流行っていた。僕はドイツ人といえばトーマス・マンくらいしか知らなかったけれど、一気にドイツの人の名前をたくさん聞いた時期だった。結局特に好きな分野ではないし、たいして記憶に残ったわけではなかったが…。
 その前の週には何とPILの新譜が流れていて、これもまた変わり映えしない感じではあるんだが、なんとなく斬新なへんてこさがちゃんとあった。何故か妙に音がいい。これも歌詞がそれなりに過激らしいが、やはり年寄りというのは昔から威勢がいいわけで、ロックの世界くらいしか、ロックのような人々は居なくなってしまった。
 古い人が新譜を出すのは、実際は当たり前のことで、長く続けて売れていることと、年を取ったファンが生きているということもある。以前のミュージシャンは、飛行機事故やドラッグなんかで若くして死ぬような人が多かったような印象があるが、生き残った人だってちゃんとロックし続けているということが今のような現実となって表れているのであろう。
 トッド・ラングレンの新譜の方はどういう訳かやたら元気が良くて、以前のような情緒的な良さという感じではなくなっていた。この人はどういう人なんだろう。何でもいまだにヒッピーのような生活をしているという。音楽ではないがヒッピーといえばスティーブ・ジョブズなんかを思い出すが、彼も近寄ると臭かったというから(あんまり風呂に入らないんだろうね)、自然主義というのは厄介な人が多いのかもしれない。でも時々活動して金を稼いで生活ができるんだろう。いい身分である。
 ニューオーダーやデュラン・デュランも今年は新譜をだしていた。こちらはある意味で相変わらずながら何か少し新しめの変化がある感じがある。へえ、今はこんな感じなんだね、くらいのものではあるが、それでもやはり若々しいというか。
 アリス・クーパーが中心となっているらしいハリウッド・ヴァンパイヤーズというのが出ていて、これはほとんど中身においては昔の名前で出ていますバンドなんだが、やはり元気がいい。これくらいになると売る気満々で健全だなという気もする。懐かしいだけでなく、ちょっとひねりもある感じだ。
 そういう中でデビッド・ボウイには引退のうわさがあって、もうライブはしたくないと伝え聞いている。もうそれでもいいとは思うが。
 もっとビジュアル的には老人的なのはキース・リチャーズなんだが、しかし彼はその風貌が人間の老人も越えている感じもする。音の方は歌ってるんだかどうなのかという渋さで、ギターはとりあえず元気で、これはソロでもいいというのはよく分かる。しかしどことなくストーンズより健全に見えるのはちょっと不思議な感じではある。
 ツェッペリンのリマスターも後半になってやっと買ってボチボチ聞いている。インストバンドみたいでいいことはいいし、未発表もあったのは良かったが、やはり現役発表時の完成度の方が勢いがあったことは否めない。それが時代であってまっとうな話ではあるし。
 とはいえ、ふだんは最近普通にパティ・スミス聞いてたりするんだよね。やっぱり成長はしてないままなんでしょう。
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タダというのはそもそも幻想だけど

2015-09-06 | 音楽

 音楽のネット配信に反対するミュージシャンの話題というのがあった。タダでは音楽家は育たない、ということのようだ。言い分は分かるが、要するに自分のためであり、聴く人のためではない。そこのところがちょっと弱いな、と思うが、生活苦の人でない人が、生活苦の音楽仲間を救うという思想めいたものもあったようだ。まあ組合活動なんかも自由だし、言い分が通るかどうかも含めて共感のある人はいるんだろう。音楽が生まれてパトロンがいた時代とは違うとはいえ、大衆に音楽がある以上、売り方の変遷があって当然である。CDが売れなくなったとかいう議論とも複雑に絡んでいるようだけれど、聴き方のスタイルが変わったのだから、その売り方の勢力図の変遷であるに過ぎない。思想でどうこうすべきという問題ですらないから、なるようにしかならない。人々が本当に音楽を必要としなくなったのならともかく、商品としての音楽はまだ健在で、だからこそスタイルが変わるに過ぎない話だろう。僕なんかいまだにCDにMDなんだから乗り遅れもいいところで、しかしこの便利さを捨てる必要もないんだから、ネット配信みたいにまどろっこしいものに本当に移行できるものなんだろうかと考えてしまう。無料だと数曲ごとに宣伝が入ったりするというから要するにラジオみたいなもので、いったい何の問題があるというのだろう。
 商売というのは勝負でもある。失敗する可能性もあるが、支持を受ければ巨大化する。安定するとライバルがまた切り崩しにかかるだろう。要するに彼らは身銭を切っている訳で、のれなかったら別の多様性に生きたらいいだけのことのように思える。他の産業だって皆似たようなことだろう。音楽だけが特殊に思えるのは、要するに聞く行為に本当にタダが可能だからだろう。しかし本だって図書館でタダだし、青空文庫だってある。著作権の違いのようなこともあるけど、そういう縛りをしたところで国境を越えて、または違法も含めた抜け道は必ずあるから、あくまで範囲内でやれる商売があるというだけのことではないか。
 しかしながら、音楽はさらに聞いてもらわなくては始まらないということもある。無料配信でリスナーの掘り起こしが進んだ方が、そうしてそういう場が広がった方が、多くのチャンスを手にする可能性すら失うことになる。いわばプレイをする場、グラウンドが必要なわけで、それをどこにするのかという選択はゆだねられているということにならないだろうか。リーグの違いもあるから必ずしも同じ土俵ではないにせよ、ただで呼び込める人をあてにできた方が、生き残りの可能性は高まるのではないか。生き残り続けることは誰でも難しいので、それはどんな商売でも同じことである。食えない人が多いからこそ、生き残る音楽の価値が相対的に上がるということもできるから、切磋琢磨は厳しいこともそれなりに必要だろう。保護をしなければならない分野に、やはりそんなに明るい未来は無いのではなかろうか。
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台風一過

2015-08-25 | 音楽

 台風もあるが、何しろ休肝日の夜なので、自然と断続睡眠に陥りやすい。ある程度眠いのでいいか、とは思っていたが、2時半ごろから音の感じに緊迫感が出ていたのだろう。目覚めてどうにも寝付かれない。時計の時間を確認するために明かりをつけたら、杏月ちゃんもしっかり起きた様子で仕切り直すことにした。
 枕元には統計学の歴史のようなものがあったので、これなら眠くなりそうだと思って手に取る。案の定以前に途中で断念したようでもある。数式が出てくるようなものではないが、先に進むのに時間がかかる。しかしこういう時だと妙に面白かったりしていつの間にか小一時間。つれあいが用事を済ませて寝室に上がってきたので、選手交代で居間に移って読書とニュースでも見ようと考えて階段を下りる。窓は閉めてしまったはずだけど、どこからか隙間風がある様子。換気扇からかもしれない。ニュースでは、まさにちょうどという感じになってきた。少し東側にずれたか。しかしながらいつもの台風より突発的な強風の音に緊迫感がある。モノが舞っている感じも伝わってくる。これは相当来ている感じである。近年でも間違いなく風が強い方だ。残念だが被害が出そうではないか。もう統計の本で眠気を誘っても仕方ない感じもする。内容的にはやっと無作為という考えに至る歴史まで来て、統計という学問であっても、なかなか苦労している様子が分かる。学問とは、先人の築き上げてきたものを時には否定したり崩したりしなくてはならない。そうして過去の保守派からいじめられる。正しいという確信を持っていても、なかなか日の目を見られるものではない。昔の人も苦労したが、今の人も苦労するはずである。政治家なんて苦労を買って苦しんでいるではないか。ほとんど人間の歴史はマゾ的である。
 風邪気味なのか鼻水が出てきた。重たい本を寝っ転がって読むには腕がきつくなるので、ミステリ文庫本に持ち替える。今度は身内の秘密が少しずつはがれていく展開だ。それをはからずも息子に知られる展開になる。息子が知ると娘たちにも知れ渡るだろう。しかしもっと確信に迫る必要もある。心情的に苦しいが、しかしそういう自分を止められない。関わっている事件と絡んでそういうことが起こっているが、さすがにやっと眠くなってきた。そろそろ6時になろうかという時間だ。既につれあいも起きてきて、この調子だと通勤時間には風が弱まるのではないかという期待もできるようになってきた。
 ということで一時間ちょっと寝て、朝飯を食って出勤。雨はひどいが風は落ち着いている感じ。消防団があちこちで活躍している様子。彼らもこの後に出勤するんだろう。寝不足は僕だけでないのである。あちらの人たちの方がずっと偉いんだけれど…。


Kendrick Lamar - i (Official Video)



 で曲はケンドリック・ラマー。変な動きをしているが、これがかっこいいというのもなんとなくわかる。僕が若かったら真似をしたくなるんだろうか?
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訛ってますよね

2015-08-21 | 音楽
Sia - Hostage


 ラジオをエアチェックして適当に流して聞いているので、映像は頭にない。それで、シーアのことは、勝手に黒人女性とばかり思っていた。ググれよ、ということに過ぎないが、ハスキーで声が高いと、黒人という気がするのかもしれない。さらになんだか英語の発音が変わっている。僕は英語ネイティブでないから分からないと言えば分らないのだが、なんとなくなまっているような気がする。そうしてやっとググってみて、オーストラリアの人だと知る。しかしだからといってオーストラリア的になまっているのかは全然わからない。黒人チックのなまってるとばかり思っていたよ。


 で、改めて見ると、この映像は確かにネットで見たことあったですね。思い出しました。ちょっと怖いけど、凄いと言えば凄いですね。もちろん歌もですけど…。

Sia - Chandelier (Official Video)



 そういう訳で朝っぱらから通勤でこんなの聴きながら、どんより淀んだ大村湾を眺めて仕事についている訳であります。
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トンネルに入りこまない演奏

2015-08-15 | 音楽

 世の中には器用な人というのはいて、以前テレビで見たことがあるのだが、ピアノを片手で弾きながら、片方でフライパンを振って料理をするような人がいた。これはピアニストが、もともと左右別の作業をこなすことが出来る人たちであるという話だったと思うが、ピアノを弾かない人間にとっては、まさに尋常ではないようにも思える。
 一人でいくつもの楽器を演奏をするというのは、時々ネットなどでも見かける。尊敬する地元ミュージシャンの家はっちゃんは、ベースを弾きながらドラムを叩いていた。最初見たときは、ほんとに驚いて笑ってしまいました。それも正確なんだよな。リズム隊には時々こういう人がいるようだ。まさに恐るべしである。
 いくつも同時演奏する大道芸人のような人もいる。主旋律はアコーディオンで、口ではハーモニカ。足元ではシンバルなどの打楽器など。紐をあちこちにくくりつけてあって、いろいろ音を出せるというような人もいた。ちんどん屋みたいで楽しいわけだが、工夫次第では本当にいろいろ同時に音が出せるようになるようだ。正確に弾くのは困難だろうが。
 同時演奏と言えば、フォークシンガーなどは、結構普通にギターを弾きながら歌い、ハーモニカとかカズーとかを吹いたりしている。やってみると分かるが、これは結構器用である。だいたい慣れないうちは、ギターを弾きながら歌うのもあんがい難しい。慣れてくるとそうでもないというが、凝った弾き方をしたり、歌いながらソロめいたことが出来る人もいる。ギターじゃないけど、ベースラインを弾きながら主旋律を歌うような、例えばポール・マッカートニーみたいな人もいるが、これはそれなりに高度な技である。ドラム叩きながら歌うのも、結構曲芸っぽいが、カーペンターズだとか、イーグルスだとか、つのだ・ひろ、CCBなんかもいて、あんがい極端に珍しいわけではない。
 楽器演奏で、あんまり多くの楽器を同時に演奏すると、ほとんどジャグリングの世界のようにも感じる。曲芸だから共通点も多いが、なんとなく落ち着きが無くなって、スリルの方が勝るという感じかもしれない。演奏が終わると、それなりにホッとする。
 物事を集中して行うと、他のことが手につかなくなる。これをトンネリングという。トンネルに入ると、出口の一点しか見えない。要するに周りのことが分からなくなるということだ。集中というのは、一見いいことのように思えるが、場合によっては生き物としては少し危険である。だからもともと注意散漫、極度に集中できない性質が人間にはあるらしい。
 ところが音楽というのは、このトンネリングを引き出す効果が案外あるように思える。酒を飲んで会話しているときに、なんか好きな曲がBGMに流れたりすると、相手の会話の内容がよく分からなくなることがある。これはちょっと失礼だと思うが、そういう注意を奪う力が、音楽にあるのだ。だから多くの演奏家は、興に乗ってくると、もうほとんど無我の境地に陥ってしまうようにも見える。タイタニック号が沈んでいく最中に演奏した人があったそうだが、目の前の危機でさえ、とりあえず考えなくてもいいような気分になるのではなかろうか。普通はたぶんそんなことしないだろうけど。
 器用な演奏家の人というのは、ある程度そのような集中がありながら、しかし冷静さも残しているのではあるまいか。そのようなコントロールを可能にするのは、やはり練習の成果、いわゆる訓練のたまものということなのかもしれない。
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テレビを録音した世代

2015-08-08 | 音楽

 先日テレビで原田知世が出ていて、子供の頃にカセットデッキをテレビの前において録音していた、と語っていた。原田は僕と同じ学年であるから親近感があるが、当然体験的にも同じだったのだな、と改めて思った。
 テレビをなんで録音しなければならないのか、という疑問のある人もいるかもしれない。しかしながら逆に僕らからすると、もし今の子供がテレビを録音しないとすると、どうしてなのだろう? ということにもなろう。当時もレコードは売ってあったが高価であり、まだレンタルショップもなかったから、テレビを録音したのである。ラジオであればそのままカセットで録音できたが、ラジオでかかる音楽番組などが子供になじみがあったわけではない。これは少し年上の人たちのものだった。さらに当時はテレビをプラグなどでつなげて録音する術を知らない子供だったので、家族みんなに静かになってもらって、テレビのスピーカーから出る音を拾って録音したのである。技術の問題もあるが、子供なりに金が無いことへの工夫だったのだろう。
 単にそういうことなんだが、テレビを録音して聞いてみると、音の劣化が激しい。まさにテレビで聞くような音とは程遠い。また時折家族の話声なんかも聞こえて、訳もなく恥ずかしいような気もするし、腹立たしくもある。結局苦労して録音した割には再生回数は少なく、新たに工夫をしてプラグなどを買ってもらってきて、クリアな録音技術を会得したり、素直にラジオ番組を検索して録音時には茶の間から消えるようなことになっていく。こづかいも貯めて、駄菓子以外では初めてレコードを買うようなことになっていくのだ。
 音楽だけならそういうことだが、実はまだビデオというものがそんなに普及していなかった。だから僕の姉などは、映画やドラマをそのまま録音していた。映画はタイムリーで見るが、録音で再度科白を確認したりしていたのだろう。思い返すと不憫にも感じるが、まあ、当時としてはそんなに悲壮なものではなくて、それなりに楽しい思い出だ。もちろん思い起こせばということであって、やはり音が悪くて聞き返すのはそれなりに苦痛だった。このような思いが、のちの音の良い音楽機器への購入の欲求に繋がっていったのであろう。
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