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カワセミ側溝から

好きな言葉は「のこのこ」。好きなラジオ中継「相撲」。ちょっと苦手「煮た南瓜」。影響受けやすいけど、すぐ忘れます。

Jの鷹といってもカントリー

2018-10-20 | 音楽

 最近息抜きに何聞いているのかというと、ジェイホークス。名前もダサいし、日本ではなんとなくさえない感じもするかもしれないカントリーバンドだ。80年代あたりから活動しているらしいが、しかも主要な一人は抜けているらしいが、そこのあたりは後になって、つまり最近知った。というかもともとぜんぜん知らなかった。
 要するにファンでもなんでもなくて、これまでもまったく聞いたことが無い。ラジオ番組で二曲だけ聞いて、それからなんとなく気になって時々ユーチューブで見てしまう。
 映像でみると、さすがにおっさんたちという感じである。ロックを聞く年齢層は高齢化の一途だが、カントリーも同じらしい。いやカントリーはもともと高齢化していたような気がしないでもないが。
 そこでだが、実は一番気に入った曲があって、主にその曲を聞くのである。曲名はcome cryi’n to me. ふだんはコーラスくらいは入るみたいだけど、バックでキーボードを弾いている女性がメインで歌う。まあ、メンバーが高齢化しているので、はっきり言っておばさんっぽい人である。他のメンバーもカッコいい人なんていないが、この人もそんなにイケてはいない。
 そうなんだけど、これがお姉さんって感じでいいのである(僕から見てという相対的な意味ですよ)。ホーンセクションもカッコいい。一昔前のクイッシー・ハインドみたいなものだろうか。いや、まあ違うんだけど、映像を見ないで聞くと、けっこう渋い歌だな、と思います。
 ついでにと言っちゃあなんだが、他の曲もいいですね。自分たちが好きで歌っていて、でもそんなに自己中心的でない。ちゃんとキャッチーだと思う。そういう感じが心地よくて、それでいて凝るところは凝っているし、安定してカッコいいのである。
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入場曲は決めていた

2018-09-08 | 音楽

 友人のM田君の結婚式の時に、新郎新婦入場のテーマ曲がRCの「指輪をはめたい」だった。ふさわしいというか、かえってふさわしくないというか、やってくれたぜ、って感じかな。
 その当時は当たり前だが、友人にも結婚する人は多かった。男の適齢期にはちょっとレンジが広いところがあるが(何度もする奴も稀にいるし)、まあ、だいたいいい時期というのはある。僕らの年代くらいまでは、まだそれなりに結婚式は盛大に行うもので、式場がいろいろ趣向を凝らして演出をしていた。今では当たり前だけど、節目に使われる曲も、いろいろ考えられだした頃だと思う。でもRCなんてのは珍しい方だったんじゃないか。
 それで僕も考えた訳では無いが、僕ならドアーズのハートに火をつけてか、ロキシー・ミュージックの恋はドラッグかな、と考えていたことを覚えている。
 僕は自分たち主催の結婚式はしなかったけれど、JCの仲間たちがお祝いしてくれた企画の時に、自分の好きな曲を集めたCDを二枚ばかりこしらえて、その会の時にかけてもらった。ただしBGMでかけてもらったので、入場のタイミングでドアーズとはいかなかった。もっとも最初から着座して始めたので、関係も無かったが。
 でもライト・オン・マイファイヤーがかかったのは、ちゃんと聞けた。まあ、にやりとしたのは僕だけのことだろうけど。RCももちろん選曲してて、確か「お墓」だったと思う。まあ、合っているかどうかより、楽しんで選曲した思い出ということか。
 その会のアトラクションで、目隠しして何人かと握手して、その中にいる新婦を当てられるか、というのをやらされた。どういう訳かちゃんとわかって、ホッとした。でもね、何の合図も無しに、あれってちゃんとわかるものなんですよ。自分でも不思議だなって思いました。
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活字で無い村上ラジオ

2018-08-11 | 音楽

 村上ラジオを聞いた(8月5日)。初めて声を聴いて感激してしまったし、何よりその語り口と声、内容も素晴らしかった。構成もかなり考えられており、番組として凄いなと思った。こんなにラジオが楽しいというのも珍しい。もっともラジオなんてほとんど聞かないが。
 ラジオ特有の高揚感のある語り口がどうも苦手で(なんでラジオの人達って、ハイテンションの人が多いんでしょうね?)、聞いてて嫌になるのである。しかしながら村上さんの語りは、そこのあたりがちょうどいい感じだったかもしれない。喋りのプロじゃないだろうから、いわゆる上手い訳じゃないんだけど、聞きづらくない程度の高揚感は伝わる。内容も文学的でもあるし、オタクっぽくもある。
 声も意外だったけど、選曲も意外だった。いや、村上春樹のエッセイは読んでいるので、まったく彼の好みは知らない訳では無いんだけど、それにブライアン・ウィルソンのように贔屓の人もかかるんだけど、その選曲が意外なのだ。こんな曲たちは、ちょっと探しても見つかるものでは無い。おそらく影響力があるので再販になる可能性はあるが、今すぐ探しても簡単に手に入るものは少ない。今はどうだか知らないが、恐らく高騰もするだろう。まったく凄いものだ。
 聞いていて最初は気付かなかったけど、恐らくこの構成は通しで作られたものでは無いのではないだろう。テーマを決めて選曲をして、そうしてその曲の資料を再度検証したりして、ラフな原稿のようなものをつくって(というか箱書きでしょうね)、いくつか語ったものを録音して、そうして後でそれを順に曲とを交えて構成し直したのではないか。なんだかドラマチックに思えるのは、そのような組み立ての成果ではないか。
 最初はこの番組は続くものだと思い込んでいたが、とりあえず単発というか、様子を見ている感じだ。おそらく話題にはなっているだろうし、それなりにお金もかかっているのではないか。また番組は作られると信じたいが、課金システムとか会社の事情とかスポンサーのこととかで話し合いがなされているのではないだろうか。村上事務所との兼ね合いもあるだろうし。
 いろいろ言いながら、また新しいのを聞きたい。単純に純粋に聞きたい。音楽の趣味が同じとは言えないが、恐らく多くの人向けに万人向けに選曲がなされていたはずだ。実際の村上さんが好んで聞くようなものは、ちょっと秘密という感じもする。どうせわからんだろう、とも思っておられるのではないか。まあ、ちょっと考えられないくらい音楽には造詣が深い人みたいだし。日本に同じレベルで音楽を知っている人は、15人くらいは居るかもしれないが、それでは番組にはならない。
 この番組でかかった曲で、唯一僕がもっていたのはラモーンズのワンダフル・ワールド。実は諫早のFMのラジオに出演したことがあって、その時に三曲くらい好きな曲をかけてよいと言われた。その中の一曲として同じくラモーンズをかけてもらった。何を話したかとか他に何をかけてもらったのかはよく覚えてないんだけど、ラモーンズをかけたのは嬉しかったので覚えているのである。何と村上さんもこの曲を選んだなんて、単なる偶然でも嬉しいです。でも、棚を探してみたけど見つからなくて、またアマゾンでクリックしてしまった。整理整頓は大事ですね。
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ガマンして爆発を待つ

2018-06-28 | 音楽

 音楽は楽しみで聞いているはずだが、時折我慢して聞く場合がある。なんでそんなことをするのかというと、我慢の後に快楽があるから。
 いや特に変態的な話をしている訳では無い。曲によってはドラマチックな展開のために、あえて前半は我慢を強いるような場合というのは多い気がする。クラシックなんてものは、ほとんどの場合そんな感じじゃないか。チャイコフスキーなんて最後の爆発が無ければ、ほとほとつまらない。寝ていたらたたき起こされるという感じもあるし。
 多少の見栄もあるんだろうが、そうやって苦労してクラシックを聞いていた時期はあった。退屈で退屈で死にそうになりながら我慢して聞いた。眠いが寝ないで聞いた。つまらないながら何度も聞いた。結果結局飽きてしまった。いや、これはあんまり自分に合わないだけのことだった。そういうことは分かって良かった。でもまあ先に書いたチャイコフスキーは好きなものがあったりするので、それは発掘できて良かった。ラフマニノフなんてのも結構聞いていて、良かったような気がする。ベートーベンもモーツアルトもいいのである。さすがいまだに聞きつがれているだけあるな。まあ、西洋の人はしつこいのかもしれないが。
 僕は小学生の頃からツェッペリンが好きだから、彼らの曲なら多少つまらない思いをしてもつらくは無い。でもあんまり聞きすぎたから、最近はちょっと聞かないな。でもロックなんで、ほんとはあんまり退屈まではしない。最後に爆発してとてもいい。
 トゥールというのも、そんな感じだ。ルックスは大変にケバいが、曲も重苦しい。しかし低くのびやかなシャウトが続くと快感である。それまではずっと我慢して聞いている。最近はあんまり活動してない雰囲気で、ちょっと寂しいのである。

(追記:メイナードは別ユニットで活動してる様子だ。写真だと相変わらずキモいが)
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歌う準備はしたくない

2018-02-20 | 音楽

 今はもうほとんど行かないにもかかわらず、カラオケで歌いたいと思うことがある。ふだんはいわゆる洋楽というものしか聞かないから、歌える歌なんてない。日本語の歌というのは日常で聞かないが、聞こえてきて覚えるというのは無いではない。しかし、そういう経験があったのは若い頃だけのことで、だから歌えるのは古い曲だ。以前は歌謡曲という分野があって、テレビなどでそういう曲を流していた。今もあるのかもしれないが、そういう番組を見るような事が無くなったので、知らない。ラジオから歌謡曲が流れるという経験もほとんどない。ラジオは録音して聞くので、録音に偏りがあるのかもしれない。
 という事ではあるが、この間テレサ・テンの歌が流れていて、それもテレサ・テンの曲を誰か違う人が歌っていて、これは知ってるな、と思って、歌えるかもな、と思った。実はテレサ・テンの「別れの予感」は若い頃によく歌っていて、得意である。でもまあそれだけで、他の彼女の曲はまったく歌ったことが無い。知っているけど詳しいことは分からない。そういうときはネットをいつの間にか見ていて、さらにアマゾンで、あと一歩でクリックするところだった。でも止めた。
 その時の気分だからそうしたってよかったのかもしれないが、考えてみるとカラオケを歌うときになって考えが変わるかもしれないと思ったのだ。カラオケに行くかもしれないという予想はこれからの人生だからあり得ない訳では無いが、もうそんなに近くにあるという感じでは無い。そうであるのにそのために準備したりする気分にはなれない。考えてみるとテレサ・テンは、僕よりおじさんたちと飲んでいて、彼らも知っているだろうという無難さから歌い出したような気がする。「別れの予感」にしたのは、沢田研二の「時の過ぎゆくままに」を探していて「時の流れに身をまかせ」って曲も知ってるな、と思ってテレサ・テンにつながり、でもそれじゃありふれてるから違う曲を選んだらそれだったという事だったと思う(たぶん)。ママさんが一瞬、自分が歌う曲じゃなかったかしら? といった風にマイクを探して、歌い出したのが僕だったのでちょっと愉快だった。ただそれだけのことで持ち歌のようなことになってしまった。
 という事で、特に別のテレサ・テンでなくてもいいのだ。もちろん別のテレサ・テンを歌う日もやってくるかもしれないけれど。
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僕のヒーローはゴダイゴだった

2018-01-13 | 音楽

 小学生の頃に熱中したバンドは、何よりゴダイゴだった。そんなこというと、僕らの世代ではごく当たり前のことであると思う人の方が多いだろう。もちろんその頃に大ヒットを飛ばして人気絶頂だったのだから。
 ただし、というのが僕の言い分だ。その大ヒットには僕も興奮したが、ちょっとだけ意味が違ったはずだと思う。それというのも、実にそのヒット前から、僕はファンだったからだ。
 ゴダイゴは、ガンダーラやモンキーマジック以前から、それなりに人気のあるバンドだった。日本人を中心とするバンドながら、全部英語でしか歌わない。もちろんそういうバンドはその頃結構あって、ロックというのは舶来ものだから、本場のものは英語でなければならないような、そういう大人(青年?)たちの思いがまだあった頃である。だからバリバリのロックというのは、日本語だと様にならない。そう思われていたのかもしれない。ただしゴダイゴがちょっと違うのは、英語の歌なんだけど、ちょっと日本的な要素というか、美しいメロディラインがあって、無茶苦茶激しいロックという感じでは無かったのだ。英語であるだけでロック的なのに、どういう訳か日本の匂いがちゃんとする。もちろん当時はそんな風にまで解説的に理解していた訳では無かったけど、最初のヒット曲である「僕のサラダガール」の時は、僕のような小学生にも取っ付きやすい存在だったと思われる。だから英語なんだけど、なんかこれ面白いな、と思ったのだと思う。シングルの方は後で買ったけど、そういう訳で僕が最初に聞いたゴダイゴのアルバムは、「CMソンググラフティ」というやつだった。
 「僕のサラダガール」目当てで手に取ったレコードだったけど、全体を聞いてみてものすごく驚いたのを覚えている。実はあんがい多くの曲を既に知っていたからだ。何しろCMで使われた曲を集めた作品集だ。日ごろテレビで見ているCMで、こんなに多くの楽曲を提供していたなんて。特にアルバムの最後に入っている「レッドシャポー」は、味の素の宣伝でおなじみだった。ずっと英語で歌われている時はぜんぜん違う曲のように思われたのだが、一番最後に日本語で「あかーいシャポーの、味のもーとー」と歌う。これってゴダイゴだったんだ! 
 そうして興奮して、僕は友達にゴダイゴって凄いって言って回ってた。特にその頃仲良くしてくれていた浜田くんは、一緒になって興奮して喜んでくれたものだ。そうしたらじきに西遊記の放映が始まって、爆発的に皆がゴダイゴに熱中してしまった。これもものすごくびっくりしたが、実はちょっと面白くなかった。僕のゴダイゴをみんながとってしまったような、そんな気分がしたように思う。
 僕はそれから主に洋楽ばかり聞くようになる。それはまるでゴダイゴから逃げるようにして、次のヒーローを探し求めているかのようなものだったのかもしれない。
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今のロック界は綺麗な人増えましたけど

2017-09-09 | 音楽

 女性シンガーを特にアイドル視していたことは無かったけど、聞いてて女性シンガーだから良いというのはあると思う。そういう人の代表はクイッシー・ハインドで、とにかくよく聞いた。若いころのことだから姉御ということは分かっている。ロックのアネゴだからやっぱりアイドルではないが。
 アネゴと言えば、パティ・スミスもそんな感じで。さらにもう少し骨太な感じがした。その時より後になって再評価して聞いたりした。
 カーペンターズのカレンは、当時の日本ではあんまりドラムをたたく姿を流してなくて、後になってそういう映像をみて、大変に素晴らしいと思った。あんなふうに歌いながらリズムもちゃんとしている。素晴らしい。ドラムをたたきながら歌い続けていたら、もっと売れたんじゃないだろうか(十分売れたが)。
 ロックシンガーの女王と言えば何と言ってもジャニス・ジョプリンで、これはもうすごいんだから聞かなければならないという気分になるが、やはりアイドルとは違う。どうしても聞かずにおられない魔力のような歌唱力に圧倒されながら聞く。当時は真似しているシンガーもたくさんいたが、それっぽいというだけのことで、やはり孤高の人だった。
 あんがい古くからいる人でシンディー・ローパーがいたが、これはちょっとお笑いというか、確かに歌も上手くていいんだけれど、実物が目の前に居なくてもいいかな、という感じだったかもしれない。
 あんまり聞かなかったのは事実だが、オリビア・ニュートンジョンとか、デボラ・ハリーなんかは奇麗な人っぽかった。ロック界では珍しいという感じもしたし、ちゃんと巷で売れている感じもあった。スージー・クワトロなんかも場合によっては良かった気もする。仲間ではアイドルとして見ている連中もちゃんといる気がした。まあ、分かる、とは思いながら、音楽的に好きかと言えばそうでもない訳で、要するに冷めていた。
 ストロベリー・スイッチブレイドは一瞬よさそうに見えたが、残念ながらすぐに消えてしまった。また、エラスティカも同じように一瞬良かった。
 一瞬と言えばシーラEもカッコ良かった。真似してシンバル蹴ったりする人がいるのには失笑してしまったものだが。
 ベーシストだけど、タル・ウォルケンフィルドも可愛らしい感じだ。後にシャーロット・ケンプ・ミュールみたいに、ほんとにモデルさんみたいな人も出てきたが。
 コートニー・ラブは嫌いじゃないんだけど、ちょっと強引なエロっぽさが苦手という感じかもしれない。後にレディ・ガガなんかが出てきて、これも男としては引いてしまう感じかもしれない。歌い方はいいですけどね。
 純然たるファンとして長く聞いているのはシェリル・クロウかもしれない。曲がいいというのが最大の理由だが…。
 最近になるとアラバマ・シェイクスだが、これは性別を超えているとあえて言ってしまおう。見た感じはコメディっぽいけど、曲も歌声もいいのです。残念ながら最近は聞かないな、どうしてるんでしょ。
 さらに最近と言えばPJハーヴェイで、彼女はカッコいいですね。一緒に歌いたくなる感じもいいのかもしれない(歌えないけど)。
 どっかで飛ばしたけど、キャロル・キングもレコードのみで聞いていた。歌が好きな人なんじゃないかな、と思いながら聞いてました。メロディー・メイカーとして素晴らしいです。

追伸:今の時代はテイラー・スイフトがいるもんね。こういうかわいい人は、さすがにあんまり居ない気もします。
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センス良さはダサい先人の力よっても生まれる

2017-04-17 | 音楽

 超絶テクニックと音楽的センスの光るベーシストであるサンダーキャット。確かに時代の人で、なかなか聞かせるところが強い。フライング・ロータスなどの活動をはじめ、ケンドリック・ラマー等のバックで演奏などもしている。多くのミュージシャンの曲のアレンジも手掛けているらしい。もちろんソロでの活動も立っている。
 ところでそんな彼が尊敬し目標としているミュージシャンに、マイケル・マクドナルドの名前が挙がっていて、それは実に真面目にそうだという話なのだ。渋谷さんのラジオでそれを聞いたわけだが、渋谷さん本人がそのことに少なからぬショックを受け、音楽に関する造詣の深さに反省をされていた。実は渋谷さんの言っていることは、僕らにとっても少なからぬショックがある。マイケル・マクドナルドという人は、それまでカッコ良かったドゥービー・ブラザーズをAORのダサい音楽に変えて堕落させた張本人として、いわば敵としてのキャラが確立されているような人物だ。まあ、それで人気があるのは分かるが、そういうロックの魂を悪魔に売るような奴はやはり許せない。さらにどういう訳か矢沢永吉がアメリカ進出した折に、後押しをしてくれた人としても一部有名である。ちなみに永ちゃんは、アメリカでは上手くいかなかったようだが、武勇伝ではある。
 まあ、単に渋谷さんのひねくれた音楽観が、それなりに僕らの共通項だったということと、カッコいい音楽を生み出す才能の人本人が、必ずしもセンスのいい趣味がある訳では無いということかもしれない。世の中のひねくれ具合というのは、不思議な化学反応で成り立っているということかもしれない。
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別れの予感はどこに

2017-04-13 | 音楽

 だいぶ前の話だが、二次会などでカラオケになった時、あまり考えないで選曲して歌う歌の第一は「別れの予感」だったかもしれない。いかにも80年代風のアレンジで、僕らの世代らしく思える。さらにいろいろな年代の人が混ざっていても、よく知られている楽曲という気もする。またさらにあまり声を張り上げて歌わなくても、なんとなく伝わるようなところがある。原曲がテレサ・テンなので、僕のような男が歌う意外性もポイントが高いと言ったところか。
 元を歌っているテレサ・テンは、歌が上手いのはもちろんだけれど、日本語の発音の仕方がなんとなく可愛らしくて、それがまた、この曲のあどけないようなストレートさに、真実味を感じさせるような効果をだしているように思う。まずはそれこそがこの曲の最大の魅力となっているはずなのだが、逆説的に男の僕が歌うと、見事にそれらのことが、とても嘘っぽくなるような変化をする。それは僕自身の軽薄さのたまものでもあるとは思うけれど、カラオケで違う人が歌うことによって印象が変わる面白さにも、なっているのではなかろうか。
 この曲の歌詞は、ストレートな思いながら、少しばかり変でもある。そこのあたりの不思議な感じを、是枝監督がひろって映画の題名にもしているのではなかろうか。「別れの予感」という題名の曲なのに、聞いていてその題名がピンとこない。あくまでストレートな愛の心を歌ったものだ。いかに私があなたを愛しているか。海よりもまだ深く、空よりもまだ青く。あくまで人間のスケールでの感じ方であるにせよ、そのように言われると、そうなのか、と思うかもしれない。でもこれを深読みすると、これほど強い思いがあると、別れることが怖くなりすぎて、別れの予感がしてしまうということなのだろうか。
 これはとても僕には分らない感覚だ。それがもしかすると、女らしい感情というものなのだろうか。
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バッハ家の女性作曲家

2017-02-10 | 音楽

 アンナ・マクダネーラという名前でピンとくる人は、それなりにクラッシック音楽に素養のある人だろう。彼女は一般的にミセス・バッハとして有名で、いわゆる大バッハの二番目の妻であった。
 ところでバッハ家からは多くの音楽家が出ており、遺伝研究では、ある種の才能も遺伝するという証明によく用いられることである。ところが当時の音楽家の作曲事情のというのはそれなりに複雑で、バッハの作とされているものでも、そのいくつかはバッハの弟子の作であるというのは証明されているようだ。組織として曲を作るというのは当たり前だったようで、今でいうゴーストライター、という感じとは少し違うのかもしれない。あえて言うと個人というより、その組織自体が事務所として仕事を仕上げるようなところがあったのかもしれない。
 そういう中にあってアンナは、バッハと結婚する以前から、歌手として相当に稼ぎのある人だったようだ。いわゆる歌い手としてのある種のスターであって、音楽的な才能にあふれた人であったのかもしれない。バッハとは16も年が違うが、子供の頃からバッハから音楽的な教えを受けていた可能性もあるという。結婚前に亡くなっていた先妻に4人の子があり、アンナ自身も13人の子を産んだ(うち7人は早世した)。
 アンナはバッハの楽譜のほとんどを清書した。バッハの書き残した曲の最終的な楽譜としては、だからほとんどはアンナが書いたものであるという。後に問題とされているのは、そのうちのいくつかは、アンナ自身の作曲ではないかと言われていることだ。アンナ自身が作曲したという決定的な証拠というのは残念ながら残っていないにせよ、アンナ自身が作曲が出来ただろうことは間違いなさそうである上に、ある種のバッハ的な曲とは異質で、さらにバッハ的である以外に優れている曲が多数ある為である。
 アンナの死後に何故か息子たちはアンナに関する記録を抹消していて、いわゆるバッハ家としての男性的な系譜の中に、アンナの才能は埋もれてしまっているように見える。しかしそれは、当時の男尊女卑的な風潮がそうさせてしまった可能性があって、偉大な父バッハの業績を継承するバッハ家という図式こそが、格調高きものとして尊重される風土があったのかもしれない。
 だが問題はさらに複雑で、このミセス・バッハの作曲家としての再発掘は、現代的なジェンダーの目からの再評価という側面もあることだ。一方では歴史的な男性偏重、一方で現代的な女性権利擁護のせめぎ合いの感もある。事実がどうだということも含めて、その背景が妙に立ち位置をゆがめているようなところがある。
 今となっては資料として証明するに至っては、完全証明というのは難しいのかもしれない。しかし、アンナの作曲家としての名声はどうあれ、女性の能力として才能を疑う人が現代人にいること自体がナンセンスだ。ぜひとも切り離して研究が進んでくれたらいいのにな、と思う。
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ハートをROCK

2016-12-17 | 音楽

 松田聖子に「ハートをROCK」という歌がある。歌詞は松本隆、曲は甲斐よしひろである。曲調はシュープリームスの名曲「恋は焦らず」に似ていて、聖子ちゃんが歌っていた同じころには、ジェネシスのドラムだった毛の薄いフィル・コリンズがリメイクしてヒットしていた。だからその頃の僕たちは、単にパクリの曲という認識しかしていなかったけれど、よく聞いてみるとアレンジが似ているけれどメロディそのものが一緒という訳ではない。
 ところでしかし、この曲が好きだという同世代の男というのは意外に多くて、小さく盛り上がる話題の一つである。というか、ヒットしていない割に、皆よく知っている。
 僕がカラオケでよく歌っていたのは、聖子ちゃんでは「制服」で、これは赤いスイートピーのB面の曲だった。B面という表現を若い人は知らないので、このようにいうと同世代にはウケる。同じくB面(ガラスの林檎)だったSweet memories も地味にファンが多いけれど、これはサントリーのCMでもおなじみで、「制服」と同列に論じられるのには少し抵抗がある。まあ、そんなことを言いあって飲むのが楽しい訳だが。また、何故かこの歌詞について黒柳徹子が、女が男にベイビイというのはおかしいのではないか、と批判したりした。しかし現代では若い女が、男でも爺さんでも「かわいい」という。聖子ちゃんは少し時代が早すぎたのだろう。
 ところで「ハートをROCK」に戻すと、確かに聖子ちゃんらしい魔力のある曲なのである。歌詞はググって確認してもらいたいが、勉強のできる堅物の恐らく理系の男の子に恋心を抱き、困りながらも付き合っているちょいワルの女の子の感情を歌ったものである。クラクラするような安易な歌詞ながら、聖子ちゃんに興味が無い男の子でも誘惑されているような気分になる。今聞くと80年代の表面豪華主義的な嘘っぽさはあるものの、聖子ちゃんに騙される男たちを縮図にしている世界観が見事に表現されている。
 要するに聖子ちゃんというのは、ぶりっ子しててかわいいが、体育館の裏でたばこを吸っているイメージが一番いいと思うのである。それを知りながら抗えない、もしくは騙されていくというのが、正しい鑑賞の仕方だったのではないか。
 若いころというのは、まじめでいい子の魅力をまだわからないものである。まあ、それで仕方ないと言えばそうなんだけれど。
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知られたくない過去とお付き合いにはご用心

2016-10-24 | 音楽

 恋は詩人を作るとも言われるが、世の歌というのは、やはり恋愛関係のものがダントツに多いのかもしれない。メロディに乗せて様々な恋の歌が歌われてきたわけだが、そうすると、やはりこの曲や詩を作っている人の恋愛体験が、ダイレクトに活かされている場合というのは、当然相当あるということになろう。
 ある有名な女性シンガーの歌詞が、やはり以前付き合っていた男性シンガー(タレントだったっけ?)との恋の暴露話だと話題になったことがある。結構ボロクソに貶されている内容なので、ははあ、あの男もこんなことをしでかすのか、という興味を持たれたというのがあるんだろう。ゴシップとして面白い訳だが、そんなに正直に書くものなんだろうか。また女性シンガーが書くので面白いと言えるが、男性のミュージシャンだって詩は書くわけで、これが付き合っていた女性が見え見えで、さらに内容がボロクソならば、どんな評価になるだろうか。むしろあんたがつまらない男だという逆評価になりかねない気もする。もちろん発表までにいろいろ言われることもあるだろうから、そこのあたりは、計算されて描かれている世界かもしれないが…。
 やはり過去の恋愛を素直に詩にあらわすことは当然らしくて、しかし複数の人と付き合うことや情景を並べているらしく、これが特定の個人ということであるとは限定されない、というのが正解のようだ。いろいろな人とのストーリーをつなげて適当な一篇としているという回答が一番多いようだ。しかしこれも直近のものと、そうとう過去とはやはり印象がかなり違うだろう。そういう言われ方をすると、かえって特定の人をモデルにし過ぎていることの言い訳のように聞こえないではない。
 ちなみに小説などの世界も、度々暴露話で訴訟になったりしている。発禁になった作品も数多い。ヒット曲の場合もそういうのがあるのかもしれないが、既に取り返しのつかないくらいの影響がありそうな気もする。場合によっては泣き寝入りということもあろう。むしろ訴訟対策としては、あくまで創作だと突っぱねてしまうより他に手が無いのではないだろうか。
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屈託なく自由なサンタナ

2016-10-11 | 音楽

 たまたま寄った場所でテレビがついていて、大リーグのたぶんプレーオフの中継をやっていたんだが、インデアンスの打者でカルロス・サンタナというアナウンスがあって、ちょっとドキッとした。髭がユニークな黒人の青年で、後で調べたらドミニカ出身の選手ということだった。
 ただそれだけのことなんだけど、僕らにとってカルロス・サンタナと言えば普通はギタリストのことである。カルロスなんて名前はありふれてるし、同姓同名なんて珍しくないとは感覚的に分かるのだが、南米系の付き合いが無い為か、あんがい初めておんなじ名前に出会ったという感じだろうか。
 さらにちょっとしたシンクロがあって、実は少し前にK営協のK島副会長に、サンタナのギター・ヘブンというCDをいただいたのだった。ハードロック系のギタリストが、直球で選曲したベタベタのカバーアルバムで、ツェッペリン、ACDC,ディープパープル、クリーム、ジミヘンなんかの曲を選んでいる。ちょっと変わっているかな、というのにジョージ・ハリスン、ストーンズ、Tレックスという感じだろうか。
 そしてもちろん見事にすべての曲がサンタナ化していて、かなり笑えます。いや、凄いな。
 しかしながらサンタナの売りは情緒的な泣きのギターという感じなんだが、あんがいカラリとしてる感じかもしれない。バン・ヘイレンもやってたりして、ちょっと違和感あったけど。
 まあしかし、いまどきこれくらい素直な感じでカバーしちゃう人ってかえって珍しいんじゃないかとも思うし、勇気があるというか、もしくは何も考えてないんじゃないかという思いもあったりする。普通はこんなことを喜んでするのはアマチュア・バンドなんじゃないかとも思う訳だが、これだけキャリアのある大物だからこそ、屈託なくできることなのかもしれない。
 でもまあ、そんな心配を勝手にしてしまうということが、僕の日本人としての勝手な限界なのかもしれない、と反省したしました。
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スターこそ長生き

2016-09-15 | 音楽

 僕の若いころには、詩人は21、ロックスターは24までしか寿命が無い、と言われた。詩人は病弱とか食えないとかいうこともあるのかもしれないが、ロックスターは不健康なので、ドラッグや事故などで若くしてよく死んだ。もっとも平均寿命はもっと長かったろうが、多くの人が早死にするのが当たり前に思われていたのだろう。また、やはりあちこちのステージでお呼びがかかるので、移動するときに事故に会うというのもあったのかもしれない。特に国土の広い米国などは、飛行機で移動する必要がある。当時の航空機はあんがいよく落ちて、よく乗っている人が当然犠牲になる。また自家用機のような小さい機体の方が、不安定で落ちたということもあったかもしれない。そのおかげで航空機は目覚ましく発展したとも言われていて、まあ、そんなに無駄な死でも無かったかもしれないが。
 ところが近年のロックやポップなどの芸能の世界の人は、実はかなり健康に気を使う人が多いのだという。食事に気を遣い、よく運動する。中にはいまだにドラッグをやっている人もいるのかもしれないが、ステージで客の期待に応える精神的な圧力のために、つい手を出すということかもしれない。でも結局そんなことをしても長くは続けられない。以前は常習の噂のあった人も、ほとんどは止めてしまうのだという。
 以前はレコードが売れたら、それなりに印税が入って生活が安定した。余裕があるうちは派手に使っても気にならない。また人前からしばらく消えても、またレコードの発売を待ってくれる息の長いファンもいたのかもしれない。ところが現代になると、すっかり固形物としてのCDなどは売れなくなった。ヒットしている曲の目安は、何回ダウンロードされたか、ユーチューブなどで再生されたかという回数が目安になっている。そうして世間に拡散されて、人々はその人のステージを見に行くようになる。要するに活動をやらない限り収入が増えない。だからまともなスターというのは、ステージで安定したパフォーマンスを続けてやれる人ということになるようだ。人が集まる場所では、それなりに動かないと目立たない。ダンスも踊らなければならないし、張りのある歌声も、それなりに維持する必要があるのだろう。さらに往年のスターは家族も増えているし、昔は喧嘩した仲間もまた一緒にやらないと生活できないと懇願される。嫌でも体を鍛え直して、表に立たざるを得ないのだろう。
 そういうのが果たして健康的と言えるのかは微妙な気もするが、少なくともロックスターの寿命は、これからも伸び続けるのではないだろうか。
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偉い歌い手さんとは

2016-08-17 | 音楽

 テレビで平井堅が、コンサートでは出来るだけCDと同じように歌う、と言っていた。理由として、自分自身が好きな外タレ歌手のコンサートに行った折、サビのところであまりに違う節回し(フェイクとか言ってたな。要するにくずして歌うことを指していると思う)で歌うのを聞いて、激しく失望した経験があるからだという。確かにそれがカッコいい場合もあるけれど、好きな曲を繰り返しCDなどで聞いて、楽しみにコンサートで本人の生の歌を聞きに行ったら、ほとんど違う曲のようなものを聞かされたショックが大きかったのだろう。分かる、分かる。
 僕は自分で演奏するのならともかく、生演奏というのはあんまり好きではない(クラシックとかは別で、フォークソングなんかも別かもしれない)。いや、生なりにいいというか、それがいいというのも分からないではないが、音の作られ方を含めて、完成版のレコードの方が、やはりいいと思う方かもしれない。そもそも田舎住まいだから、機会自体が少ないし、予定を合わせるのもおっくうだし、既にそのような若さも無いから(若いころには金が無かったのが一番の理由だったが)、そもそものコンサートなどに出かけていきたくない。さらに長い間立って聞くのも疲れるし、座れる場合も移動があんまりできないのは、トイレに行きたくなってつらい。だから妙な節回しの原曲と違う歌い方にあんまりショックを受ける機会すら失ってしまった。平和といえば平和である。
 でもまあ、数少ないヒット曲を繰り返し歌うシンガーの身になってみると、もう同じように歌いたくなくなる気分も分かるような気もする。鼻くそくじってても、逆立ちしてても、次には何が来るか分かっているような状態にあって、違う節回しで気分を変えたくなるのではないか。さらに練習すらしている訳で、その時同じく同じ節回しに飽き飽きしてきたバンドマン達も、そういうのも面白いねえ、などと賛同したりして、これはもう冒険するより無いという気分になるんじゃなかろうか。
 ということで、平井堅は偉いシンガーだな、と思ったことだった。
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