音楽のネット配信に反対するミュージシャンの話題というのがあった。タダでは音楽家は育たない、ということのようだ。言い分は分かるが、要するに自分のためであり、聴く人のためではない。そこのところがちょっと弱いな、と思うが、生活苦の人でない人が、生活苦の音楽仲間を救うという思想めいたものもあったようだ。まあ組合活動なんかも自由だし、言い分が通るかどうかも含めて共感のある人はいるんだろう。音楽が生まれてパトロンがいた時代とは違うとはいえ、大衆に音楽がある以上、売り方の変遷があって当然である。CDが売れなくなったとかいう議論とも複雑に絡んでいるようだけれど、聴き方のスタイルが変わったのだから、その売り方の勢力図の変遷であるに過ぎない。思想でどうこうすべきという問題ですらないから、なるようにしかならない。人々が本当に音楽を必要としなくなったのならともかく、商品としての音楽はまだ健在で、だからこそスタイルが変わるに過ぎない話だろう。僕なんかいまだにCDにMDなんだから乗り遅れもいいところで、しかしこの便利さを捨てる必要もないんだから、ネット配信みたいにまどろっこしいものに本当に移行できるものなんだろうかと考えてしまう。無料だと数曲ごとに宣伝が入ったりするというから要するにラジオみたいなもので、いったい何の問題があるというのだろう。
商売というのは勝負でもある。失敗する可能性もあるが、支持を受ければ巨大化する。安定するとライバルがまた切り崩しにかかるだろう。要するに彼らは身銭を切っている訳で、のれなかったら別の多様性に生きたらいいだけのことのように思える。他の産業だって皆似たようなことだろう。音楽だけが特殊に思えるのは、要するに聞く行為に本当にタダが可能だからだろう。しかし本だって図書館でタダだし、青空文庫だってある。著作権の違いのようなこともあるけど、そういう縛りをしたところで国境を越えて、または違法も含めた抜け道は必ずあるから、あくまで範囲内でやれる商売があるというだけのことではないか。
しかしながら、音楽はさらに聞いてもらわなくては始まらないということもある。無料配信でリスナーの掘り起こしが進んだ方が、そうしてそういう場が広がった方が、多くのチャンスを手にする可能性すら失うことになる。いわばプレイをする場、グラウンドが必要なわけで、それをどこにするのかという選択はゆだねられているということにならないだろうか。リーグの違いもあるから必ずしも同じ土俵ではないにせよ、ただで呼び込める人をあてにできた方が、生き残りの可能性は高まるのではないか。生き残り続けることは誰でも難しいので、それはどんな商売でも同じことである。食えない人が多いからこそ、生き残る音楽の価値が相対的に上がるということもできるから、切磋琢磨は厳しいこともそれなりに必要だろう。保護をしなければならない分野に、やはりそんなに明るい未来は無いのではなかろうか。