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カワセミ側溝から

好きな言葉は「のこのこ」。好きなラジオ中継「相撲」。ちょっと苦手「煮た南瓜」。影響受けやすいけど、すぐ忘れます。

偉大なり「北の宿から」

2015-06-08 | 音楽

 録画していたカバーズという番組を見た。サリューというひととさかいゆうという人を連続で見たが、共に知らない。しかしながらお二人とも、なんだか凄まじく歌が上手かった。声の出し方が調子いいのかもしれないし、やはり結構歌いこんでおられる。そうしてコントロールができているということなんだろう。
 ということでは感心したのだが、面白かったのは、共通の話題として若いころに聞いた「北の宿から」の影響力の話だった。なるほど、あれはそんなにすごい歌だったんだな。
 「北の宿から」のことで覚えているのは淡谷のり子で、淡谷はこの歌が大嫌いだったらしい。「着てはもらえぬセーターを、涙こらえて編んでます」なんて馬鹿みたい、とおっしゃっていた。確かにそれは言えていて、僕も確かにバカだと思ったのだが、それを本気で指摘している人というのは、やはり可笑しい。
 そう思って滑稽な歌だと思っていたのだが、考えてみるとこれは僕もよく覚えている。演歌というのは好きではないのだけれど、この歌が嫌いかといわれると自信が無い。久しぶりにネットで聞いてみると、驚くほど隅々まで覚えている。なんだ、まじめに聞いていたのかな、と思った。
 また、寅さんでも都はるみはマドンナになっており、ほとんどこの歌がインスピレーションになっている。歌姫はこの歌一つでやはり一世を風靡したのだ。楽曲がいいというだけでなく、やっぱりこの歌い方にあって、自分と歌が一体化した世界というのが力強いのではあるまいか。
 歌が好きな人というのは、やはりある程度正直に生きていないといけないのかな、とも思った。これはいい曲だが、演歌の世界でない人が、素直に影響を受けたとは言いにくい感じもしないではない。そういうことを考えさせられたのだった。
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偏向理解者

2015-05-15 | 音楽

 椎名林檎のインタビューか何かを見ていたら、彼女が本来好きな曲は「歌詞がいらない。音楽には言葉は邪魔になる」というような意味のことを言っていた。人間というのは、ついつい言葉の意味に引きずられてしまう。そうすると音楽そのものを聞かなくなってしまう。音楽を聞くという行為にとって、歌詞がついているものはどうしても邪魔に思えるのだ、ということのようだ。
 ちなみに自分の作る曲というのは、あくまで職人として皆に受け入れられるものを考えているということであって、自分が好きなものを作っている訳ではないそうだ。自分を売るという意味で、ビジュアルも計算の上でやっていることで、そういう自分を映像で確認して、演じているということらしい。そうして構築された世界を隅々までチェックしてやり遂げるということで、まるで建築現場の監督さんのような仕事を音楽でやっているというのだ。だから音楽に自分がノッてきて、「イエーイ」となったことは無いんだそうだ。
 知らなかっただけのことだけど、プロというのは違うものですね。まあ、それが彼女の個性だとは思うが。
 しかしながら思い当たることは、僕なんかは英語もまったくわからないくせにふだんはいわゆる洋楽が中心だ。それも今ではいささか古めかしいものばかりだ。これだけ長い間聞いていて、さらにろくすっぽ英語の発音が良くなったということもない。まあ、歌詞を聞いてないこともないのだろうけれど、英単語として聞いてないということだろう。時々歌詞のカードなどで内容を知って、愕然とすることもある。この曲はこんなことを歌ってたのか…。まあしかし良くわからん方が、曲を聞いていて気楽である。だから好きな曲は歌えもしない。
 要するに音楽を聞いていたのだろう。日本のロックもまったく聞かないではないが、確かに歌詞が邪魔をしている場合もある。日本語は理解できるから、ところどころ聞き取れないとイライラする。日本の場合のみは、歌手にはちゃんと歌ってほしい願望がある。桑田佳祐くらいになると、そういうことは望まないけれど…。
 外国の曲の方が聞きやすいというのは、言葉が分からないということが、あんがい大きいのかもしれない。むしろ自国の歌しか聞かないような人というのは、それは好き好きだからかまわないことだけれど、知らず知らずに歌詞に引きずられていることに、無自覚なのではあるまいか。まあ、歌っている人が何かを伝えたかったのならば、僕はよき理解者ではないのであろうが、わからないけど曲が好きだという変な関係者ではあるのかもしれない。
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人柄が大事

2015-04-30 | 音楽

 ちょっと衝撃を受けた話。女の人たちにとって、まず大切なのはその人がどんな人なのかということ。容姿ということもあるし、着ている服などのファッション。ちょっと共感できる考え方だとか、まずはその人なりに興味が持てなくてはならない。そうして自分にとっていい人であるという確認後、じゃあその人が歌っている曲などを聞いてもいいかということを考えるらしい。だから最初にテレビなどの情報が不可欠で、そういう露出情報ということが極めて重要になっているのだという。
 確かに嫌な奴の音楽なんて聞きたくないというのは分かるのだが、そんなこと微塵も考えたことがなかったもので…。
 人々は音楽を聞かなくなったといわれる。実はそんなことは無いと思うが、多分消費としてCDなどの媒体が売れなくなっていることを指しているにすぎないような気もする。一方でビッグネームといわれている音楽家の収入は、やはり以前と比べて莫大に増えているという。コンサートなどは大掛かりになって、それでもちゃんとソールドアウトする。バンドなどは解散したりするが、またしばらくすると再結成されたりする。息の長いファンがいるということもあるけれど、フロントマンや作詞作曲をしないメンバーが生活に困って、また皆を集める必要が出てくることが大きな理由らしい。要するにやはり飯の種として十分機能しているということだろう。
 商売としての音楽は多様化して、そうしてそれなりに課金の方法もあるんだということかもしれない。もともとレコードやCDなんかはあんまり売れてなかった演歌歌手なども地道に生活できる人もいるようだ。タレントとしての生き方次第では、息の長い活動ができる。話を戻すとそのようことであれば、やはり音楽家も人柄が実は第一の素質ということになるんだろうか。
 僕のようにロックのようなものばかり聞いている人間にとっては、ミュージシャンやバンドマンというのはどうにもくだらない連中が多いということばかり知っていて、とても社会生活がまともにできそうにないと思い込んでいたのかもしれない。ツアーなんかでホテルに泊まると、備品は壊すは女をつれこむは、などの悪行を行うろくでもない奴らばかりだと思っていた。そうして長生きしても仕方ないので酒を飲みすぎたりドラッグを吸ったりして早々に人生を終わらせる。悲しいけれど、まあ、仕方ないかもな、と思っていた。
 しかしながらやはりバンドは終わっても人生がそんなに簡単に終わらない人だってそれなりにいることだろう。彼らや彼女らがその後どうやってサバイバルしていくかというのはやはりあって、せめて見た目だけでも良くして人付き合いを大切にして業界に居続けるというのは実に素直な戦法かもしれない。音楽というのは要は興業なので、実にそれは当たり前のことなのだ。
 悪い奴らは生き残れない。なんだかそういうのは、ちょっと物悲しいという不思議な話なんであります。
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終わりから始まるこれから

2015-04-29 | 音楽

 世界の終り、いわゆるセカオワのことは僕だって知っている。ピエロがいるバンドってくらいのことだけれど。今更だけど、それなりの露出があるから、あんまりテレビを見ないような生活を送っていても、目にする機会がそれなりにあったということなんだろうと思う。さらに言うと、やはり宣伝もあろうかと思うものの、それなりにブームというか、キワモノというか、マスコミなどに乗りやすい対象でもあると思う。ちょっと危ういが、病気の関係もあるので慎重に叩けない感じもある。しかし特に若い世代には確かな共感があるらしいこともあるし、それが理解できないおとなの図式というのも、おもしろいと思われるのかもしれない。それは僕のような立場にある人間もそうで、ものすごく率直に言うと、彼らの背景というか情報というのはなんだかかえってウザい感じもするわけなんだが、それが恐らく若い人への共感の根幹で、その後に音楽があるということ。ビジュアル的になんとなく嘘っぽいけれど、それがかえって夢だとか希望だとか、そうしてファンタジーとして機能しているということになるんだろう。基本的に僕のような世代が理解できないからこそ若い人が特権的に共感できる土壌が生まれるということもいえて、それがとても健全に機能していると考えていいだろう。
 考えてみると、若いころに聞く音楽というのは、その後の一生を通じて、ある程度基盤となって身に付く傾向にあると思う。そうしてやはり背景として、それは僕らのようにロックを聞くということは、反抗であるとかカウンターカルチャーであるとか、新しさであるとかいうことがものすごく重要だった。セカオワの音楽は、それなりに素直だと思うのだが、しかしそれに付随するエピソードには、なんとなく不健全というか、危うさだとか、不安定な感じがする。それで本当にいいのかというのは大人ならなんとなく嗅ぎ取る匂いなのではないか。しかしそれを、それなりに屈折しながらも、ドラマを持ちながら上昇するような躍動感があることも確かなのだ。その場所にいながらも、それでいいという同意がそこには感じられて、閉じているが、確かな共感につながっているのではなかろうか。若いころの苦しみへの解毒にもなっていて、それが熱狂を作っていくという図式なのではあるまいか。
 結局わからないからそのように無理に解釈しているだけのことなのかもしれないが、お互いに理解されないくらい彼らは健全で、僕らは不安なだけなのだろう。こういうのは単純な努力ということではなかろうけれど、ともかく頑張ってくださいという感じなんだろうか。
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長い休暇は明けてないままのようだ

2015-04-19 | 音楽

 大瀧詠一の特集のような番組を見た。進行役が萩原健太という人で、僕はよく知らなかったのだが、声は聴いたことがあるような気もするので、ラジオか何かの人で知っていたかもしれない。ほかにもゲストがいたが、ほぼこの人の進行の話が中心で、大変に面白かった。大瀧詠一愛のようなものにあふれていて、確かに知らないことが多くて、ちょっと驚いたりした。
 僕が大瀧詠一を知ったのは他でもなく、a long vacation である。当時中学生だったが、渋谷さんの番組では洋楽だけでなく邦楽も紹介されていて、それでロンバケの紹介があったのだ。すぐにアルバムを買いに行ったのを覚えているので、かなりの衝撃度だったことは確かだ。学校でもすぐに話題になって、これを放送部でかけるように話が持ち上がったりしたようだった。その後大瀧詠一的な音がすぐに氾濫し、日本の音楽の世界はまったく様変わりしたように感じられた。僕にはこれがアメリカン・ポップだったなんてことはまったく意識したことがなかったが、大瀧的な音というのは、なんだか物悲しくもゴージャスでハッピーだった。真似している音はともかく、大瀧さんの作曲やアレンジであるのは聴けばすぐに分かるもので、そういう感じもやっぱり凄いもんだな、と思ったものである。
 しかしながら、実ははっぴいえんどはそれ以前に知っていたのである。これはすでにかなり過去の伝説バンドだったから音も知っていた。そうだったのに、僕はしばらくこれは全然違うもののように感じていた。大瀧詠一という人は相変わらずテレビで見ることは無く、本当にラジオから曲の流れる人だった。かなり影響力を持っているらしいとは感じていたが、本人は出たがらない人だったのだろうか、よくわからないが、関係のあるらしい人々は一緒になってブレークしているように見えたのだが、本人はこれだけ売れてもやはり裏方に潜っていたように感じた。相変わらず大瀧的な音はよく聞いていたので、そういう儲け方もあるんだろうな、と思っていたくらいだ。
 このような特集を見ていて、やはり本人の映像は少なかった。テレビなのにジャケットの絵を固定で見せて、曲が流れたりしていた。実に不思議な感じだが、やっぱりそういう人だったのだろう。確かリンゴを食べていて死んだらしいが、普通ならなんとなく間抜けな感じの死に方に違いないのだが、特にそんな風な印象は受けない。そういえば亡くなられてたんだったな、と改めて思うくらいだから、ショックだったとはいえ、衝撃ではなかったかもしれない。不思議な才能の有り余る人というのは、そんな静かな存在でありながら、残るということなんだろう。
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僕が打席に立つ時は

2015-04-03 | 音楽

 「村上さんのところ」をつらつら(最近の日課みたいなものだ)見ていると、野球の代打で登場するときにどんなテーマソングがいいか?という質問があった。僕は今はほとんど野球観戦をしなくなった(あれは都市部の娯楽だし、テレビはタイムリーではあんまり見ないから。そもそも中継って今は少ないんじゃなかろうか)のでそういえば、というくらいしか知らないけど、自分の打席で選手紹介されるときに、何やら球場によっては音楽が流れたりするようですね。米国リーグなんかでもそんなのがあるような記憶もかすかにあるし、ファンサービスのようなものなんだろうか。もしくはプロレスなんかの影響があるんだろうか。
 それはいいけど、村上さんの答えがドアーズの「ハートに火をつけて」のイントロだった。それで僕は思い出したのだけど、友人のM田君の結婚式の時(余分な情報だが、残念ながら現在は既に離婚)に、新郎新婦が入場するときにRCの「指輪をはめたい」が流れた。いい曲だけど、これはちょっとエロチックな連想をするような歌詞なんで、僕ならドアーズの「ハートに火をつけて」にするんだけどな、と考えたのだった。そんなことをいまだに覚えているのは、結局僕は自分たち主催の結婚式をしなかったから、その考えを実現できなかったという事もあるかもしれない。まあでもよく考えてみると、この曲がその場にふさわしく理解されたかはいささか怪しいわけだが…。
 村上さんに取られたからいう訳じゃないが、ドアーズがダメだとして、僕が打席に立つときにはどんな曲がいいだろうか。ふと思いついたのは、ツェッペリンのwe’re gonna grooveなんて威勢良くていいんじゃないか。もしくはクリムゾンの21st century schizoid mam とかね。いや、クリムゾンはありふれて使われている可能性はありそうだな。もう少しさわやかに、チープトリックのI can’t take it もどうだろう。パリスのblack bookなんかもかっこいいんだけど、ちょっと違うかな。大瀧詠一の「君は天然色」もよさそうだよね。いっそのこといろんな曲を打席ごとに変えてもらうといいんだけど、それじゃトレードマーク的な役割は果たせないんだろうな。その前に監督に使ってもらわんことには話にならない訳だが…。
 という事でちょっと考えただけでもなかなか楽しい。特に野球なんてしないわけだが、登場だけはしてみたいかもしれない。
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BGMが気になって

2015-03-13 | 音楽

 ふらっと入った店で妙に流れている音楽が気になることがある。正直言って不快なものほど気が付くわけで、そりゃ無いんじゃないか、という思いに囚われる。打ち合わせとかの邪魔になったり、いっそのこと出てしまおうかという気分になることも無いではないので、客の回転率を上げるための方策なのかもしれない。たぶん違うだろうけど…。
 これから春だけど、いろんな店の催しのようなもので、ビバルディが普通にかかるようになる。まあ、分からんではないが、かなり煩わしい。そりゃ、いい曲なんだというのは分かるけど、いつもいつも春になったからといって聞きたいわけじゃない。もういい加減、春になったからといってこれを流さなくてもいいんじゃないか。年末の第九も同じで、演奏会に聴きに行く人はそれでかまわないだろうけど、年末だからって安易に皆がこれを聞きたいわけじゃない。リバプールの人間がビートルズがうんざりだと言っていたように、店の従業員だってもういい加減うんざりだろう。安易な発想で曲を選ぶべきではない。
 変わった取り合わせの意外性を狙ったというのもある。ちょっと前からだけど、例えばラーメン屋さんがジャズをかけている様なのが増えているように思う。ここは個性的な味を出してますよ、というサインかもしれない。特にそれはかまわないと言えばかまわないが、やっぱりなんだかな、という場合も無いではない。そういう変な気合いとか気負いというのは、客を微妙に緊張させる。食べる評価も厳しくなったりしないだろうか。
 ジャズと言えば、蕎麦屋のジャズもあんがい多い。そういう店は、えらく高かったりする。だいたい関東あたりの蕎麦は、この量で本気かよ、というような店がある。入ってしまった災難を呪うより無いが、これが夜のバーだったりするとぼったくりバーといわれて恐れられるわけで、昼の蕎麦屋がそれでいいのか?と思ったりする。結局ちょぼっと食って腹は寂しいまま、やはり追加しても悲しいので立ち去る。ジャズが追い打ちをかけて心を寂しく洗ってくれる訳だ。
 演歌を堂々とかけている店があって、これもチェーンの蕎麦屋だったな。ギョッとするが、立ち食いで短時間だし、誰とも特に何もしないような場所なので、やはり回転率と影響があるんだろうか? 謎だがやはりそんなに頻繁に行きたくなくなるのは確かである。
 そうなんであるが、安易に有線放送というのも、やはり芸は無いですね。それで別に悪いわけではないし、勝手にしてもいいけれど、イージーリスリングというのだろうか、ああいう特に主張も無く無難な感じですいませんというのは、かえって卑屈な感じも無いではない。個性が無いから客のことを考えているという事なんだろうか。まあ気にするなという意味なら、何にもかけなくてもいいんじゃなかろうか。
 僕は普段はロックばっかり相変わらず聞いているんだけど、ロックがガンガンかかってたり、最近だとヒップポップがかかっているような店に居ると、さすがになんとなく年を意識する。平たくいってそういう店だと、僕はそれなりに場違いなわけで。
 飲むような店ならそれでもいいかもしれないけど、話をしているようなときには知っている曲はあんがい邪魔だ。テレビをつけて飯を食うようなもので、なんとなく気になってしまう。好きな曲が流れているからそれでいいという問題ではないのだ。
 店の選曲というのは、それなりに難しい問題が多いようである。というか、これは客の問題というべきか。ま、無視して結構ではあるんだけどね。
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穴ぼこに落ちるように聴く

2015-02-05 | 音楽

 寒い日が続く。そして寒くても聴いていて心地いいという曲はある。
 どういう訳か冬になるとビーチボーイズを聞くという奴がいた。さすがにサーフィンUSAを聴いてビーチに座っているわけではないが、彼らのメロディというのは妙に物悲しくもあり、冬の寒い日に部屋で聴いていても違和感があまりないのだという。ふーん、そんなもんかね。でもまあ、自己主張としてはそれでいいかもしれない。
 僕は何故かU2のヨシュアツリーというアルバムを冬に聴いてたな、と思う。ずっしりとしていて、しかし情緒豊かで、寒い日に聴いて身が引き締る。たぶん宗教的な意味があるのかもしれないが、僕には英語も分からないし、身の危険も無い。あくまで音の感じとして寒くてもぐっと味わい深い感じが良く合うような気がしたのかもしれない。
 寒いとかあったかいとか関係なく聴くもんだ、という意見はあろう。でもまあ、あくまでそんな感じなんだからいいじゃないですか。
 日本だと泉谷しげるをよく聴いた気がするけれど、たとえば春の空っ風のような曲もあるけれど、今の時期というのはあんまり友達とも会わずに、部屋でそんな感じでおいらは分かるぜ、とか思っていた時代があったのかもしれない。
 日本の年度末とも関係があるのかもしれない。春前の別れの予感の季節。妙に感傷的にもなる。区切りとしての終わりと、春以降のなんとなくの不安。そういうことがないまぜになって、却って曲にのめりこむような姿勢になる。そういう感じはあるかもしれない。
 だいたい普段は、とっかえひっかえ落ち着きなくばらばらに統一感無く曲を流して聴いている。それで最近ある映画を観たせいか、デビット・ボウイなんかも聴いて、これも冬にやっぱりいいな、と思ったりした。古いものばっかりで進歩のかけらもないが、音楽を聴いて進歩っていったいなんだろうな。だいたいこれは前に進むような行為なのかという事自体が疑問だ。過去に進んだり深い穴ぼこに落ちたり、曲を聴いて思う事って、実はそういうことの方が多いかもしれない。何の崇高なこともありはしないが、暗く落ち込んでいてもそれはそれでいいのが、冬の寒さの続く日々かもしれない。
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当時は分かりえなかった奇跡的なこと

2015-01-11 | 音楽

 録画していたはっぴいえんどのドキュメンタリーを観た。
 はっぴいえんど自体は小学生か中学生の頃には知っていたが、当然そのころにも知る人ぞ知る伝説のバンドだった。その後再評価ということでレコードも目にするようになったが、知っているけどそういう現物のないバンドだった。要するにぜんぜん売れてなかったのだけど、影響を受けた人がそれなりにいて、そうしてその元メンバーが後に大変にメジャーになったために再評価されたということだ。
 日本語とロックという議論がそのころにはあって、どういうわけかそういうことをまじめに議論するような風潮があった。今考えるとどうでもいいような話なんだが、やはりそのころの人には、舶来のものについて、まだ身についていないような感覚が、当人や周辺にあったと思われる。
 そういうことの代表バンドというか、一番の走りのような存在ということで、そのころも現代も通っているわけだが、個人的にはこれがロックなんだな、というのは、そんなに実感の伴わないバンドという感じがする。古いけれどそれなりに良いし、実際好きではあるけど、日本のロックの原点というと少し違うかな、というのが素直なところだ。たぶんそのころの人の多くはそういう感じに捉えていたはずで、いい曲の多いいいバンドだけど、そんなことにこだわらないところがまた、いいんじゃないかと思うわけだ。
 でもまあ、中心人物が死んで、分解した訳も公然の秘密だった不仲だったということで、今になって振り返ることが可能になったわけだ。それはそれで面白いと言えば失礼かもしれないが、歌の中にバンド内でそのころの心情かちゃんと書いてあったりして、それなりに感慨深い。バンドだけどバラバラにいろいろな思いがあって、知ってはいたけど、当時であっても面と向かってそういうことにやり取り出来はしなかったのだろう。
 若いだけの事ではないが、人間というのは時間軸の中で生きている。さらに自分の丈の中でしか物事をとらえることは出来ない。既に欠けてしまった思い出も、しかし生きている人がいる限り改めて時間を振り返ることが可能だ。しかしやはり実際には時間は遡れない。当時の事は奇跡として振り返るしかないのだ。
 当時はそこまでスペシャルとは思っていなかった軌跡かもしれなかったことが、実は大変な出来事だった。それがやはりはっぴえんどのいいところじゃないかなと思う。だからこそ人の気持ちに響くとところがあるし、非凡なのだ。当時の人には分かりえなかったのも無理はなかったのである。
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合唱ってあんがい凄いです

2015-01-07 | 音楽

 録画していたギャレス・マローンのドキュメンタリーを見た。6回のシリーズ。様々な職場でその職場で働く人の中から公募して合唱団を結成し、最終的にそれらの合唱団同士を競わせるもの。
 そのような流れとしての興味もあるが、大きな組織のそれぞれの役割のバラバラの関係が、まとまっていく様が見どころになっている。だからどの回のものを単独で見ても、それなりの感慨が得られる。また、合唱をするという行為については同じようなことであるが、それが不思議なことに、やはりそれぞれになんとなくドラマが違うのである。比べてみてわかってくるのだが、つまり団体であっても個人のように個性がある。職種が違えば働く人たちも、ある意味その職場の色のようなものに染まることがあるのだろうか。そのようなことをいろいろと考えさせられるわけだ。
 また、それなりに大きな組織ばかりを題材にしているので、同じ組織に属しているとはいえ、やはり個人の立場というのはそれぞれに違う。お偉いさんから平社員まで。パートというか、契約社員さんのような人もいる。皆それぞれにそれなりに自分の歌には少しくらいは自信がある人が多いのだろうが、日本人の感覚より、ちょっと気軽に運試しのようなことでチャレンジする人もいるように見えた。そんな感じの人たちであっても、だんだんと本当に真剣に取り組んでいって、実に素晴らしいハーモニーを織りなす高度な合唱を披露するようになるのである。
 そのようなサクセスストーリーが感動を呼ぶというのがあるが、この合唱団の参加者だけでなく、その職場自体が、なんとなくこの事件を目の当たりにして、まとまっていくというか、変わっていくということもあるようだった。歌っている人達が、自分たちにそのような力が備わっていくことにも気づかされるようになっていく。中には自分の立場で周りを支配してしまうような上司の人も、権威や力でなく人が動かされることに、新たな発見をみいだす。つまり協調を重視する考え方に変わる。今までは酒場で歌を歌って仕事の憂さを晴らすような典型的な労働者風のおやじが、職場のことに気を付けて業務を改善することまで考えるようになっていく。自分たちのやっていることが単に独りよがりの満足のためではなくて、本格的で一流のものとも遜色が無く、そうして多くの人の心を動かしうることに気づくからである。そのような力を持つ人間が考えるのは、ただコンクールに勝つという目標だけに価値があるものではないということなのだ。
 もちろん限られた時間でそれなりの葛藤やいろいろな仕掛けがあるわけだし、本当に業務が忙しくて才能のある人間が参加できなくなるような事件も起こる。しかしそれこそがドキュメンタリー。実際にそういう事件の中で葛藤する姿こそ、そのどのチームが勝つかという事よりスリリングなのである。うちの職場でも合唱団作ろうかな…。
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高齢化問題を考える

2015-01-04 | 音楽

 ロック界の高齢化問題というのは既に定番の話題になっており、ロック専門誌の写真をぱらぱらと眺めてみても、この世界がだいぶん高齢化していることは視覚でもよく分かるようになってきた。もともと洋楽では西洋人は東洋人に比べて年齢による劣化は見た目に激しいところがあるわけだが、最近は生物として、同じ種であるのかさえ疑わしい派手な人達が写真を飾るようになっている。もともとそういう世界だ、という意見もあるかもしれないが、これはこれで大変に楽しい。
 音楽界というかロックというか、この世界の人たちというのは中性的なところがもともとあって、男であっても化粧をする人というのは一定数いる。いまだにどんな場所でもジーンズにTシャツというのも混在している中、ケバいことで存在をアピールしている人達が、それこそひしめき合っている。
 その代表格は言わずと知れたKISSということになろう。僕が小学生のころから人気があった記憶があるから、まさに息が長い。主たるメンバーは既に還暦を超えていることだろう。
 別段KISSでなくとも高齢者バンドというのは今も生き残っているし、現役でバリバリに人気があるというのもそれなりにいる。しかしそういう中でも、KISSの頑張りこそが一番偉いのだという説がある。それは外でもなくこの外観の維持ということらしい。
 KISSはその派手な化粧だけでなく、あの衣装もそれなりの重量がある。普段から体調に気を使わなければ、とてもあの恰好でステージは立てるものではないらしい。普通の高齢者バンドは、昔やった曲をなぞって演奏するだけでなんとかなるが、KISSになると化粧に時間もかかるし、さらに重たい衣装を身にまとい、激しく動き回って、派手なプレイを成り立たせなければならない。ほとんどそれは命がけの苦行のような世界であるらしい。ジーン・シモンズも、あと何年やれるのか考えないではいられない、とインタビューで答えていたという。実感のこもったものだろう。
 ほとんどお笑いの世界に近いロックの事情だが、人はそれだけ頑固なんだということなんだろう。楽しいことはやめられない。シンプルだからこそ続いていると思うことにしよう。
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愛と悲哀の一人カラオケでは…

2014-12-23 | 音楽

 世代的な問題もあるし、お仲間の問題もあろうが、カラオケとの馴染みはそれなりにある。歌うのは嫌いではないし、最近はそういう機会が激減したとはいえ、年単位で数えると、やはり時々歌う。要するにカラオケは場末のスナックで数人の仲間と歌うもの、という感じが一番しっくりするかもしれない。
 一人カラオケの存在を知らない訳でもない。少し前からそういう風習があるらしいとは聞いていた。テレビのドキュメンタリーなんかも見たかもしれない。好きでやっているのならそれでいいし、楽しんでいる生態があるんなら、さらにいいことである。おひとり様で楽しめる文化が増えることは、多様性として生きやすい世の中になっている可能性もある。
 しかしながら一人カラオケの目的というか、本当の実態を知っていた訳ではなかった。自分のカラオケの感覚からいって、未知の歌の練習にもなるかもしれないとは考えたことがある程度だ。知らない歌を絶対歌わないわけではないが、酔っているからなんとかその場がなるだけのことで、実際にはちゃんと歌えるわけが無い。歌ったことが無くても、曲を聞いたことがあればなんとかなりそうというのはあるけれど、やはり流行りの歌のようにテンポや歌詞の言い回し早いものは、どうにもお手上げということになる。
 ところが一人カラオケの実態というのは、練習とは根本的に違うらしい。そういうことを聞いて、オジサンはやはりなんとなくハッとする訳だ。まあそうだろうと漠然と思っていることとも、なんとなく改めて違うものだろう。カラオケの価値観として上位にあるモノ。それこそが一人カラオケの世界だということのようだ。
 考えてみると集団でカラオケを歌う場合、確かに縛りのある場合が多い。これは年配者でも若年層でもそうそう変わりは無いようで、出張なんかだとその場所にちなんだものとか、その場にいる中心人物の馴染みの世代の歌だとか。要するにその時にあった選曲をできる能力も問われているわけだ。歌が上手いのもそれは芸だが、上手いそのものは実は本当に求められている要素ではない。横着な言い方をすると、場合によってはあまり上手く歌いこなせないように注意して歌ったりすることも当然しなくてはならない。酔って外す方が、いわゆるウケるんならあざとくそうするだけのことだ。それが暗黙の世渡りの術だ。
 一人カラオケには、そういう浮世の義理がカラっとすべて無いわけだ。好きな歌を十回歌おうが、まったく歌えないのをでたらめに歌おうが、それはすべて自由な世界だ。むしろ歌と自分に向き合うことに、実にシンプルに忠実な訳だ。カラオケという文化の発祥の文化からの進化形として、行くべき方向性の上位にあって当然だということらしい。なるほどおみそれしました。
 ということでよく分かりましたが、行ってみっかな~というのは、特にその気にならない。通勤で車の中で時々歌うことがあるんだが、それで僕には事足りているということなのかもわからない。
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アイドルの才能の爆発

2014-11-28 | 音楽
テイラー・スウィフト - 「シェイク・イット・オフ」(日本語字幕付)



 最近何聞いてますか、と聞かれて、まあ、REMとレッチリかなと、とっさに答えてしまったが(それはそれで事実だが)、実はテイラー・スイフトも聞いている。隠してそうしたわけじゃなくて、そういえば聞いてるよな、と自分でも驚きというか…。顔の可愛いアイドルだから恥ずかしがる気持ちもあるし、なんとなく言い訳したくなる気持ちがあるのも確かだ。これがシェリル・クロウだとさらっと言えるんだけど、オジサンとしては誤解のもとという感じかもしれない。素直に聞いて楽しいというか、いいというか、メロディ・メーカーとしての彼女は素晴らしいのではないかと思うのだ。それに今回はさらにポップさに磨きがかかっている。ちょっと演技がかってはいるけれど、明確に自分がどういう存在かをわかりきっている感じだ。おそらく女の子たちの支持が高いシンガーだと思うが、そういう女の子の共感をがっちりつかんで、さらにいい気分にさせている。もともとカントリーでデビューして、そっちでも成功していたようだが、可愛いのでロックの方でも話題になって僕らも知るところとなった。というか、今ではすっかりポップシンガーの女王的存在だろう。
 しかしながら人前では、レディ・ガガなら素直に言っていると思う。育ちがいいくせにストリップダンサーだけあって、自分の露出と過激さを見事に融合させて、さらにシャレの名前でも通じるように、下品でチープだけど、メロディは美しい。これはロックだなあ、ということで、普通に遡上にあげられる。
 テイラー・スイフトだと説明がいるのは、そういうアイドルへの反発があるのと、音楽としての距離感というのがあるのかもしれない。本当のところは知らないでいうと、彼女はこういう路線が必ずしも本意では無いのではないか。やはり普通にカントリーを歌いたいのだけれど、自分の器用な才能もあって、こういうこともできてしまう。さらにそれこそが世間で求められている自分なのだ。そういうことをきっちり割り切って、それでいながらぶっ飛んでしまうこともできてしまった。そういう感じがするのである。それはそれでロックじゃないかな、と思ってしまうわけだ。本当に力強くて圧倒されるような感じで、ついつい聞いてしまうというわけだ。まあ、実際のところ、単純に僕がミーハーなだけのことなんだとは思うのだけれど…。
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飽きるものはしょうがない

2014-11-07 | 音楽

 テレビ見てたらリバプールの特集のような事をやっていて、リバプールと言えばビートルズってことで、まちがビートルズを観光資源にして盛り上がっている様子を映していた。何でもかんでも彼らにまつわるエピソードのあるものは利用しまくって、観光化している。それ自体は大変に楽しくはあるし、実際に観光客の目当てはそれなんだから理に適っている。港のある工業地帯というのは知らないではなかったけど、そういう町おこしがあって当然の事だろう。
 ということで、パブに入ると当然のごとくバックにビートルズの曲ばかりかかるのだという。地元の人も当然盛り上がっているのか、というと、正直言って飽きちゃったと言っていて可笑しかった。まあ、そりゃそうだろうな。僕は某スーパーとか、店に流れる会社のテーマソングのようなものが繰り返し流れているのを聞くのがものすごく苦痛なんだが、あれを店員は我慢して仕事をしているわけで、あれは会社に忠誠を尽くせなくなるんじゃなかろうかと心配しているのだが、まあ、イランお世話でしょうね。
 子供のころに米国にはツェッペリンの曲だけを流す専用のFM局があるという話を聞いて、いいなあ、と純粋に思ったことがあったけれど、でもまあそんなことをやらされているDJにしてみたら、やっぱりそれはそれでつらくなるんじゃなかろうかとも思う。何事も過剰すぎるのは良くない。多少の欠乏があるくらいが、物事が長続きする秘訣なんじゃなかろうか。
 やっぱり以前にJCの後輩の車に乗せてもらったら、そのころ流行ってたのか知らんが、ミーシャのエブリシングを何度もリピートしてかけていて、大変に閉口した。この人は明らかにヤンキーが入っている人間だったが、ある面は僕も評価できるところがあったのだが、その後はやはり一定の距離を置くことにした。酒を飲んでもできるだけ彼には送ってもらわないように気を使った。何しろもう二度とそのような拷問はこりごりだ。
 それでもまあ、繰り返し聞くからそれなりに味の出てくる曲というのは確かにあるものだ。普段そんなに聞くわけじゃないが、時々チャイコフスキーを聞きたくなる時がある。これはひたすら前半我慢し続けて、最後に曲が爆発してすっきりする。最初の退屈さというのが大切で、よくもまああんなにつまんない演奏を延々と聞かせるものだと呆れるが、しかしそのおかげで最後の爆発は気持ちがいいわけだ。簡単には繰り返して聞きたくない演出という考え方もあるかもしれない。クラッシック音楽が長く生き残っている原因は、繰り返し聞くには体力や忍耐が必要で、簡単ではないということがあるのではなかろうか。手軽なポップミュージックが飽きるのは、キャッチーすぎるからかもしれない。まあ、だからどんどん新しく消費しなければならない訳で、それは商売としてまっとうな戦術とはいえるのだろうが…。
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嫌な思い出のはずなんだが…

2014-10-30 | 音楽

 音楽と記憶が結びついているらしいことは当然だと思うが、音楽を聴いていて、何の出来事だったかまでは思い出せないまでも、感情だけがよみがえるということがある。何故だか悲しくなったり、嬉しくなったり、曲の所為で、先にそういう気分だけが不意によみがえって、なんとなく戸惑うという感覚が時々おこる。
 スナックで他人の歌っているカラオケは、たいていあんまり興味が持てないものなんだが、聖子ちゃんの古いものが流れていると、時々切なくなったりする。まあ、そういう若い頃になんかあったのかもしれないです。
 逆にムカッと来ることがあるのだけれど、好きな人もいるだろうから特に名を秘すことにするが、音楽が特に嫌いというのではなくて、やはりなんか思い出が含まれているんだろう。特に思い出さなくていいけど…。
 先日何かの会で、子供たちがギター程度の軽い演奏でいろいろ歌っている場面に接した。歌声がかわいいからそれだけでメロメロになってしまうわけだが、何曲目かで、不意に涙があふれてくるのだった。悲しいというか、急に胸が締め付けられるような、そんな感じ。ちょっと、あれっと思うのだが、なんでだったっけ? という感じだ。
 曲は「われは海の子」。知らないわけではないが、僕は歌わない。たぶん詩も全部知っているわけではない。童謡というのだっけ、唱歌というのだっけ。そういうことなんだろうけれど、僕の時代では、特に習った覚えもない。ただ忘れているだけかもしれないけれど…。
 で、しばらくして思い出した。父の思い出らしい。
 父はひどい音痴で、人前で歌を歌ったりはしない。何しろ音痴だけでなく、伴奏にリズムさえ合わない。よくまあこれだけ崩せるものだというくらい見事なものだった。君が代斉唱などは、皆が調子が狂うので、止めるように言われていたらしい。
 そうなのだが、酒を飲むとどうしても断りきれなくなって、歌うことがあるらしかった。知った人はそんなことはしないが、知らない人がしつこく歌をせがむ。命知らずということなんだが、そういう社交というのは分からないではない。で、「われは海の子」。
 聞く人は皆唖然としてしまうが、この曲がたいそう長い。人々の笑い声は消え、手拍子さえ消える。カラオケなのに伴奏の音も消える。合ってないだけでなく、終わらないのだ。父も知っている曲だから歌うわけで(子供のころに覚えたのだろうか?)、まじめだから歌いだしたら最後まで歌う。これを聞いている息子としても大変に苦しい思いをするのだが、場が完全にしらけきって、荒涼たる風景になって、しかし歌が終わると皆がほっとして、開放感からやっとまばらに拍手が鳴る。
 そういう嫌な思い出なのだが、どうしてなんだろうね。歌というのは、不思議なものである。

追伸:文中の「われは海の子」は別の歌らしい。もちろんそれは僕も知っていたが、おんなじタイトルだと思っていた。実際は「琵琶湖周航の歌」を父は歌っていたようだ。やたらに長いので、それで文中のようなことになっていたらしい。すいませんでした。
 琵琶湖周航の歌を古くから知っていたというより、考えてみると、父には別に琵琶湖に思い入れがあったようにも思う。それは今の仕事をするときと関係があるような気がする。まあ、長くなるのでやめるけれど、おそらくその時に改めてこの曲を覚えなおしたのではなかろうかと思われる。今更確かめようがないが、そのような推理は当たっている気がしている。
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