西部劇と懐かしのカントリー&ウェスタン日記

現代とはかけ離れたOld Countryの世界ですがずっと続けていきます。興味のある方は時々のぞいてみて下さい。

懐かしのカントリー&ウェスタン (ジョニー・ボンド 2)

2015年07月03日 | 懐かしのカントリースター
  
Johnny Bond 小伝 Part 1
最近カントリー・ミュージックへのモチュベーション( この言葉は私はあまり好きではない ) が低下して懐かしのカントリー&ウェスタンも途絶えがちです。これではいけない-と思ってはいるのですが どうも意気が上がらない・・・・・今回久し振りに採りあげたのが Johnny Bond(オクラホマ州出身) です。 大昔のカントリー歌手で、現代の人達には馴染みがない人でしょうが なかなか素晴らしい曲をたくさん残している人です。 レコードもたくさんあるんですが、Old Country の発掘に情熱を傾むけているイギリスの非営利レコード会社 British Archive Of Country Music 社が出しているジョニー・ボンドのCD(右の写真)にコンパクトな小伝が載っていますので2回に分けて訳してそのまま載せることにしました。

「 ジョニー・ボンドは決して世間一般でいわれるような意味でのスターではありませんでした、でも彼の業績は輝かしいものであったことは確かです。アーティストとしてしばしばとりあげられる背景については・・・・1930年代の Jimmy Wakely Trio のようなバンドのメンバーとしてだったり、1940年代のジーン・オートリーの Melody Ranch ラジオ放送には欠かせないメンバーだったりといったことで、このジャンルへの彼の貢献は相当に大きなものでした。 作曲家としてのジョニー・ボンドはいわゆるカントリーミュージック界でスタンダードになっている(彼が作曲した)いくつかの曲以上に反響が大きいものだったといえるでしょう。彼が作った曲の多くは他の歌手によってビッグヒットになりましたが、歌手としてのジョニー・ボンドは数枚のレコードがカントリーチャートにのったもののNo.1ヒットになったのはただ1曲だけでした。また、伝記作家として自分の昔のボスであったジーン・オートリーや親友で仕事仲間だったテックス・リッターのことを書いて皆を楽しませたことなどがとりわけ彼の功績といえるでしょう。 

ジョニー・ボンド( Cyrus Whitfield Bond )は1915(大正4)年6月1日にオクラホマ州 Enville に生まれました。彼によればそこは今日でも地図上で見つけるのが困難なような処だったとのこと。それから父親と家族はオクラホマ州 Marietta の牧場へと移住しました。 
同時代の多くの歌手達と違ってジョニーは全くもって音楽とは無縁の家族の出身でした。彼によると、父親は小さなハーモニカを吹いたけれど ありふれたことでとりたてて上手とかではなかったとのこと。音楽へのきっかけは隣人が持っていた蓄音機だったのでした。 Vernon Dalhart のレコードをはじめて聴いたのも その後すこしたって Jimmie Rodgers を聴いたのもそれがきっかけでした。当時の多くの若者と同様にすぐに Jimmie Rodgers に夢中になってジミーのレコードを手に入れるために一生懸命になったのでした。ところが、それは至難の業だったようで、というのもその頃には父親が1920年代初期の大恐慌のせいで牧場を手放していたからでした。 
 
1930年代のハイスクール時代にふれた初めての楽器がホルン、やがて卒業してから手にしたのがウクレレ、それから彼にとっては高額で8ドルもしたギターを初めて手に入れたのでした。カントリーミュージックはいまやジョニーにとっては全ての情熱を注ぎ込むものになっていて、Milton Brown や Bob Wills、The Lightcrust Dough Boys、Carson Robison といった人達のラジオ放送をむさぼるように聴きはじめたのでした。若いボンドにとってそれらのアーティストはなくてはならない存在となって、それ以来自分はカントリー歌手になりたい-という意識が芽生えたことは疑いの余地がないことでした。 
 
1930年代中頃にショービジネスの世界に入る決心をし、何とか努力して( 当時は簡単に考えていたのか )オクラホマシティーの KFXR ラジオ局に出演するチャンスを得たのでした。ところが、不運なことにそれは無給の仕事だったのです!その頃 Johnny Marvin という人物がその地区でいくつかのアマチュアタレントショーを組織しつつありました( Johnny Marvin というのは ジーン・オートリーのレコーディングで楽器伴奏をつとめていた Johnny と Frankie から成る The Marvin Brothers のかたわれ)。あるショウでボンドは Jimmy Wakely に会いました。そして Scotty Harrel と一緒にトリオを組んでいくつかのショウで働き始めたのでした。このトリオはすぐにその地区で人気を得て、やがて WKY 、KVCO といった放送局でラジオ出演しはじめて スポンサーである Bell Clothing Company にちなんで自分達を The Bell Boys と呼んだのです。 
 
1930年代末期にジーン・オートリーが最新の映画を制作するためにその地区にやって来た時、3人は自分達をオートリーに自己紹介したのです。オートリーは3人をショウに招いて出演させ、オートリー自身もトリオがやっているショウにゲスト出演したのでした。オートリーは3人に対して もしハリウッドに来ることがあればで私を訪ねてきなさいと告げました。 
結局、あてにできないオファーを待つよりかハリウッドに移る方がよい-と決断する時が来たのです…・・Johnny Bond と Jimmy Wakely はそれぞれの細君と楽器ともども1台の車に乗りハリウッドへと旅立ちます。Scotty Harrel だけはオクラホマに残留することに決めたので かわりにローカル歌手だった Dick Reinhart が2人に加わることになったのでした。Dick Reinhart はすでに Okeh レコード社とレコーディング契約を結んでいたので Reinhart がいることでレコード業界進出への期待が高まったのでした…・・続く」

<ひとこと> 緑のジャケットのレコードはドイツ盤です、ずっと昔にジャケットが気に入って買いました。ジャケット裏にはアメリカの Starday レコード社長だった Don Pierce とジョニー・ボンドの盟友だったカントリー歌手 Jimmy Wakely がコメントを書いていますので後半で訳してのせる予定です。ジョニー・ボンドのカントリーは今からするとヒルビリーといってもよいような鄙(ひな)びた感じがするものも多くて有名曲のカバーもたくさんあって目立たないけれど得がたい存在だったことがよく解かります。

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