西部劇と懐かしのカントリー&ウェスタン日記

現代とはかけ離れたOld Countryの世界ですがずっと続けていきます。興味のある方は時々のぞいてみて下さい。

つれづれに (結婚式)

2012年11月27日 | つれづれに


(平成24年)11月24日土曜日、友人の息子さんの結婚式披露宴に出席。キャナルシティに隣接するホテルの結婚式場、お似合いのカップルで幸せそうな二人の前途に祝福を--と願わずにはいられない披露宴だった。私には現代の結婚式はどんなものなのか-と知るよい機会でもあった・・・・・手作りの映像をたくさん使っての楽しい雰囲気は見ていて飽きることがなくて今の時代ならではのものでしょうか シンプルな中に洗練された効果があってあっという間の3時間の宴だった。

新郎の父親Y君とは2箇所の職場で出会って一緒に仕事をした間柄。 経験豊かな作業療法士さんだったけれど 経営能力があってその後独立して4ヶ所の老人健康保険施設を設立して事業を拡大していくほどになった。 Y君の本来の一個人としてのリハビリ師の仕事よりも 高齢者が多い今の時代に行き場のない年寄り達への受け皿となる施設作りとそれに伴なう多くの雇用を生み出すことにつながったY君の向上心には頭が下がる思いがした・・・・・息子さんの門出はよい後継者を得た証だと思う。
(写真は過日 仕事帰りに撮った博多駅前のきれいなイルミネーション)
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インディアンの英雄・・・・ジェロニモ追跡

2012年11月22日 | つれづれに

ジェロニモ追跡
著者: 菊池 東太 1987(昭和62)年発刊 草思社 250ページ


博多からメインの仕事先の鹿児島へ行き来する生活を10年以上続けているので、途中 新幹線の中は寝ているか本を読んだり音楽を聴いたりする時間になっている。新幹線になってからは1時間30分で着くので以前の ”リレーつばめ ” 時代のようにはゆっくりできないけれど貴重な時間であることに違いはない。今まで買っては積ん読状態だった本を整理する目的で読み直し始めた本の1冊が今回のもの・・・・・まだ佐賀県の鳥栖市で仕事していた頃に買った、パラパラ拾い読みした後 本棚に収まったままで 発刊年からすると25年くらいたっています( 時がたつのは早いなあ )。
Country Music 、西部劇映画が好きになると開拓時代のアメリカ西部のことにも興味がわいてきて その一環として買ったような本がたくさんある・・・・・自分だけの興味のものはやがては処分しないといけないから 今そんな本を読み直しているところ。

さて 著者の菊池東太さんがインディアン 中でもジェロニモについて興味を持たれたのはやはり西部劇らしです・・・・・「 インディアン 嘘つかない 」 この言葉 西部劇がたくさんあった時代は時々きかれたものです。「 ジェロニモはいったいどんな男だったのだろう。ジェロニモの子孫を探し出し、そして会ってみたい 」・・・・ジェロニモの子孫を探し出して話をきいてみたいと考えたのは、西部劇映画に登場してくる残忍な悪人としてのジェロニモ像に納得がいかなかったからという たったそれだけの動機でアメリカのインディアン居留地に通い続けたという人・・・・・これだけきいただけでもまあ大した情熱家という気がします。 本はインディアンが住むアリゾナ、ニューメキシコ、オクラホマといった日本人がめったにいかない州を歩き回って現代のインディアン達の生活を知る紀行にもなっていて普段知られないアメリカの内面を知ることもできるものにもなっています。

私がいつも疑問に思っていたこと
・インディアンの人達は自分達をいう時 ”我々インディアンは- ”という言い方をするんだろうか?・・・・・ということもこの本で氷解しました。
・”わたしたちナバホは(ナバホ族) ” とか ” わたしたちネイティブ・アメリカンは ” という言い方をするんだそうです

ところで、菊池さん自身はインディアンという呼び方に特別に差別とか侮蔑の意味を感じないが 現地取材中は相手をさして言うときにはインディアンという言葉を使うことは極力避けたそうです。 今は Native American という表現をするのが一般的ですが、僕自身もインディアンという呼び方に差別とか蔑称という気持ちは全然感じたことはなくて 西部劇に出てくるインディアンは優勢な白人に対して無勢ながらも勇敢で誇り高い民族という気持ちの方が強いです(西部劇ではいつも白人の立場で見がちなのでインディアン悪人なんですがむしろ-敵ながらあっぱれ-という気持ちかな)・・・・・だからなぜ菊池さんがジェロニモ(の子孫)を追跡してみたいと思うのか解かる気がします。
  
ここに挙げた3枚の写真は後年僕がひょんなことで見かけた PLAYBOY 誌に載っていた記事(PLAYBOY の旅ー生きているジェロニモ)にあったものです、やはり菊池東太さん取材の特集でした。

さて、ジェロニモの子孫を探していくも 「 ジェロニモはアパッチの英雄だと言われているのに、この話題には触れたくないようだ、なぜだろう・・・子孫かと問うとなぜか彼等は一様に不愉快な顔をする。 ジェロニモの子孫であることを認めるとなにか都合の悪いことでもあるのだろう 」、「 いまでも数多くの白人たちにとって、インディアンは見世物であり、野蛮な民族なのである。それらのインディアンのなかでもジェロニモは西部開拓史上最大の悪役だった。アパッチにとってもジェロニモは、部族全体のイメージをダウンさせた張本人である。だから過去においてジェロニモの子孫たちは部外者の白人や ときには同じ仲間のアパッチからさえもさまざまなプレッシャーを受けてきたことは容易に想像できる」と述べられています・・・・・

それでも、たくさんのジェロニモに関連するインディアン達に会ったあと紆余曲折 筆者はもつれた糸をほぐすような形でとうとうオクラホマ州のフォート・シルで71歳のジョゼという老人に出会います。ジョゼは9ヶ月の赤ん坊だった頃ジェロニモの膝に抱っこされたという人物・・・・・母親から当時の戦争捕虜としてのジェロニモのことをたくさん聴かされていたことをそのままを著者に語っています。

ジェロニモは酋長や呪術師ではなく 単に戦時だけの小グループのリーダーだったに過ぎないこと、陽気な男、ひょうきんさを持ち合わせた男だったこと、非常に気持ちのやさしい男だったこと等。ジェロニモの戦い続ける原因になった出来事=若い頃の初めての妻と3人の子供そして母親がメキシコの軍隊に虐殺されたこと-などです。
そしてジェロニモの悲しい最後・・・・・降伏した居留地で晩年 土産物用の弓矢を作って売った小遣い銭でウイスキーを買い 泥酔して落馬し眠り込んでしまいみぞれ雨に打たれたことで肺炎が原因で亡くなったのだそうです。たくさんいた子供の多くは既に他界して、晩年の彼には3人だけ残っていたとのことですが最後に会いたいという願いもかなわないまま1909(明治42)年2月11日亡くなっています・・・・ジェロニモの墓はフォート・シルの米軍基地内にあるアパッチ共同墓地にあり 著者も訪れて写真がのせてあります・・・・・なんでも、オクラホマ州フォート・シルの軍隊の有志がポケット・マネーを出し合って造ったという立派な墓とのことです。

 
そしてとうとうニューメキシコ州メスカレロ・アパッチ インディアン居留地まで行き念願のジェロニモ直系の孫ウィーダ・ジェロニモ(女性)に会ったのでした、しかもこれまで数多くのインタビュー申し込みがあった中で遠い日本から来た菊池さんが最初で最後の取材者として受け入れられたということです・・・・これは凄いことですね。 彼女を通してジェロニモと残された直系の息子ロバート・ジェロニモ(ウィーダさんの父親)について多くのことを知ることになったのでした。ロバート・ジェロニモは若い頃に多くのプレッシャーを受けたためか自分がジェロニモの息子だということは部外者にはいっさい話すことはなく ほとんど居留地から出ることもなく1966(昭和41)年に亡くなったそうです。ロバート・ジェロニモの写真は本にも載っていますが前記の PLAYBOY 誌にカラー写真が載っていました・・・・・とても威厳に満ちた姿だと感じます。

筆者の菊池さんは日本人もインディアンも同じモンゴル系人種だということがアメリカ・インディアンと接触するのに役立った・・・・・と述べておられます。そして最後に ” この旅はいったいなんだったのだろう。わが家の有り金を全部持ち出すような、大きな犠牲を払ってまでするようなことだったのだろうか ” と書いておられます。   

私の感想は とても面白かった、著者が実際に足を棒にした汗の結晶は読んでいて迫力がありました・・・・私自身のインディアンに対する見方も変わりました、紀行文としてもよくて色々な知識を有難う、というものです( smile )

・ジェロニモ
・本名:ゴヤスレイ(アパッチ語で ”あくびをする人 ” の意味)
・スペイン語を話す
・1829~1909年
・故郷アリゾナへ帰ることなく死んだ・・・・・・・・・以下続く
コメント (6)
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西部劇 27 「モンテ・ウォルシュ」

2012年11月19日 | 西部劇映画

モンテ・ウォルシュ ( ” Monte Walsh ”) 
監督: ウィリアム・A・フレーカー  シネマ センター フィルム 1970(昭和45)年製作 同年 日本公開


この西部劇はアメリカ西部の挽歌を描いたしみじみとした作品。
「 しみじみ 」 に弱い私としてはリアルタイムで見たかった・・・・・と悔やまれるもので( そもそも私の住んでいる町には来なかった )、後年ビデオで発売になった時初めて見たもの。 先頃 レンタルビデオ屋さんにジャケット違いのものが中古300円で販売されていたので買い、 DVD に録りながら再見してみた、涙が出るくらいにとてもいい・・・・・新しい時代の波に対応できない初老のカウボーイ達の不器用で滑稽な姿とそこに漂うペーソスがうまく描かれていて ” しみじみとした ” いい作品だ。 若い頃に観ていたらひょっとしてこのしみじみさは解らなかったかもしれない。

ビデオ解説文には・・・・「 時代と共に、文明と共に、何かが失われる・・・・・。男が男らしく力強く、女が女らしく心優しい、最後のフロンティア時代の老カウボーイの生きざまを、滅び行く者への哀惜の念を込めて描いた西部劇。 カウボーイの役割も時代と共に終わろうとして、生き方を変えねばならぬ時が来ていた。 男は信頼と友情を共に自由な生き方の中で愛を見つめ、女は愛を待ち続けた。しかし、親友を強盗に殺され、愛人を病気で失ったモンテ・ウォルシュは仇との最後の対決を果たし、荒野に姿を消した。古き良き時代を終わりと共に・・・・・」とあります、なかなか簡潔にまとめた文章で感心します。

<ストーリー> 
初老のカウボーイ チャック( ジャック・パランス )とモンテ・ウォルシュ( リー・マーヴィン )は雇われている牧場が東部の資本家に買収されて失業に追い込まれる・・・・・元の牧場主ブレナン( Jim Davis )は生き方を変える時が来たことを二人に告げ、「 定職を持て 」 とすすめる。チャックはそうかも知れない・・・・と金物屋の未亡人メアリー( Allyn Ann McLerie ) と所帯を持って落ち着くが、モンテはチャックに 「 誰でも年をとるぞ、いつまでもカウボーイは出来ない 」 と諭されながらも「 馬は俺の命だ カウボーイのままでいたい 」 と生き方を変えようとしない。 しかし、そんなモンテも確実に時代が変わりつつあるのを肌で感じとっている・・・・・親友のチャックが所帯を持ったことに影響されたのか ある時 馴染みの娼婦マルティーヌ( ジャンヌ・モロー )に 「 カウボーイは金にはならないが 貯まったら結婚しよう・・・ 」 ともらすのだった・・・・マルティーヌも 「 こんな私でも夢は結婚だったのよ、待っているわ 」 と応える。

牧場に残れたはずのショーティ等若手3人はやがては銀行強盗や牛泥棒をするほどに身を落としていった。ある雨の日に酒場に訪ねてきた連邦保安官を誤って射ち殺してしまう。 3人は追われる身となった・・・・・・そして 結婚して金物店の主人におさまっていたチャックに金の無心に訪れとうとう射殺してしまう・・・・・親友を失ったモンテは・・・・続く

この映画には印象に残るいい場面がたくさんある

(1)リストラされるのはチャック、モンテら 古参のカウボーイ達で 自分達ではどうにもならないところからの力(東部の資本家たち)が働いているのだ・・・・それについてブツブツ言い合うところはいつの時代も同じなんでしょう

(2)料理は上手いが風呂に入らず 体臭がひどい料理人を 皆でよってたかってとっ捕まえて水槽に放り込み 嫌がる本人に石鹸をつけて洗いたくるところは思わず笑ってしまう。後にそのコックから料理でちゃっかり仕返しを受ける一党のドタバタも笑える

(3)馬車に乗ったチャックとモンテが広い草原の柵に鉄線を張ってまわっている男に鉄線の束を届ける・・・・・ ”ファイティング・ジョー ” と名乗るその男は南北戦争で北軍のデニー将軍のもとで戦ったことだけを誇りに生きているような男だ・・・・彼にはどこか憂いがあり、2人は奴は夢の持てない時代に失望しているんだろうと話す・・・・・案の定 後に馬を飛ばして崖から転落して自ら命を絶つ・・・・時代に取り残された一人のカウボーイの最期を思わせる一シーンだ。 西部劇では南北戦争についてなるべく多くの知識を持っていることを奨める-と映画評論家の児玉数夫さんがどこかで書いておられましたがこのシーンもそんなところかも知れません。

(3)死んだ馴染みの娼婦マルティーヌ(ジャンヌ・モロー)の遺品を見るモンテ(リー・マーヴィン)・・・・涙などは見せずに一つ一つ見てゆくリー・マーヴィンの表情がいい、へたに涙なんか見せずに悲しく淋しい想いでいっぱいのはずのモンテの表情を淡々と映していく方がずっと悲しみが伝わってくる・・・・・西部の男らしさを感じさせるシーンだ。

(4)(5)

この映画は私にとって大切な1本になりました、ドンドンパチパチ 銃の打ち合いだけが西部劇ではないんだよ・・・・・とね、リー・マーヴィンとチャック・パランスそれにフランスの大女優ジャンヌ・モローがいい演技をみせている、3人とも見直してしまった。 最近見直してみたけれどやはりよかった、DVDになって欲しい作品
(2010年6月10日の記事で未完成)
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つれづれに( Bear Family Records)

2012年11月12日 | つれづれに
 
ドイツの ”ベア・ファミリー レコード社”について
ドイツは日本と同じく第二次世界大戦の敗戦国です。ことカントリー・ミュージックに関しては日本と同じような経過をたどったようで、アメリカ駐留軍と共に Country Musicが盛んになったといっていいんでしょう。日本以上に几帳面な国民性のためか一旦好きになるととことん突きつめるような人達が多いのでしょうかドイツからはかなりマニアックなカントリーのレコードが出されていました。いいカントリー歌手に出会うとそこから芋づる式に今ではベアファミリーレコードが一番有名ですが他にも Cattle Records  Folk Variety  Cowgirlboy Records Reimar Bingeなどありました。いずれもアメリカでは見向きもされなくなった大昔のカントリー歌手に焦点を絞っているのが特徴です。いいカントリー歌手に出逢うとそこから芋づる式に色々な歌手に興味が出てきたり、素敵な曲があるとそれを初めて歌った歌手は誰れなんだろうとか考えると無尽に興味が湧いてくるといったようなことが原点ではないかと感じます。 
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つれづれに ( 収穫なしの雨の日曜日 )

2012年11月06日 | 懐かしのカントリースター
平成24)11月3、4日の土日の連休の2日目の雨の午後天神に出かける。中古レコードセールがあるとの報らせを受けていたのであまり期待せずに出かけた・・・・・自分の興味につながる収穫はゼロで1枚だけシングル盤レコードを280円で買ったのみ、でもCDではなくてレコードを買っている人達がいるのを知るだけで何だか嬉しく気分が楽になる。
時間があったので知り合いのN君に夕方から飲まないかとメール、無理だったのでジュンク堂書店で本を色々見て回った・・・・500円DVD西部劇 「 大平原 」1巻買って屋台でビールを飲んで帰る。 結局何の目的もなく出掛けたような形になった、こんな時いつも思うのは仕事をしていた方が気がまぎれるなあ-ということ。 帰ってからマーティ・ロビンスのカントリーを聴いた 「 My Kind Of Country 」・・・・・とてもよい、後日こブログで紹介したいと思っています。
それにしても自分の名前に「 秋 」がついているのに秋はいつも melancholy だ
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小紀行 ( 豊前 角牟礼城を訪ねて )

2012年11月04日 | 歴史はロマン…九州の歴史を中心に
   
豊前 角牟礼城を訪ねて


平成24年10月13日(土)大分県の湯布院に近い福岡県寄りにある戦国時代の古城 角牟礼城(つのむれじょう)を訪ねた。以前から一度行ってみたいと思っていたところだった。
久留米から日田、湯布院を経て大分に到るJR久大線の駅の中に 「 豊後森 」 という小さな駅がある。 この駅からすこし山沿いに入ったところに小さな城下町がある・・・・・江戸時代の久留島氏1万4千石の城下町 森だ。 恐らく九州内の旧大名の城下町では一番小さいのではないでしょうか。この森町の後ろにそびえる独立した標高577メートルの山頂に角牟礼城(つのむれじょう)がある・・・・・江戸時代には廃城。
途中まで車で行けるので登ってみた・・・・以下道なりに写真で追いかけることにします
森町の狭い街道を通って左手に上ってゆくと途中に看板が立っていた、そこを写真のような山道を上がる。晴天なのに所々木に覆われて暗い道もあった。 
上がりきったところが駐車場になっていて周辺に昔のままであろう低い石垣が組まれている、案内板があった・・・・・角牟礼城の三の丸とのこと。  

ここからは歩いて登って行く。5分くらい行くと立派な石垣が見えてきましたが ここまでが角牟礼城三の丸らしい 石垣はそんなに高くはないけれど戦国時代の山城らしい趣きである。石垣の間の道を登るとちょっとした広場になっていて隅のほうに流れてくる山水(湧き水?)を貯めた水場がありました(井戸曲輪跡と書いてあった)、このような山城にとってはまさに命の水となる場所だったと思われます・・・・・”不落の水”という説明板が立っていました、溜まり水は見た目は汚い感じながら流れてくる水はきれいでしたので一口飲んでみました・・・・・こんな山頂に湧き水、どんなところから湧いてくるのか不思議です。
      

そこからさらに登ってゆくと道中に地元の人が置いたと思われる小さな不動明像がありました(これは本丸に到るまで何箇所かにポツポツと置いてありました)。道の左手に石垣も見えます


やがて後方の景色が見える広場に出ました、 ここが二の丸とのことで 立派な石垣があり そこから遠く後ろの山あいの平地が臨まれます。山を挟んで森町の丁度反対側が見える位置に居ることになりますが、急斜面に石垣を組んだような形なのでまあ絶壁のようになっています。ここに大手門とほかの建物群があったらしく、そこここに礎石が見られます。
    

そこからさらに5分くらい山道を登ってゆくと左手に小さな神社( 角牟礼神社 )がありました。落ち葉道をさらに行くと急に視界が開けて森の町が見渡せる所(展望所)に出ます。ここから眺めると 久留島氏1万4千石のほんとに小さな城下町-というのが実感できる場所です。
  

さらに登ってゆくと山頂の広場にでました。ここが角牟礼城の本丸というわけです。何にもありませんが周辺に高木さえなければ見晴らしの利く場所です・・・・・見ることはできませんでしたが 本丸北東部に6mにも及ぶ高石垣があるそうで、そこに櫓が立っていたことが発掘調査でわかったとのこと。

案内板によると1585~86(天正14~15)年に懸けて薩摩の島津軍が九州制覇の一環として豊後の大友氏の玖珠地方を攻めた時に攻防戦の一つになった場所なんだそうですが、島津軍六千に対して大友氏の玖珠(くす)衆一千が角牟礼城に立て籠もって奮戦し、唯一落城しなかった城だったそうです・・・・・そんな訳で難攻不落の城として後世に語り継がれる所以なんでしょうか。
前方(森町側)がややゆるやかなほかは周囲が切り立った形になっているので守るに易く攻めるに難い山城、織豊時代のまさに実戦向きに築かれた城址という印象でした・・・・・・強兵(つわもの)どもが夢のあと・・・かな!!

平成17年3月に国指定史跡になったそうです・・・・・それを記念に地元の有志の方達が編纂された 「 角牟礼今昔 」 という本を 訪ねた記念に買ったのでした

<ひとこと> 僕はこのような歴史的場所を訪ねる時はいつも故 司馬遼太郎さんならどんな訪ね方をするかなぁ-と考えて行ってみる。司馬さんは作家なので歴史的場所(紀行文など)を書く時に人に興味を起こさせるような想像的な視点があると思う。そこが事実だけを調べ述べる歴史家と違う点だと感じる・・・・・司馬さん的見方をしていくとほんの些細な歴史的遺跡も想像が膨らんで興味の対象になっていくから不思議だ。 今回の角牟礼城探訪も司馬さん的視点で見るとそこに息づいていた昔人の生活を想像できる気がした
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