西部劇と懐かしのカントリー&ウェスタン日記

現代とはかけ離れたOld Countryの世界ですがずっと続けていきます。興味のある方は時々のぞいてみて下さい。

小紀行 ( 武蔵 江戸城を訪ねて )

2015年07月20日 | 歴史はロマン…九州の歴史を中心に
 
武蔵 江戸城を訪ねて 
 
7/18(土)に亡くなった姉の年忌と弟を祖霊社に祭る式があったので鎌倉へ出向いた。こんなことでもないと東京地方へは行く機会がなくなった・・・・・あわただしい小旅行だったので短いけれど空いた時間に東京駅から歩いて皇居外苑を歩いた。何度も来ているけれど江戸城内に入ったのは全く初めてだった。江戸幕府~皇居と変遷してきた日本の中心なので以前から一度はと思っていた。東京駅からまっすぐ歩いていくと堀に行き当たる、和田倉門があったという橋を渡るのだ 
   
橋の上から見た右側の石垣と左側の石垣。渡ると正面の石垣に突き当たり、そのまま左に入っていくとその奥はほぼ広場になっていてあまりさえぎるものがなくて炎暑の中汗だくで歩くのはつらい。しばらく木陰で休んでから広場を出て道路を渡ってもうひとつ奥の堀端に出た、すぐ目の前の角に巽櫓がある 
   
 
巽櫓を右手に見ながら堀沿いの道を奥の方に進んでいくと突き当たり右側に桔梗門( 内桜田門ともいう )があって警官が駐在していてそこから先には入ることができない。堀端から桔梗門が右手にあり、奥の方の一段高い位置に緑に囲まれた富士見櫓が見える。 
  
   
桔梗門の前に来て撮影、小さな門だ。門に行く通りの反対側にも堀が続いていてそこから後方に堀沿いに坂下門を目指して行く。堀沿いは丈の低い松ときれいな芝生がいっぱいできれいだ。松と芝生の先に見える石垣の角を右手に見ながらさらに奥の方に歩いて行くと突き当たりに坂下門が見えてきた。門の正面の通りがコンクリート道なので日の照り返しが強い、それよりも城門の前がコンクリートというのは情趣がない、せめて砂利道くらいにはできないのかなあ。坂下門は幕末の1862(文久2)年に老中安藤信正が水戸浪士等に襲われて重傷を負ったところでもある( 桜田門外の変のあと出来事 )。 
   
坂下門を右手に見ながらジャリ道を外桜田門の方に歩いていく、ここは堀の手前がきれいな芝生に松ノ木で、堀の向こうに石垣が続いている。そうこうするうちに右手に有名な二重橋が見えてきた、一番見えやすい堀端近くには大勢の人達がいて騒がしい。中国からの団体観光客のようでしきりに写真を撮っている。何とか人が映らないように写真を撮るのに苦労する。この二重橋はいつの頃に出来たんだろう、江戸時代にはなかった橋では・・・・・と思ったりする。というのはこの橋がなければ遠くに見える伏見櫓が昔のお城という雰囲気があって写真アングルとしては最高なんだけどなあ。 
    
二重橋のお堀と石垣を右手に見ながら外桜田門の方へと歩いていく。欧米人の観光客もけっこう見かけるし、城内をジョギングしている人も多かった。 
    
お堀を直角に曲がって外桜田門の方へ行き、門の城内側に到着した。ひっきりなしにジョギングの人達が門をくぐって城内の方に入ってくるので門だけを写すのに時間がかかってしまった。門を城内側からくぐって外に出るとさらに小ぶりの城門があった・・・・・どうもこの二つの門とも桜田門というらしい。幕末の1860(万延元)年に大老井伊直弼が水戸浪士達に暗殺されたことで有名になった桜田門だ。
   
二つの門を城内側からくぐって城外に出た。外側から見る桜田門、井伊大老襲撃に薩摩からたった一人参加した有村冶左衛門(22才)も見たであろう桜田門・・・・・鹿児島生まれの私にはちょっとした感慨がありました。雪の降る頃に見てみたい

    

桜田門を出てお堀の外縁を歩いて東京駅へ戻ったのでした・・・・・規模が大きいのでテクテク歩くのはつらい、せめて自転車くらいが丁度いいと感じました。 
江戸城はとにかく堀、門、櫓などがたくさんあった巨大な縄張りを持ったお城なので今回私が回ったのはほんの一部でしかありません。全て見てからでないと判断できないんでしょうが、回った範囲でみると私にはそんなに興味を持てるお城ではありませんでした。洗練されすぎているんですね、お城にはある程度の野趣がないと魅力が削がれてしまう気がします。ただ、色々と歴史的な事件があったことを知っていると少しは興味がわくかもなぁ・・・・・残りはまたの機会に訪ねよう
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兄と弟のブルーグラス  ( アール・テイラー )

2015年07月20日 | ブルーグラス音楽
  
Earl Taylor (1) & (2) 
日本盤 東芝EMI ECS-70072 Bluegrass Taylor-Made / Earl Taylor & His Bluegrass Mountaineers 
(1)We Live In Two Different Worlds (2)Cabin Home On The Hill (3)Earl's Breakdowns (4)I've Lived A Lot In My Time (5)Foggy Mountain Chimes (6)Little Maggie (7)Bury Me Beneath The Willow (8)Sweetheart You Done Me Wrong (9)Shuckin' The Corn (10)Uncle Pen (11)Pan Handle Country (12)Jesse James 

米国盤 Vetco Records LP-3017 Earl Taylor And The Stoney Mt. Boys / The Bluegrass Touch
(1)Rubber Dolly * (2)Beautiful Brown Eyes (3)Ho Honey Ho (4)I'm Thinking Tonight Of My Blue Eyes (5)Molly And Tenbrooks (6)Plant Some Flowers (7)Poor Ellen Smith (8)Fox Chase * (9)Katy Hill * (10)Six Months Ain't Long (11)Knoxville Girl (12)Katy Kline (13)Cotton-Eyed Joe (14)Rosewood Casket * (15)Careless Love (16)The Prisoner's Song

今日は私のレコードと亡き弟が持っていたレコードの合戦。 
アール・テイラー ( 1929~1984年ヴァージニア州出身 )はブルーグラスの第一世代に属する目立たないけれどネームバリューのあった人です。
1枚目のアルバムは1978(昭和)年頃だったかなあ(調べないと自信ない)日本で発売されたレコードで、アール・テイラーが1964(昭和39)年にアメリカの Capitol レコード社に録音したものがもとになっているそうです。この時代にレコーディングされたブルーグラス音楽の共通点としてまだまだハングリー精神に満ち満ちており 聴いていると音作りに緊迫感を感じさせる ( 気合が入っているとでも云うのかな )ものが多いと思います。 Country Music に比べて Bluegrass Music は収入という面では格段に劣る-という記事を何かの本で読んだことがあります。 つまりレコードを出してもカントリーみたいに大ヒットしたりすることがないのでごく一部の一流バンドを除けばあとは生活を維持していくほどの身入りのいい仕事にありつける困難さが付きまとってバンドを維持していくのが難しい時代だったようなんですね( 一言でいうと貧しいということか? これは今の時代でも同じかも知れない )。 
でもこのアール・テイラーは 根っからの ”ブルーグラス魂 ” を持った職人肌の人、根性のある人だったようでブルーグラスの原点を感じさせてくれます。 
 
(1)We Live In Two Different Worlds はもともとロイ・エイカフ等のカントリー歌手が歌うことの多かった曲(ハンク・ウィリアムスも歌っている)ですが何故かブルーグラス畑に好まれていますね、曲調がよくてアップテンポにすると映える曲です。(2)Cabin Home On The Hill もブルーグラスらしい曲調です。カントリーではポーター・ワゴナーが歌っていましたし、たしかエルヴィス・プレスリーも ”Elvis Country ” なるアルバムで歌っていたんじゃなかったかなあ・・・・ボサノバの小野リサさんが歌ったものもホンノリして面白い。 
(3)Earl's Breakdown、(5)Foggy Mountain Chimes、(9)Shuckin' The Corn、(11)Pan Handle Country はいずれもブルーグラスの有名なインストルメンタル曲でドライブ感満点でバンジョー、マンドリン、フィドル( カントリースタイルのバイオリン )が大活躍、火の出るような演奏といってもいいかなぁ・・・・・何曲も似たような曲を聴くと疲れそう。
(7)Bury Me Beneath The Willow (柳の下に埋めておくれ)と(8)Sweetheart You Done Me Wrong の2曲もボーカル曲としてはなかなかよくてブルーグラスを聴いている~という感じになるものです。 
アメリカ西部の無法者ジェシー・ジェイムズのことを歌った古謡(12)Jesse James はカントリー・ジェントルメンで有名ですがアールもドライブ感満点で歌っています、何故かブルーグラスに合う曲ですね。 
このレコード、全体的にはのんびりユッタリ感はありませんが、時たま聴くと元気になるかもなぁ・・・・・といったところ( smile )。 CD化されているかどうかは不明です 
 
2枚目のレコードは弟が持っていたもの。 弟は東京に住んでいた、 時たま会った時に 私が ” このレコードはいいぞ ” と1枚目のレコードを聴かせたら そのことが頭にあったのか、アール・テイラーという名前を覚えていて買ったものらしい。東京のような大都会のレコード屋さんでないと置いていないレコードだったことでしょう。 
こちらにもブルーグラスの定番曲が並んでいます、サウンドも正統派ならジャケットもマイナーレコードならではの仕様で、メジャーレコード社ではなかなかこのようなスタイルのジャケットの採りあげ方はしないですね・・・・・これだけで ”Bluegrass なんだぞ~ ” というインパクトがありますね(smile)。   
アール・テイラーはブルーグラスの名門である Jimmy Martin & The Sunny Mountain Boys とか Lester Flatt, Earl Scruggs & The Foggy Mountain Boys 等に属してブルーグラス一筋で通した人なので Bluegrass Spirits が入りはしっています。 持ち楽器はフラット・マンドリンでビル・モンロー スタイルの弾き方、他にハーモニカも上手で時に入れています・・・・ここでは(8)Fox Chase で聴かれる。
(2)Beautiful Brown Eyes 、(4)I'm Thinking Tonight Of My Blue Eyes のほか、”Old The Good Time Has Pssed And Gone (良き日々は過ぎて)”というブルーグラスの佳曲と同一メロディの(10)Six Months Ain't Long 、古謡の(15)Careless Love 、カントリーのクラシックでもある(16)The Prisoner's Song ( 囚人の唄 ) あたりが注目曲というところか。 曲名のあとの* 印はインスト曲ということで(14)Rosewood Casket がメロディがきれいでよい。 
アルバムの全体的な印象として  ” せわしく、やかましい-  ”  というところかなぁ、何曲もは通しで聴けない・・・・・もちろん、私にとって-ということなんですけど・・・・・Bluegrass Music Legend の一人といってもいいと思いますし、Earl Taylor はある世代の人達には郷愁を呼ぶブルーグラスですね
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懐かしの The Sons Of The Pioneers・・・

2015年07月20日 | サンズ・オブ・ザ・パイオニアズ
 
The Sons Of The Pioneers (7) 
米国盤 RCA-Victor Country Fare / Sons Of The Pioneers
(1)Cold, Cold Heart (2)Ramona (3)Crazy Arms (4)Listen To The Mocking Bird (5)I Stll Do (6)Almost (7)Cattle Call Rondolet (8)Have I Told You Lately That I Love You (9)Son Of The Bandit (10)I'll Hold You In My Heart (11)My Heart Cries For You (12)Green Fields

久し振りに大好きなパイオニアズのレコードを聴いた・・・・・用件で2日滞在した東京で帰りの飛行機まで時間があったので散々歩き回ったせいで足が棒のように硬くなって筋肉痛が激しい。うだるような暑さの炎天下に江戸城(皇居)を時間と体力の許す限り歩いてみたので疲れもピークで帰福岡の朝、なぜか The Sons Of The Pioneers の歌を聴きたくなった・・・・・東京はとにかく人が多くて疲れる、人のいないアメリカ西部ののんびりした雰囲気を何だか求めたいような感覚に陥って取り出したのが今日のレコード。 

数あるパイオニアズのレコードの中でも私は格別に気に入っているジャケット写真のアルバムです・・・・・いつもはアメリカ西部やカウボーイのこと等を中心に歌っている彼らが、カントリー曲に焦点を絞って出したアルバムです。1964(昭和39)年発売のアルバムだから もう51年も前のレコードです。僕は1970年代中頃になって中古で買いましたが ジャケットの素晴らしさに惚れ込んで買ったのは間違いなしです。 調べてみると The Sons Of The Pioneers もこの頃は低迷期( 創設は1934年 )のようで、かつては6人いたメンバーも3人になってしまい、パッとしない時期が続いた頃に当たります。でも自分的にはこのアルバムは気に入っていて どちらかというと秋から冬にかけての夜に聴くとその素晴らしさが際立つものです、でも今回はそんなこと言っていられないほどの口渇感みたいな気分があって猛烈に聴きたくなった。  
ちょっと解説を訳して載せてみます、解かりやすくするために自分なりの注釈・補足をつけました・・・・・曰く 
 
「 ザ・サンズ・オブ・ザ・パイオニアズが Country Fare というアルバムを作るという時にはちょっとした意図があります、それは faithful houses and empty saddle ( 忠実な愛馬だったり使わなくなったサドルなど西部的な事柄)つまり Western song を歌うのをやめて unfaithful girl and broken heart ( 惚れた、振られた、捨てられた的な内容が多い unfaithful girl=不実な女、失恋 などをテーマにした )の内容が多い普通のカントリーの歌を歌いはじめるんだ-ということです。 実際にはこのアルバムには Glenn Spencer 作の ”Cattle Call Rondolet ” と Bob Nolan 作の ”Song Of The Bandit ” という Western の古い名作が混じってはいますが、ナッシュビル(テネシー州にあるカントリーミュージックのメッカ都市)が採りあげる題材の仕方におもねって ”Crazy Arms(レイ・プライスで有名) ” とか ”Have I Told You Lately That I Love You(ジム・リーヴスで有名) ”、ハンク・ウィリアムスの ”Cold, Cold Heart ” といったカントリーソングの旨味の上澄みをすくい取っています。 
ほとんどの曲で、Lloyd Perryman、Tommy Doss、Dale Warren の三人がまるで兄弟として生まれたんじゃないかと思うくらいに声がブレンドされて聴こえ、しかも 時々各自がソロを歌うところではそれぞれ本領を発揮しているのですから。 
Dale Warren が ”Crazy Arms ”と ” My Heart Cries For You ”を歌い、Tommy Doss が ”Cold, Cold Heart ” と ” Song Of The Bandit ”を歌い 、そして Lloyd Perryman は ”Almost(ジョージ・モーガンで有名) ” を歌っています。 
しかし、誰れが中心になって歌っても全体として類いまれなくらいの心地よさがあふれています。パイオニアズの Western-style の歌い方と融合したこれらの Country-style song には新鮮さが加わり、なおかつ親しみやすいサウンドになっています・・・・まさに楽しい Country Fare(出し物) が山盛りに盛られた The Sons Of The Pioneers のサウンド 」・・・・・以上。 

*Glenn Spencer・・・パイオニアズのオリジナルメンバーだった Tim Spencer の兄で作曲家として Pioneers に優れた曲を提供した人
*Bob Nolan・・・・・・・パイオニアズのオリジナルメンバーの一人。作曲家としても歌手としても優秀だった、今回のアルバムの Tommy Doss の歌声は Bob Nolan の声質と区別が出来ないくらいにそっくり 

さて、このアルバムは音的にはマンドリン、ピアノ、12弦ギター、5弦バンジョー、アコーディオンなど(時にストリングス)を伴奏に3人の男性コーラスで歌われますが、ソロパートは各曲で違っています。有難いのは各自の歌声をソロで聴くことが出来ることです。フォークのブラザーズ・フォーの名唱で有名な(12)Green Fields ですがパイオニアズも負けてはいません、素晴らしい。”Cattle Call Rondolet ” という曲は有名な ”Cattle Call ” とは別物です。 なお、Sons Of The Pioneers の作品集は初期の頃からのものが全てドイツの Bear Family レコード社から大部のCD-Box 集として何巻も出されているのでLPレコード時代のものが単品でCD発売されることはないのでは・・・・と思っています。個人的にはこのように古いグループはレコードで聴きたいしその方が雰囲気が生きてくるように思います。 
ジャケット写真の3人の名前が言えるくらいにパイオニアズが好きという今の若い人(ファン)が出てくるといいのになあ・・・・・左からデイル・ウォーレン、ロイド・ペリマン、トミー・ドスで みんな故人です
 
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懐かしのカントリー&ウェスタン (ジョニー・ボンド 3)

2015年07月09日 | 懐かしのカントリースター
 
Johnny Bond 小伝 Part 2


「1940(大正15)年6月に3人( Jimmy Wakely, Johnny Bond, Dick Reinhart ) がカリフォルニアに到着したあと このトリオはナイトクラブにミュージシャンとして臨時の仕事を得て働き始めました。しかし、9月になるとジーン・オートリーが雇ってくれてCBS ラジオショウである Melody Ranch に出演するようになり、自分たちの道を歩くようになったのでした。それまでにはバンドの名前を The Jimmy Wakely Trio に変え、Gene Autry や Roy Rogers、Tex Ritter、Johnny Mac Brown のようなスターたちが主演するいわゆる ”B ”-Western(西部劇) 映画の幕間の音楽余興を演じたのでした。 
 
1940年代初期にはジミー・ウェイクリーがソロとして独立したために The Jimmy Wakely Trio は解散します、そして Dick Reinhart はテキサスへもどっていき、 Okeh / Columbia レコードとレコーディング契約を結んでいたジョニー・ボンドはジーン・オートリーのところに残り、オートリーが兵役にとられた1942( 昭和17 )年までそこにとどまったのでした。1940年代中頃までにはジョニー・ボンドは ” Cimarron ” とか ” I Wonder Where You Are Tonight ” といったポピュラーになった曲を通してソングライターとして人気を得ていたのですが、”Cimarron ” は同名の映画に触発されて作られた曲、”I Wonder Where You Are Tonight ” はビル・モンローの演奏でブルーグラスのスタンダードになった曲です。
 
1943( 昭和18 )年にCBSは Cottonseed Clark と Foy Willing を使って Hollywood Barndance を立ち上げました。ジョニー・ボンドはそのシナリオを書くことで手助けをし、コメディの仕事も請け負ったのでした。この人気番組は1947( 昭和22 )年まで続き、ジーン・オートリーが戦争から戻って Melody Ranch ショウを再開するとジョニーはそのもとで再び働き始めたのでした。 
 
1952( 昭和27 )年には KTTV の11チャンネルで Town Hall Party が紹介されました。これはカントリーミュージックショウのライブ放送としては最後の一つに数えられるもので レギュラーメンバーの中にはテックス・リッターやジョー・メイフィス、ジョニー・ボンドが名を連ねていました。この放送はロックンロールの台頭によって終焉を迎えることになる1954( 昭和29 )年まで続きました。そして2年以内にはライブ放送というのはなくなってしまい、16年間続いたジーン・オートリーの Melody Ranch ショウでさえも立ち消えになったのでした。 
 
1960年代までにはジョニー・ボンドだけではなくジーン・オートリーも Columbia レコードから解雇されてしまいました 。ボンドは独立レーベルでレコードを出し続けましたが、彼にとって最大ヒットとなった ” Ten Little Bottles ” という曲が出たのもこの時期でした。 
1970年代にはイギリスを訪問して当地で愛嬌を振りまき、晩年にはテックス・リッターとジーン・オートリーに関する伝記を書いて過ごしました。1974( 昭和49 )年に The Academy Of Country Music / Pioneer Award に選ばれるという栄誉に浴しています。 
 
何度か心臓発作を繰り返した後の1978( 昭和53 )年6月12日にカリフォルニア州 Burbank で生涯を閉じ、遺灰は海に撒かれたとのことです。」…・・以上CD解説から。 

レコードには私の好きなハンク・スノウとジョニーが一緒に写っている写真が載っていました。 
レコード裏にはジミー・ウェイクリーがジョニー・ボンドについて書いた文章が載っていますので次回に訳して載せることとします。
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懐かしのカントリー&ウェスタン (ジョニー・ボンド 2)

2015年07月03日 | 懐かしのカントリースター
  
Johnny Bond 小伝 Part 1
最近カントリー・ミュージックへのモチュベーション( この言葉は私はあまり好きではない ) が低下して懐かしのカントリー&ウェスタンも途絶えがちです。これではいけない-と思ってはいるのですが どうも意気が上がらない・・・・・今回久し振りに採りあげたのが Johnny Bond(オクラホマ州出身) です。 大昔のカントリー歌手で、現代の人達には馴染みがない人でしょうが なかなか素晴らしい曲をたくさん残している人です。 レコードもたくさんあるんですが、Old Country の発掘に情熱を傾むけているイギリスの非営利レコード会社 British Archive Of Country Music 社が出しているジョニー・ボンドのCD(右の写真)にコンパクトな小伝が載っていますので2回に分けて訳してそのまま載せることにしました。

「 ジョニー・ボンドは決して世間一般でいわれるような意味でのスターではありませんでした、でも彼の業績は輝かしいものであったことは確かです。アーティストとしてしばしばとりあげられる背景については・・・・1930年代の Jimmy Wakely Trio のようなバンドのメンバーとしてだったり、1940年代のジーン・オートリーの Melody Ranch ラジオ放送には欠かせないメンバーだったりといったことで、このジャンルへの彼の貢献は相当に大きなものでした。 作曲家としてのジョニー・ボンドはいわゆるカントリーミュージック界でスタンダードになっている(彼が作曲した)いくつかの曲以上に反響が大きいものだったといえるでしょう。彼が作った曲の多くは他の歌手によってビッグヒットになりましたが、歌手としてのジョニー・ボンドは数枚のレコードがカントリーチャートにのったもののNo.1ヒットになったのはただ1曲だけでした。また、伝記作家として自分の昔のボスであったジーン・オートリーや親友で仕事仲間だったテックス・リッターのことを書いて皆を楽しませたことなどがとりわけ彼の功績といえるでしょう。 

ジョニー・ボンド( Cyrus Whitfield Bond )は1915(大正4)年6月1日にオクラホマ州 Enville に生まれました。彼によればそこは今日でも地図上で見つけるのが困難なような処だったとのこと。それから父親と家族はオクラホマ州 Marietta の牧場へと移住しました。 
同時代の多くの歌手達と違ってジョニーは全くもって音楽とは無縁の家族の出身でした。彼によると、父親は小さなハーモニカを吹いたけれど ありふれたことでとりたてて上手とかではなかったとのこと。音楽へのきっかけは隣人が持っていた蓄音機だったのでした。 Vernon Dalhart のレコードをはじめて聴いたのも その後すこしたって Jimmie Rodgers を聴いたのもそれがきっかけでした。当時の多くの若者と同様にすぐに Jimmie Rodgers に夢中になってジミーのレコードを手に入れるために一生懸命になったのでした。ところが、それは至難の業だったようで、というのもその頃には父親が1920年代初期の大恐慌のせいで牧場を手放していたからでした。 
 
1930年代のハイスクール時代にふれた初めての楽器がホルン、やがて卒業してから手にしたのがウクレレ、それから彼にとっては高額で8ドルもしたギターを初めて手に入れたのでした。カントリーミュージックはいまやジョニーにとっては全ての情熱を注ぎ込むものになっていて、Milton Brown や Bob Wills、The Lightcrust Dough Boys、Carson Robison といった人達のラジオ放送をむさぼるように聴きはじめたのでした。若いボンドにとってそれらのアーティストはなくてはならない存在となって、それ以来自分はカントリー歌手になりたい-という意識が芽生えたことは疑いの余地がないことでした。 
 
1930年代中頃にショービジネスの世界に入る決心をし、何とか努力して( 当時は簡単に考えていたのか )オクラホマシティーの KFXR ラジオ局に出演するチャンスを得たのでした。ところが、不運なことにそれは無給の仕事だったのです!その頃 Johnny Marvin という人物がその地区でいくつかのアマチュアタレントショーを組織しつつありました( Johnny Marvin というのは ジーン・オートリーのレコーディングで楽器伴奏をつとめていた Johnny と Frankie から成る The Marvin Brothers のかたわれ)。あるショウでボンドは Jimmy Wakely に会いました。そして Scotty Harrel と一緒にトリオを組んでいくつかのショウで働き始めたのでした。このトリオはすぐにその地区で人気を得て、やがて WKY 、KVCO といった放送局でラジオ出演しはじめて スポンサーである Bell Clothing Company にちなんで自分達を The Bell Boys と呼んだのです。 
 
1930年代末期にジーン・オートリーが最新の映画を制作するためにその地区にやって来た時、3人は自分達をオートリーに自己紹介したのです。オートリーは3人をショウに招いて出演させ、オートリー自身もトリオがやっているショウにゲスト出演したのでした。オートリーは3人に対して もしハリウッドに来ることがあればで私を訪ねてきなさいと告げました。 
結局、あてにできないオファーを待つよりかハリウッドに移る方がよい-と決断する時が来たのです…・・Johnny Bond と Jimmy Wakely はそれぞれの細君と楽器ともども1台の車に乗りハリウッドへと旅立ちます。Scotty Harrel だけはオクラホマに残留することに決めたので かわりにローカル歌手だった Dick Reinhart が2人に加わることになったのでした。Dick Reinhart はすでに Okeh レコード社とレコーディング契約を結んでいたので Reinhart がいることでレコード業界進出への期待が高まったのでした…・・続く」

<ひとこと> 緑のジャケットのレコードはドイツ盤です、ずっと昔にジャケットが気に入って買いました。ジャケット裏にはアメリカの Starday レコード社長だった Don Pierce とジョニー・ボンドの盟友だったカントリー歌手 Jimmy Wakely がコメントを書いていますので後半で訳してのせる予定です。ジョニー・ボンドのカントリーは今からするとヒルビリーといってもよいような鄙(ひな)びた感じがするものも多くて有名曲のカバーもたくさんあって目立たないけれど得がたい存在だったことがよく解かります。
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