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肥前 岸岳城を訪ねて
今は月の第3土曜日を休みにして休養というか自由時間とすることにしたのでこれから気分転換に思うところ気の向くままにあちこち好きな歴史的な場所を訪ねてまわることにして・・・・・とりあえず(H28)10/15(土)に行ってきました、佐賀県唐津市の南の内陸部にある戦国時代の山城 肥前岸岳城( 鬼子岳城ともいう、地図の赤印先端 )。 実は悲しい歴史をもったお城なんです・・・・・それは豊臣秀吉の野望で全国の大名達が名護屋城( 地図参照=海沿いの呼子の近くにある ) に集結して朝鮮半島に出兵した文禄・慶長の役にさかのぼることになります。 文禄の役(1592年)で大名衆の一人として朝鮮まで出兵した岸岳城主の波多三河守親(ちかし)でしたが、あらぬ嫌疑を受けて秀吉の怒りをかい 直ちに領地没収、当主の波多 親(ちかし)は常陸国へ配流になってしまい残された家臣団は集団自害したり離散してしまい平安時代から五百有余年17代にわたってこの地を治めてきた松浦党の盟主波多氏は何が何だか訳のわからないまま没落してしまったという歴史を持っているお城なんですね。 私が以前 肥前名護屋城を訪ねた時に買った鎮西町発行の「太閤秀吉と名護屋城」という本(写真1)によると「 朝鮮出兵の大本営のある名護屋城が波多氏領であったので豊臣政権としては波多領を直接支配の下に置くことが切実な課題として求められたからではないだろうか そのための口実を作って難癖をつけて改易(取り潰し)にしたのではと・・・」 と書いてありました、確定はできないでしょうがありそうな話でもあります・・・・・まだまだ疑問が残されている点なんだそうです。
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私の住む大野城市は博多の南西部にあって九州自動車道で鳥栖まで~そこから長崎自動車道で多久まで行き、厳木(きゅうらぎ-と読む)-多久道路という有料道路でわけがわからない行き当たりばったりのまま浪瀬というところで下りて一般道へ。料金所を出てすぐ遠方に岸岳が見える、台形状の山というのは知っていたのでアアあれが岸岳城があるところか・・・・と写真(写真2)を撮った。あの山の平たいところが全部お城になっているらしい・・・・とすこしワクワクする。下調べもせずにふらりとやってきたので全く不案内だったので、出逢った土地の人に ”岸岳城に行きたいんですけど・・・ ” と道を尋ねると ”法安寺というお寺に行きなさい、そこから登る道があるから ”・・・・とのこと。 やっとのことで探し当てた法安寺(写真3)、向かいには波多三河守の立像と脇に波多家代々家臣之霊と書いた石碑が建っていました(写真4)。
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お寺の奥に入っていくんですが大きな岸壁には大きな不動名王像なんかが幾つか彫りこんであったり、地元の人が置いたと思われるたくさんの小仏像が鎮座していて何とも不思議な雰囲気の世界でした(写真5)。その脇から岸岳城に至る細い山道が続いている(写真6)。ちょっと前ならマムシでも出そうなジメジメした山麓から林立した木でうっそうとした山道を稜線目指して登っていった。ちょっとした山歩きながら日頃の運動不足がたたってフーフーいいながら登ったのでした。 風がないので蒸し暑いのなんのですっかり汗をかいてしまった。 30分くらい登って稜線に出た。 戦国時代の山城だから稜線の端から端までがお城で、つまり連郭式の城郭というわけです。看板が立っていて向こう側の景色も見える、左に行けば旗竿石があり、右に行けば岸岳城本丸である(写真7、8、9)。
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先づは左へ5分くらい歩いて行くとありました旗竿石・・・・岩に丸い穴があけてあって旗を立てたらしい、蛇よけにと拾ってきた木切れを立ててみた(写真10)。この石の上に立つと下界がよく見える絶好の見晴し台のよう。
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さて旗竿石から引き返していよいよ本丸方面に稜線上を歩いていく。当時は木は切ってあったかもしれないですが今は写真のように木立の中の細道を歩いていくだけで両側は傾斜の強い斜面になっている(写真11、12)。20分くらい歩くと ”三の堀切り ” というところに来た....橋が架けられていました。橋に立って右側を見ると石垣が組まれていて通り道のようになっている(初めて石垣が出てきた)、そもそも ”掘り切り ” とは何ぞや-と思って近年NHKテレビ放送された「 趣味どきっ!お城へ行こう!」 のテキストを見てみると ”山城で尾根上の進入を防ぐために尾根筋を(人工的に)切ったところ ” と書いてありました・・・・なるほどなぁ、となると元々は橋は無かったと思われます(写真13~15)
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さて”三の堀切り”を過ぎて尾根筋を歩いていくと道端にはきのこが生えていたりです(きれいだから毒キノコでしょう)、やがて ”二の堀切り ” に来ました。両側が石垣で仕切られた一角です・・・・・ウーンよくこんなところに石垣を組んだなあ・・・・と関心。いつも思うのは、何にもない山城よりもこんな石垣があると確かに400年前の人間の活動の跡という思いが浮かんでくるんですよね。 ・・・以下続く
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