西部劇と懐かしのカントリー&ウェスタン日記

現代とはかけ離れたOld Countryの世界ですがずっと続けていきます。興味のある方は時々のぞいてみて下さい。

デルモア ブラザーズ(2)

2015年11月27日 | 懐かしのカントリースター
   
The Delmore Brothers (2)
日本盤 ビクター音楽 VIP-5073 The Delmore Brothers Sixteen All-Time Favorites
(1)Blues Sta Away From Me (2)Sweet Sweet Thing (3)Everybody Loves Her (4)I'll Be There (5)Blues You Never Lose (6)Freight Train Boogie (7)Please Be My Sunshine (8)Muddy Water (9)Field Hand Man (10)Midnight Train (11)Born To Be Blue (12)Brown's Ferry Blues (13)Hillbilly Boogie (14)Good Time Saturday Night (15)There's Something About Love (16)Steamboat Boogie

日本盤 ビクター音楽 VIP-5074  In Memory Of The Delmore Brothers
(1)Sand Mountain Blues (2)Frozen Girl (3)Mississippi Shores (4)Goin' Back To The Blue Ridge Mountains (5)Let Your Conscience Be Your Guide (6)'Dis Train (7)Oh Susannah (8)Blues You Never Lose (9)Kentucky Mountain (10)I Swear By The Stars (11)Can't You Hear Him Calling (12)The Trail Of Time

前回からの続き・・・・ 
1930(昭和5)年の Athens fiddler's contest で優勝したことに勇気づけられると、1931(昭和6)年11月になってアルトンは友人の Bill Willet を説得して Columbia レコード会社のオーディションを受けるためにジョージア州アトランタまで車で連れて行ってくれるように頼んだのでした。 Willetが近年 思い出として次のように語っています ”タレントスカウトはほとんどレコード録音まで取り仕切っていたんだよ、だからその日のデルモア兄弟の Columbia での単独レコーディングが実現したってわけさ ”・・・と。 彼はまた次のようなことも覚えていて語っています・・・”(デルモア兄弟のレコーディングと)同じ日に あるバンドと一緒に盲目のギタリストが出ていたよ ”・・・・と。 それはおそらく Riley Puckett のことで、バンドというのは Skillet Lickers のことでしょう 。 デルモア兄弟は Willet の旧式 Whippett car で旅に出たものの 出かけてから25分きっかりで-たぶん家には決して戻ることはないだろう-という決めごとをあっさりあきらめてしまったのでした。 
 
1932(昭和7)年にはデルモア ブラザーズはテネシー州ナッシュヴィルの WSM ラジオ局のオーディションを受けて合格。 単独出演するのに必要な人気を得るまでのしばらくの間は 兄弟には(自分たちで移動に必要な)車を持つ余裕がなかったのでグランド・オール・オープリーに出演のため土曜日ごとに車に乗せられて運ばれてくる状態でした。しかし、デルモア兄弟はすぐに大衆の心をつかんで Uncle Dave Macon のようなオープリーのスターと一緒に共演できるようになり、人気が急上昇するにつれて他のミュージシャンたちへの影響を聴きわけられるようになってきました。、例えば、Monroe Brothers や The Blue Sky Boys の初期のレコーディングの中にデルモア兄弟の影響を見つけ出すことができるくらいになったのでした。 
 
ナッシュヴィルでの時代には、デルモア兄弟の生活にこっそりと忍び寄るかのように個人的な問題が出現してきました。二人は1938(昭和13)年にWSM(グランド・オール・オープリー)を去りましたが、それは過度の飲酒が原因だったことは明らかです。二人はノースカロライナ州 Raleigh へと移っていますが、それは南部や中西部でのたくさんのメジャーラジオ局での演奏出演のために来るべきその後の長い放浪の端緒でもありました。多くの歌がこの絶え間ないspiritを伝え、二人が歩んできた各地で経験した良き時代のノスタルジー(郷愁)を表しています。”Nashville Blues ”、”Happy On The Mississippi Shore ”、”Back To Birmingham ”といった曲には古い時代へのあこがれが表現されているのです。 
 
二人が出演したたくさんの放送局への在籍期間はとても短いものでした。1950(昭和25)年にはデルモア兄弟はテキサス州ヒューストンへ移動しましたが、その地がデルモア・ブラザーズのプロとしてのキャリアの終焉となったのでした。巡業公演というハードな生活の積み重なりの影響と飲酒癖が破滅へのきっかけになったのでした。兄のアルトンは3歳の娘 Susan が亡くなると完全に心が折れて、ますます深酒するようになり音楽への興味を失なっていきました。兄弟は分裂し、1952(昭和27)年には弟の Rabon が重病にかかりデトロイト経由で Athens に帰っていきました。兄のアルトンはしばらくの間はバーテンとして働き、やがて Rabon に続いて故郷へと帰って行ったのでした。 

1952(昭和27)年12月4日弟の Rabon Delmore は肺癌で亡くなります。その時に兄の Alton はデルモア・ブラザーズは兄弟でないと音楽的には成り立たないことを悟りましたが 復活の望みは( Rabon の死によって )永遠に断たれたのでした。兄のアルトンはアラバマ州 Huntsville 近郊へと移り、そこでしばらくの期間ローカル放送局で仕事をし、同時にギターを教えたり訪問セールスの仕事をして運を取り戻そうとしました。 
Alton Delmore は1964( 昭和39 )年6月9日に Huntsville で亡くなり、妻の Thelma と3人の娘達、一人息子の Lionel が残されました。息子の Lionel は現在ナッシュヴィルでソングライターになっています。アルトンの妻 Thelma は1971(昭和46)年に亡くなっています。    次回に続く 

<ひとこと> 今回載せたLPレコードはデルモア・ブラザーズの King レコード時代のものです。珍しく日本盤が発売されていましたが、アメリカの Kingレコードは初期のころのヒルビリー、カントリー&ウェスタンの宝庫で、真に Rural American Music( 南部、南西部、中西部あたりのアメリカ向けといってもいいか も) を発信しているようなレコード会社だったという印象が強いです。日本ではほとんど輸入盤でしかお目にかかれないようなレコードが多かったと思います・・・・原盤は日本では値段がべらぼうに高くてしかも大都会でしか手に入らなかったのではないでしょうか 。今回の2枚のレコードはデルモア兄弟の全盛期に当たるのではないかな・・・と個人的には思っています。2枚目のレコードの中にフォスターの名曲 ”オー、スザンナ ” があります・・・私はデルモア兄弟が歌うこの曲がとても好きで録音して何度聴いたことか!!   続く
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デルモア ブラザーズ(1)

2015年11月26日 | 懐かしのカントリースター
 
The Delmore Brothers (1)
米国盤 County Records-402 The Delmore Brothers 1933-1941 recordings
(1)The Nashville Blues (2)Blue Railroad Train (3)Broken Hearted Lover (4)Happy On The Mississippi Shore (5)Til The Roses Bloom Again (6)Brown's Ferry Blues (7)Back To Birmingham (8)Don't You See That Train (9)Big River Blues (10)Gonna Lay Down My Old Guitar (11)Fugitive's Lament (12)Honey I'm Ramblin' Away

今回は伝説の兄弟デュオ ”デルモア ブラザーズ ” を3回にわたってとりあげることにしました。私は兄弟の残したLPレコードを何枚か持っていますが、アメリカの独立レーベル County Records 社から出されたLPレコード( 写真 )の裏ジャケットに兄弟のおおまかな経歴が載っていますので省略せずに訳して載せることにしました。 ただ、わかりやすくするために処々に私なりの補足や写真を入れています。 
デルモア ブラザーズは2001(平成13)年に栄えある Country Music Hall Of Fame に選ばれましたが、現代の日本のカントリーミュージックファンの間ではほとんど忘れられたような存在になっているのではないでしょうか。今回の古いアメリカ発のレコード解説が少しでも興味の湧くきっかけになればいいな・・・・と思っています。 以下解説

「 カントリーミュージックの歴史の中でも有名な兄弟デュオのひとつである The Delmore Brothers はアラバマ州 Elkmont の出身で、兄の Alton Delmore は1908(明治41)年12月24日、弟の Rabon Delmore は1916(大正5)年12月3日に生まれています。二人の両親である父親の Charlie、母親の Mary(=Aunt Molly)は Limestone 郡の北部にある岩だらけの丘陵地帯でやっとこさ生計を立てているという小作農でした。1920年代初期に郡南部のテネシー河近くの肥沃な低地帯でよりよい生活を夢見て農業に従事しようと移住したのでした。しかし事はうまく運ばず、他人の土地を借りての小作農の仕事は肥沃な低地帯も岩だらけの丘陵地帯と変わらず、報われないものでした。それに加えて大恐慌の波がこの地を襲ったのでした。 
 
アルトンとレイボンはほかの兄弟・姉妹たちと一緒に自分たちの家の収穫作業を手伝い、日雇いとして他の家の作業を手伝い、父親の Charlie は秋になると綿摘みの仕事をしたのでした。Tennessee Valley Authority ( テネシー河流域開発公社・・・・Wikipedia で検索してみると、1933年に米国大統領フランクリン・ルーズベルトが世界恐慌対策として実施したニューディール政策の一環でアメリカ南部の貧困改善に一役買ったとのこと ) による劇的な経済的変化が起こる以前は大多数の隣人たちと同様に Tennessee Valley 地区は貧困にあえいでいました。実に厳しい時代でしたが デルモア家にはいつも音楽が満ち溢れていました。優れたミュージシャンだった母親の Mary( Aunt Molly )は子供たち全員に音楽を教えたのです、中でもアルトンはとびぬけて優秀な教え子でした。アルトンの音楽才能は local singing school に参加することでより磨かれていきました。 デルモア家の者は教会が開く夏季伝道集会で歌うことも好きでした。
しかし、依然としてデルモア ブラザーズの音楽に直接の背景を醸し出していたのは貧しさだったのです。Tennessee River 地区で朝から晩まで疲労困憊になるような労働を共有する(黒人たちと)同じ境遇の白人労働者には黒人ブルース歌はデルモア兄弟のコード(音楽)に敏感に心に響いたのでした。 

かつてアルトンが次のように述懐しています・・・・”私たち兄弟が音楽生活でお金を稼いで絶頂期にある時でも染み付いた貧しかった時代の不安感とか怖れを払拭することは決してできませんでした”・・・・と。 苦境の時代の過酷さから逃れたいという強い欲求は兄弟の多くの歌に具現されており、ボーカルと楽器演奏の双方に心を動かされるほどに表現されています。Train や River という語は兄弟にとっては貧乏生活からの逃避としての問題を解決する手段を表わしていました。 
アルトンは早い時代に弟のレイボンにテナーギター(4弦ギター)を教えました。10歳になる頃には二人は近隣の音楽会で一緒に演奏し、後年二人に名声をもたらすことになる close harmony を披露したのでした。1930(昭和5)年にデルモア ブラザーズは郡の中心地 Athens で毎年開催される Old-time fiddler's contest にエントリーして優勝。コミカルな唄を歌ったあるグループにほとんど優勝をさらわれるところでしたが、審査員たちは二つのグループを何度か呼び返したあと最終的にデルモア ブラザーズに軍配を上げたのでした。その夜家に帰ったアルトンが言うには 聴衆が望むなら僕達だってコミカルな唄を歌うこともできたんだけどね・・・・と。 

アルトンの功績は ” Brown's Ferry Blues ”という曲にあります、この歌はテネシー河畔にある自分たちの家近くに古くからあるフェリー乗り場にちなんでつけた歌です。( 皮肉なことにこの有名な歌に感化を与えた河辺の場所はのちにその種の中では世界有数のTVA [テネシー河流域開発公社] の Brown's Ferry Nuclear Plant になったのでした)。この歌は正しくは Novelty song ( 斬新な内容の唄 )と見なされていますが まぎれもなく苦境時代の暗澹としたニュアンスが聴かれるものです。 即ち次のような内容に・・・ ” Hard luck papa standin' in the rain, If the world was corn he couldn't by a grain・・・・”。 その歌が Limestone 郡周辺の人達にだけしか関心を示されなかったとしたら二人はWSM(グランド・オール・オープイー) のステージでこの歌を演奏することなどなかったことでしょう。 実際は、放送局のマネージャーが兄弟がその歌をジャムセッション風に歌うのを聴いてラジオ番組にその曲を入れるように主張する以前からデルモア ブラザーズは WSM (オープリー)のステージで1年中この歌を演奏していたのですから。 次回に続く 
 
<ひとこと> 私が初めて聴いたデルモア ブラザーズの唄は( いつどんな時だったかは思い出せませんが ) ”When It's Time For The Whipporwill To Sing ( 夜鷹の鳴く頃 )” という曲でした。 きれいなメロディラインを持った曲です・・・・・4弦のテナーギターは珍しくて、昔アメリカのフォークグループ The Brothers Four の一人が弾いているのを見たことがあるくらいでしたが なかなかいい音がする楽器です。昔のヒルビリー兄弟グループはギターとマンドリンの組み合わせが多いですが、デルモア ブラザーズの場合 弟の Rabon Delmore が曲の中でメロディを弾く時はほとんどこのテナーギターが担当しているのではないでしょうか。二人のギターテクニックもなかなかのものですし 何といってもそのボーカルデュオの雰囲気が好きです。 古い昔のアメリカの不況時代に貧乏生活から抜け出すために必死だった( 往年のジョン・フォード監督の映画「 怒りの葡萄 」の世界かな )・・・・といった背景を知ると彼らの歌を聴くのにもつい真剣になってしまいます
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ああ北の湖

2015年11月22日 | つれづれに
 
北の湖
新聞に ”憎らしいほど強かった ” と表現してあった大横綱 北の湖・・・・亡くなったのですね。いつもブスッとして愛想がなく、笑った顔など見たこともなかった北の湖・・・・・はじめは嫌いだった、でもいつの頃か好きになっていった力士でした。無愛想で相撲以外でマスコミを騒がせるようなことなんかなくて不器用な男という印象だったけれど 相撲一筋に自分を通していく姿勢に僕は ”ウーン ”と唸りながらだんだん好きになっていった力士でした・・・・北海道の男、昭和の男だった・・・・62歳、横綱在位63場所 横綱670勝は歴代1位だという・・・ 北の湖
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切なくなる言葉

2015年11月20日 | 医療の仕事
  
切なくなるような言葉

今は手術をしない整形外科医になっているせいか整形外科一般診療のほかお年寄りの慢性疾患患者さんの入院を担当することも多くなった。 9月中頃、ほかの病院から94歳のおばあちゃんNさんの全身管理・リハビリをお願いします と入院依頼があって自分が担当することになった。整形外科的には腰痛治療で引き受けられているものの 栄養障害と大きな頸部リンパ腫脹があって一人暮らしで台所で倒れていた・・・とのこと。栄養改善とリハビリで日常活動ができるようにと対処して、部屋を訪ねる度に話をした・・・満洲にいったこと、結婚してすぐにご主人が戦死して以来独りで生きてきたこと、私自身の両親のことなども聴かれたり等々昔話を始めたら記憶もしっかりして能弁になるどことなく可愛げのあるおばあちゃんだった。11月末になって頸部リンパ腫脹が思わしくなくなっていよいよ転院することになって入所先の終末期医療施設(緩和ケアハウス)へ紹介状を書いてあげた。 するとお礼にとお菓子を下さった。お菓子を有難う 元気でいてください-とお礼を言いに部屋を訪ねると・・・・私の手を握って ” 先生、長いこと有難うございました、私はお花の国に行きます・・・” と言われた。思わず切なくなって言葉が出ず、Nさんの両肩に手をやって頑張って下さいね・・・というのが精いっぱいだった。私の両親の世代に近いNさん、戦争の時代を生き抜いてきた人たちの中にはこんな境遇の人達が日本にはたくさんいるんだろうな・・・と思うことだった。 
 
<追記>新しい年(平成28年)になって1/19 Nさんが亡くなったと報告が来た・・・Nさんお菓子は美味しく食べましたよ

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世界野球プレミアム12 準決勝 韓国戦

2015年11月20日 | つれづれに
 世界野球プレミアム12 
いま野球の世界大会をやっていてこの2週間くらいずっとテレビ観戦してきたけれど、今回は小久保監督がなかなかよい選手を選んでくれて日本チームのムードがよくて活躍が目立っていた。監督に落ち着きがあるので選手達がのびのびとやっている印象だ。 
でも昨夜の準決勝 韓国戦は大谷の圧巻の投球で勝利・・・と思ったのに9回に大逆転でまさかの敗退、実に悔しい負け方だった。台湾での数試合の時は各選手が積極的でのびのびとやっていたようだったけれど、東京ドームに帰っての試合はみんなが何となく堅くて消極的だったように感じた。小久保監督が私の継投ミスといっていたけれど楽天の則本もそれまでの試合では闘志いっぱいの投球をしていたので信頼感があっての起用だったから仕方ないかなあ…と思う。あのまま大谷の完投でもよかったかな・・・とは思うけれど結果論だから仕方ない。韓国の粘り強さを褒めるべきかな・・・普段あまり見ることができない大谷投手の凄さが確認できたのでよかった、登坂間隔があきすぎたのでバッターとしての大谷も見たかった(二刀流だから)。
全体的にはほかにも中田、筒香、平田といった選手のすごさも見ごたえがありました。西武の中村(おかわり君)がもっと活躍できていればなぁ・・・・我がソフトバンク・ホークスから出ていた松田、中村は活躍できたけれどピッチャーの武田、ショートの今宮がほとんど活躍の場がなくて気の毒だった。 
今度の日本チームはよくまとまっていました・・・よかった、ぜひ3位にはなってほしい
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つれづれに(ベータテープ)

2015年11月11日 | つれづれに
ベータ方式テープ出荷終了へ ソニー

(平成27年)11/11の新聞に家庭用βービデオカセットテープ販売が来年3月で中止になる・・・・・と出ていました。 
私は近年見たことがなかったので既にないものと思っていましたが まだ販売は続いていたんですね。 VHS方式のビデオと激しい規格戦争を繰り広げたが、発売から約40年で歴史に幕を下ろすことになった・・・・とのこと。 SONYがβー方式のビデオ機器を発売したのが1975(昭和50)年、その後VHS方式に敗れて2002(平成14)年に機器の生産を終了し、その後は機器を持っている人のためにテープの生産を続けていたが、今年度の出荷予測巻数が400巻まで落ち込んだために撤退を決めた・・・・そうです(これだけ少なくなってもよく作り続けたなぁ、これぞ企業の良心かな!)。私も人からもらったβービデオを4巻だけ持っていますが 専用の再生機器を持っていなかったので見る機会は全くといっていいほどありませんでした。ただ、VHSよりひとまわり小さいβービデオをVHSサイズの外枠型にはめ込んで再生できる装置があって それで見たように記憶していたように思いますがどうだったかなぁ・・・と今では忘れてしまって自信がありません。 
個人的な話ですが、カントリー音楽のことで交流があった北海道の弟子屈 ( てしかが )町というところで牧場を経営されていたカントリー&ウェスタン音楽大好きの札木さんという方が 自分の牧場の様子を Country Music にのせて紹介しているβビデオを送って下さったことがありました。再生機器を持っていなかったので前記のような方法で見たように記憶しています。 どこかに保存しているはずで その後亡くなられたので懐かしくなってDVDに録画を頼もうかなとふと思いました・・・・・時代の流れとはいえ古いものが駆逐されていくのは淋しいです。 
因みに、私はレーザーディスクのソフトと再生機器もまだ大事にとっています、DVDが出現してからまるでゴミみたいに安くなって消えていったレーザーディスク群ですが(古道具屋さんで100円くらいで大量に売っていました)いまだに愛着があってとても捨て去る気にはなれないでいます・・・・・古くても大事にしたいです
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