西部劇と懐かしのカントリー&ウェスタン日記

現代とはかけ離れたOld Countryの世界ですがずっと続けていきます。興味のある方は時々のぞいてみて下さい。

ベア・ファミリー レコード物語 1

2013年09月26日 | カントリー&ウェスタンの本
 
Bear Family Records 物語 (1)

まだ残暑は厳しいもののどうにか朝夕に冷たい風が吹くようになって私的にはやっとカントリー&カウボーイ ソングの季節が来たな・・・・・と感じています。 何を初めにーと思った時、古本整理をしていたら出てきた懐かしい小本があります、Bear Family Records 社のカタログ・・・・そうだここから再スタートしようということにしました。 Classic Country Music に興味を持っている全世界の人達には福音のレーベルでした、いや今でもそうです。自分には乏しい小遣いの中から ”これぞ ”と思うものしか買えなかった時代があったので懐かしいです、きっと同じような経験のある同好の士がおられると思います。
このドイツの「ベアファミリーレコード社」について3回にわたって載せることにしました。 まだレコード時代に私もベア・ファミリーから主にカウボーイソング系のLPレコードを買いましたが、その時業者さんから同社のカタログをもらいました。 トップに掲げた写真は Catalog 1986/87 (昭和61/62年)とあるので Bear Family Records 社のごく初期のカタログだと思いますが、その中に創立者 Richard Weize へのインタビュー記事があって「 About Us 」という形でベア・ファミリー社の成り立ちを知ることが出来るインタビュー記事になっていますので全てを訳してみました、英語の勉強、頭の体操がてらですが私なりの補足カッコ内()を加えています・・・・・・面白いですよ。
トップの写真はカタログ表紙と1ページ目の見開き写真
  

SWFラジオの Walter Fuchs という人がベア・ファミリー レコード社の創立者 Richard Weize 氏にインタビューしたもの   

Walter Fuchs(以下 Walter): リチャードさん、貴方は1975(昭和50)年に Bear Family レコード社をスタートさせていますがそのいきさつについて教えてください

Richard : そうですね、私は1950年代からずっとレコードコレクターだったのです。10代の頃ははじめはロックンロールを集めていましたが1950年代終わり頃にはカントリーミュージックに集中するようになりました。ご存知のようにレコード収集というのはお金がかかるものなんですよ、特に外国から買うとなると尚さらね。そこで、1962~63(昭和37、38)年頃に私は直接アメリカの輸出業者から卸値で買い始めたんです、と同時にコレクター仲間にも提供するようにしました。そうすることで私達はかなり妥当な値段でレコードを入手することができました。 次の数年間には私は Country Corner 設立メンバーの一人になって 短命に終わってしまったものの私自身のマガジン” Country Collector's Information ”を発行し始めました。

1966(昭和41)年初めにイギリスに移住したのですが、その時に500枚近くのLPレコードと1000枚のシングルレコード、500枚のSPレコードなど珍しいコレクションの大半を売り払ってしまいました。手元に40枚ほどのアルバムだけを所持するだけで、次の2年間はチョコチョコッと買うくらいで実質的にはレコード収集から遠ざかってしまったのです。

1968(昭和43)年になって第1回 International Festival of Country Music が Wembley Stadium で開催されたので見に行ったのですが、その時からまたまた Country Music への興味が再燃して、スイスで発行されている the Hillbilly Magazin という雑誌にイギリスから投稿し始めました。 Country Music のレコード収集も再開したのですが、今度は個人レベルのものだけに限るようにしました。古いSPレコードの多くは非常に珍しくて入手困難でしたので1969(昭和44)年に数枚のコレクター向けのアルバムを出すことに決めたんですが、その中の1枚が Goevel Reeves(ゴーべル・リーヴス=カウボーイ歌手) でした。

1970年代初めにドイツに戻ってからは他のコレクター仲間と一緒に Folk Variety レーベルを立ち上げたのです。それ以来ずっと私達はたくさんのレコードを発売し、レコード輸入も再開しました。この時代に私は Bill Clifton と Hedy West の2人と親交を深め、二人のレコードを出したり 二人をドイツの folk club と出演契約させたりもしました。 

私とパートナーはとにかくフルタイムの仕事で生計を立てていたのですが、でも実質的には非営利事業でした。 1975(昭和50)年初めに私のパートナーが政界に入ることになって 仕事をかけもちすることが出来なくなったので、1975(昭和50)年中頃になって事業を一人で続けていくかそれとも辞めてしまうか-という問題に直面しました・・・・・・結果的には Bear Family Records 社を立ち上げて事業を続けることにした-という訳なのです。

Walter : レコードレーベルを Bear Family Records と名付けたのはどうしてなんですか?

Richard : 私は熊が好きでしたのではじめは Bear Records という名前にするつもりでした。それでレーベルのシンボルマークを探そうとしたんですが なかなか無くて・・・・・ある時1898(明治31)年発刊の百科事典を見ていたらその中に熊の親子の写真が目にとまったんです、いいなと思って Bear Family Records と名付けたというわけです。

最初に出したレコードは前記の Folk Variety Records で既に出していたものと新しく企画していたものとにしました。Bill Clifton と Hedy West とはすでに契約も済ませていたので二人によるさらなるレコード発売も合わせて計画しました。私はレコードの仕事に多くの時間を費やしていたのでフルタイムの仕事に興味を失くしてしまっていました、そのことが上司を悩ませたのか契約を破棄されてしまいました。そんなこんなで音楽への愛着もあるものの家族をかかえながら無収入状態である-という問題に直面してしまったのです。そこで、組織をさらに拡張して(販売促進のための?)定期的レコード在庫リストを作成して送るようにした結果かなり生活状況が改善できたのでした。次の数年間も現実的には苦しい闘いでしたが、Hedy West と Bill Clifton を中心とする友人達からの経済的援助のおかげで事なきを得たのでした。

Walter : それから貴方はメジャーレコード会社からリース(借りて)を受けてレコードを販売し始めましたね 。

Richard : そうです、これは正解でしたよ。1977(昭和52)年にメジャーレコード会社が小さなレコード会社にブルーグラスの音源を貸し出したのを初めて見たのです(恐らく独立レーベルの Rounderレコードのことだと思います、Flatt & Scruggs のLPレコードが出たことを指している?)。 CBS Special Product というものでしたが、私は似たようなことができるのではないかと気付いたのです。そこで、1978(昭和53)年春に私は ”The Unissued Johnny Cash ” というLPレコードを発売したんです、それはキャッシュの1950年代終わりから1960年代初め頃の未発表曲12曲を含んだアルバムでした。それは今日ほど容易なことではありませんでした・・・・・・その企画にはとてもお金がかかりました、実際予測した以上のべらぼうな金額でした。そこで販売前の宣伝に努めたんです、その結果ABCレコードから出た Robin Luke を次に出す-といったようなことが続けられたのです。1985(昭和60)年の時点で170種類のLPレコードを出しましたが年内までに200種類に達するよう望んでいるのです・・・・・・・以下次回に続く

膨大なお金がかかったという”Unissued Johnny Cash”が中央左に載っています

<私のひとこと>
第二次世界大戦の敗戦国ドイツと日本がアメリカから影響を受けたカントリー&ウェスタン ミュージックへの関心とスタートは同じだと思うのですが、Bear Family Records 社などの活動をみていると持続性と熱心さ、思い入れの深さ、全世界をマーケット対象に入れた視野の広さ等々ではドイツの方が上なのではと・・・・・感じます。
Folk Variety レコードが Bear Family レコードの前身であることもこのインタビュー記事で初めて知りました。中古で興味ある歌手の Folk Variety 何枚か買ったことがありますがCDの時代になったせいかただ同然みたいな値段でした(カウボーイ歌手のゴーベル・リーヴスは以前載せています)、コレクター向けのレーベルだったのですね
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つれづれに (8月15日)

2013年09月23日 | つれづれに
 
8月15日の頃
夏はどうもカントリー音楽向きではないーということと ちょっと気持ち的に落胆するようなことが何件かあって・・・・・長い間ブログの更新を休んでいました。毎日厳しい暑さが続いていた日々も最近はやっと朝夕冷たい風が吹くようになってきて秋の気配がしてきたので2ヶ月ぶりですがまた書き始めることにしました。 
ちょっと前の話 
8月のお盆は仕事は休みだったので映画を見に行った。アニメの「 風立ちぬ 」、「 ローン・レンジャー 」 と立て続けに見て、終戦記念日ということもあって「 終戦のエンペラー 」まで見た。

アニメ 「 風立ちぬ 」は ”零戦 ” の設計者 堀越二郎さんをモデルにした作品で飛行機に魅せられた少年が戦争に向かっていく時代に翻弄されながらも飛行機設計者として青春期を送る話。 ”零戦 ”は昔 日本海軍の主力戦闘機で姿かたちの美しい飛行機 ( とても日本的だ )だったので戦後生まれの僕ら男の子達は多少ともプラモデルで作ったり などの経験をもっていて懐かしく感じる部分もありました。 私は零戦にフロートをつけた ”二式水戦 ”という水上機があってプラモデルが気に入ってハタチを過ぎる頃まで持っていたくらいです。
子供向きのアニメではないでしょうが、戦争を賛美するでもなく よく出来ていると思いました。禁煙団体から ”喫煙シーンが多い ” とか 隣国からは ”日本の軍国主義礼賛につながる作品だ ”などの批判があったようですが映画を見ればそんなことつまらない重箱の隅だ-とわかります。何でも批判はよくないね・・・・映画チラシの写真がなくて読売新聞の読者向け小冊子の表紙からのものです。

ローンレンジャー」は これも少年時代にテレビシリーズであった子供向け西部劇だったので見ていたもの、たしか夕方6時頃の時間帯じゃなかったかなあ、自分の家にテレビがあったか テレビのある家に見せてもらいに行っていたのか 今では不明確。 かつてはビデオも出ていたし、近年 DVD-Box や単品でたくさん発売になった(写真)ので Book Off で見つけて買いました。  今度の映画を見ての私なりの感想は西部劇とは思えなくて「インディ・ジョーンズ」とか「パイレーツ・オブ・カリビアン」の西部劇版アクションといった趣きです、スピード感がないなと感じましたが最後の30分くらいがやっとスピード感が出てきたようでした。内容はテレビシリーズの最初の3話までを映画にしたもののようです。相棒のインディアンのトントが終始顔にペイントしているのも違和感このうえなかったです・・・・・たしかインディアンが顔にペインティングするのは戦闘に行く時だけのはずーというイメージを持っているので。でも私のように昔のイメージを持って見るような映画ではないのかも知れません、それに子供向けの映画には必ずしもなっていない-という感じでした、見に来ている人に年配の人達も多かったです、やはり懐かしいんだよね。

「 終戦のエンペラー 」は太平洋戦争に負けてアメリカ軍に占領されて連合国司令官ダグラス・マッカーサーによって占領政策が推し進められる中で、この戦争の責任者は誰なのか?天皇に戦争責任があるのか、あるならばそれを第3者的に立証できるのかーを占領軍の立場から模索していく・・・・といった映画でした。
日本の歴史の中で 大昔から時代が下れば下るほど天皇という立場の理解の仕方は私達日本人でもよくわからなくなってくるので( たとえば戦国時代に信長~秀吉~家康と実力で天下をとった人達と 天下をとったわけではないその時代の天皇とがどういう関係にあるのかーといったようなものはにわか仕込みの外国人には理解できないところだと思います) 、まして占領して数ヶ月で天皇の立場と戦争責任というものが外国人に理解できるはずがなく、天皇の側近や当時の戦時体制を推し進めた人達からの聴取で探っていこうとするマッカーサー一党の方針・・・・・というのが自然だったのかなと思います。
多くの重~い問題を持っている事柄を扱った映画でしたが我々日本人には避けて通れないことなのでこうした映画を見るのも必要と思います。

さて次回からはまた懐かしのカントリー&ウェスタン、西部劇などにもどって年末に向けてブログ更新スピードアップします!!
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