西部劇と懐かしのカントリー&ウェスタン日記

現代とはかけ離れたOld Countryの世界ですがずっと続けていきます。興味のある方は時々のぞいてみて下さい。

石見国 津和野城を訪ねて①

2022年11月03日 | 歴史はロマン…九州の歴史を中心に

石見国 津和野城を訪ねて ①

(2022=令和4)11/3は文化の日で11/4(金曜日)はもともと仕事休みの日だったので連休を利用してずっと前から一度は訪れてみたいと思っていた島根県の津和野城跡を訪ねての小旅行……いつも萩・津和野の旅といわれて古い城下町散策がセットになっていたように思う。萩に比べたら津和野はずっと地味だ、小藩だし殿様も有名ではない(亀井氏四万三千石)、しかし山頂に立派な石垣群を持ったお城跡がある……お城ファンにとっては垂涎の城跡なのです。 

司馬遼太郎さんの目線で見ていきたいと思って前もって「街道をゆく」第1巻に載っている ” 津和野から益田へ ” という項目を読んでおいた。赤○印のところが津和野。

 

博多駅でアンパン2コとコーヒーの朝食🤣 07:54 発の新幹線で新山口 08:28着。山口線の在来線に乗り換えて08:53発スーパーおき2号に乗り換え09時58分津和野駅着。山口線はいかにも日本のローカル線という感じで、途中の山口駅(山口県の県庁所在地)だってどこかみすぼらしい感じだった。   

津和野駅は比較的新しいのかシンプルで綺麗。駅前に蒸気機関車D-51が飾ってある……津和野川に沿った細長い町で静寂感がある、どっちかというとさびれた町の感じで人も少ないけれど城下町らしい昔の日本という雰囲気は十分にあった。 

津和野川筋に沿った細長い街なので駅前の道を歩いていくと右手の山頂に津和野城跡の石垣が見えてきた、小さな溝には清流が流れており、大きな錦鯉が何匹もゆったりと泳いでいる。 

   

 文化の日で休日ということもあってパラパラと観光客が歩いている。土地の銘菓”源氏巻”というお菓子を売っている瓦屋根の日本家屋の店(下左の写真)が目立っていた。  

津和野城跡を訪ねるのが目的だったので城址への登城口を捜してひたすら歩いた。案内板に従って津和野川の橋を渡るとすぐに馬場先櫓(上右の写真)というのに出くわした、お城の山麓にある櫓らしい。さらに行くと津和野高校前に出た。高校の敷地は江戸時代の藩庁の後とのこと。道がY字になっており、右手の方の舗装道路を登っていくと稜線に出るためのリフト乗り場があるという・・・僕はどうしても昔ながらの登城口を歩いて登りたい気持ちがあったので出逢ったお年寄りに ” お城への上り口はどこにあるんですか? ” と尋ねた。” 昔は山道の急坂を登っとったけど今はリフトがあるからみんなそっちで行くよ、登城口は高校の前にあるけど多分荒れとるよ ”・・・とのこと。

 

探して歩くと道路わきに小さな立て杭があって大手登山口とありました。つまり昔の正門への登城口・・・( 昔はちゃんとした広い道だったんだろうけど )1メートル弱の何とも細い道が山麓に向かっており、そこから歩いて登ることに決定。石ころと木の根だらけの鬱蒼とした山道を歩く・・・天気が良かったからいいものの、雨だったらグチャグチャ道で行かなかったかも。風通しが悪くて汗をかきかき40分くらい登ると稜線を歩く人達の声が聞こえる・・・稜線に出た。そこから津和野城本丸へ向けて左側に歩いて行く。

 

城址へ着くと累々とした石垣群に圧倒された・・・正に ” 荒城の月 ” や三橋美智也の ” 古城 ” を思わせる世界観。大分県の竹田市にある岡城もすごかったけどそれよりやや小ぶりだけれど日本百名城に選ばれるだけのたたずまい感がある。 

城の起源は元寇の頃に能登から来た吉見氏がこの地に城を構えた時からとのことだが、本格的な石垣の城になったのは戦国時代の坂崎(出羽守)直盛の頃かららしい・・・こんな山の上に総石垣の城を築くなんてどれだけの労力が要ったことかと考えると驚きである。 三十間場という広い場所に立つと下に津和野川と津和野の町が見えるし、さらに奥に丸っこい青田山がみえる。見回しても360度山ばかり。なんでこんな山奥に城下町が……とふと思ってしまった。何かしら地理上の重要拠点だったんだろな。

どの城郭にも縄張りというのがあって(本丸、二の丸、堀・・・とかいった)、この津和野城にもあって、看板が出ていた(上左の写真)、天守閣もあったらしい。

次に続く

 

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高山彦九郎の九州

2022年06月07日 | 歴史はロマン…九州の歴史を中心に

高山彦九郎の九州

 

長い間かかってやっと吉村 昭の ” 彦九郎山河 “ を読み終えた。途中まで読んでは一旦やめ、前のストーリーがわからなくなってまた初めから読んで……の繰り返しだった🤣

幕末の勤皇思想の先駆けとなった人への理解を深めるための小説だった。

吉村さんが高山彦九郎に興味を持ったのは「解体新書(ターヘル・アナトミア)」の訳者の中心的役割りを果たした前野良沢のことを小説にするために調べものをしていた時、何故か高山彦九郎が出てくることに気づいてかららしい。戦前の軍国日本の皇国史観に利用されて曲解された高山彦九郎、彼が残した膨大な日記を読み、彼の本来の姿を是正したい気持ちからこの小説を書かれたらしい。日本史の歴史教科書には出てこない人ですね。

小説には3本の筋が通っている

①身内内の確執(実兄との)

②多くの学者達の著した書物から蝦夷地、千島列島がロシアの侵攻の恐れを感じて蝦夷地に渡り実地検証を目指した時代

③徳川氏の幕藩体制を批判して天皇による文治政治に戻すべき…との王政復古思想を広めるための活動

驚くべき行動力で全国を行脚している、しかもハッキリした目的を持って🤣早くから幕藩体制から天皇中心の統治に戻すためには有力大名、特に薩摩藩の後ろ盾が必要と判断して九州に赴く……幕府からは危険思想の持ち主として目をかけられているので漫遊の旅を装うため九州各地を訪ねて各地の学者、有力者と交流しながらの旅。

高山彦九郎が鹿児島まで来ていたことを知って驚いた。開聞岳にも登り、枚聞(ひらきき)神社や霧島神宮にも参拝、坊ノ津までも行っている🤣

江戸時代の薩摩藩は他国からの出入りを厳格に制限している……高山彦九郎も入国するのに野間の関所(鹿児島県出水市)で半月も待たされている。薩摩藩では始め歓迎され、入国の目的が知れるにつれて疎まれていく……失意の彦九郎はその後も九州各地を放浪するが如く点々とする。最後に頼ったのは久留米藩の藩医 森 嘉膳……その屋敷で失意のうちに自刃する。

早すぎた勤皇思想家だってのでしょう。藩という確固とした後ろ盾のない孤独な思想家……久留米の寺町地区の遍照院に墓がある。幕末期の勤皇の志士と言われた人達は久留米を通る時は必ずといっていいほど高山彦九郎の墓前を訪れたとのこと。

高山彦九郎 上野国新田郡細谷村(現在の群馬県太田市)の出身 

吉村 昭さんは ” 私は、彦九郎の日記を読みながら、かれの豊かな教養と純粋で物悲しい人間性に魅せられた ” と書いておられますが、この本はまさに吉村さんの情熱が感じられる作品でした。鹿児島まで来た高山彦九郎だけど、鹿児島でのその手の郷土本なり資料なりがあまり見当たらないなぁ?

しばらくしたら5/18のところにに戻す予定

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本「 気まぐれ歴史散歩」

2021年12月03日 | 歴史はロマン…九州の歴史を中心に

本 「 気まぐれ歴史散歩 」 

この本いいな……本の帯に“ 歴史の「現場」をふらっと訪ねる“ と謳ってある。” 歴史の洗礼を受けた土地は、奇妙なオーラをおびている。余光、残照といったものだ。たたずまいが微妙にちがう ” と書いてある。なるほどそうかもなあ・・・古城をはじめ歴史的な場所を訪ね歩くのが好きな私にとってはとても参考になる。古い所から新しいところまで雑多に載っているのがいいな🤣

例えば初めが「旧石器あらわる(群馬県みどり市)」で最後が「霞ヶ関ビルの誕生(東京都千代田区)」……その間に「運慶多忙なり(奈良県奈良市)」「あな哀し壇ノ浦(山口県下関市)」「天下分け目の関ヶ原(岐阜県関ヶ原町)」「赤穂城明け渡し(兵庫県赤穂市)」「大塩立てり(大阪府大阪市)」「寺田屋の血しぶき(京都府京都市)」「国男少年の故里(兵庫県福崎市)」「秩父困民党蜂起(埼玉県秩父市)」「北海道庁開庁す(北海道札幌市)」「大本弾圧(京都府綾部市)」「光太郎の山居七年(岩手県花巻市)」「岸壁の母異聞(京都府舞鶴市)」などなど…ここに載せた以外にも多数。

これは知らなかった…がいっぱい!小旅行も目的をもって訪ねると意義深いものだなあ、ただ美味いもの食べだけじゃなくて。

もう全国を対象にした旅行は無理なのでせめて九州内のこうした小旅行は続けてみたいと思う🤣

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信州 高遠城

2021年11月13日 | 歴史はロマン…九州の歴史を中心に

信州 高遠城

 

信州(信濃=長野県)の伊那地方、山深いところにある高遠。

戦国時代 甲斐武田氏のひとつの拠点だった山城で武田氏が滅びた時に降伏せずに孤軍奮闘して戦死した(武田信玄の息子のひとり)仁科信盛の居城だったところ。今は春の桜、秋の紅葉で有名だけど悲しい落城の歴史を持っているところ。こんな山奥の小さな城下町(江戸時代には内藤氏3.3万石)がなんで重要拠点?……と思ってしまう。九州から訪ねると土地勘がないからその辺の事情はわからない……おそらく道の分岐点にあたる地ということかなあ。九州でいえば豊後竹田や豊後森みたいな山深い城下町に似ている。

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九州のおもしろ歴史(福岡の風雲幕末 3 )

2021年01月31日 | 歴史はロマン…九州の歴史を中心に

幕末の風雲福岡 乙丑の獄 (いっちゅうのごく) 

「頭山満と玄洋社」のY新聞記事が終了してから間もなくして連載記事が単行本になって発売された。連載記事とは違って系統的にまとめられたものになっていたので購入して改めて読んだ。補足内容もあってなかなか充実したものになっており満足。 

その中にこんな一説があった「幕末の一時期、福岡は討幕運動の中心地の様相を呈していた。だが、1865年()黒田藩の勤王派は佐幕派の巻き返しで一網打尽の弾圧を受ける。勤王派リーダーの家老・加藤司書以下七人が切腹、14人が斬罪、16人が流罪となり野村望東尼は姫島に流された・・・・頭山ら玄洋社結成メンバーは乙丑の獄を十代で目撃したた・・・」と。 

日本史が好きで幕末に興味があっても私的にはまだほとんど知らないことがいっぱい・・・だ。だいたい黒田藩は外様大名なのに幕末期に佐幕派がいたなんて・・・??だった。さらに驚くのはその時代の藩主黒田長薄(ながひろ)という人は薩摩藩の島津家から養子にいっており、あの開明派の薩摩藩主 島津斉彬と縁続きの人だというからますます一体どうなっているんだ??となってしまった。 そんな藩主が勤王派を弾圧してしまった・・・まあ家臣の中に勤王派嫌いがいたということかもしれないですが・・・・こうして筑前勤王党は壊滅し、人材を失なってしまった福岡藩は明治維新に乗り遅れて活躍できる素地すらなかった……ということらしいです。 次回に続く 

写真は箱崎の九州大学病院の近くにある崇福寺の門で、もともとは福岡城本丸にあった表門を移築したものだそうです。7年くらい前に大腸がんの手術を九州大学病院で受けた時に散歩がてら訪れて撮りました。ちょうど黒田官兵衛のNHKドラマ(岡田准一主演)があっていた頃で、その寺には官兵衛の墓があるようで観光バスも寄ったりしてちょっと脚光を浴びていました。お寺の門にしては武張ったところがあるな…と思っていたらそういうわけだったようで。

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九州のおもしろ歴史(福岡の風雲幕末の巻 2.)

2021年01月29日 | 歴史はロマン…九州の歴史を中心に

人ありて  (頭山 満と玄洋社)

 

博多に出てきて間もない頃(2001=平成13年1年)、いつもとっているY新聞に ”人ありて/ 頭山 満と玄洋社 ” という連載記事が始まった。福岡の歴史(幕末からの)を知るのにいい記事だと思ったので切り取ってスクラップした。学校で習う日本史には全く出てこない内容で私には全然馴染みがない事柄だった・・・初めのところに「 頭山を” 翁 ” と尊称する人と、その対極を意味する ” 右翼の巨頭 ” と呼ぶ人とがいる。明治10年代の初め、箱田六輔、平岡浩太郎、進藤喜平太らと立ち上げた政治結社 ” 玄洋社 ” が、太平洋戦争の敗戦後、連合国軍総司令部(GHQ)によって解散を命じられたことと無縁ではない 」・・・とある。 

なるほど、よく知らないままに ” 玄洋社 ” というのは右翼結社・・・とひとくくりにして漠然と思い込んでいる知識がやっとなのです。でも、この連載を読んでいくにつれ思い込みの概念がいかに間違った思い込みであるかを知ったのでした。まあ無知といってよい。玄洋社が明治10年代から昭和20年の敗戦までの長きにわたって続いたことだけでも驚きであった。 

そしてこの玄洋社を立ち上げた人達の原点には福岡の風雲幕末を彩ったさまざまの群像があった・・・と知る・・・福岡にも大した人物が存在していたのだ・・・続く

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九州のおもしろ歴史(福岡の風雲幕末の巻)

2021年01月26日 | 歴史はロマン…九州の歴史を中心に

福岡の幕末の不思議(1)

 

日本人にとって日本の歴史の中では戦国時代と幕末に関してが一番興味を持たれている・・・と何かの記事に書かれていた。例にもれず私も歴史はそこら辺に興味がある。博多に出てきてから20年以上になり、初めの頃からY新聞をとっていたので興味がありそうな記事は捨てずに切り取ってスクラップしてきた。 

今日は幕末・・・幕末といえば薩摩、長州、土佐、肥前が有名でなんですが、どうも偏っている感じが否めなくて知れば知るほどずっと疑問を持っていることが多くありました。 

今回は、九州の中心といえる福岡(博多)には黒田氏の福岡藩54万石がある、九州では3番目くらいの大きな大名なのにどうも幕末の時代に活躍した気配がないし、明治になっての西南戦争など一連の士族の反乱にも出てこないので一体どうしたことだろうと長年不思議に思っていた・・・ということについて。で その辺のところを新聞記事に絡めて自分なりに載せてみたいと思う 

写真は福岡城 祈念櫓

 

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新コロナウイルスのための休業

2020年04月24日 | 歴史はロマン…九州の歴史を中心に

 

見えない敵(新コロナウイルス)との 

新コロナウイル拡散防止に向けて日本中が万事に自粛モードになった。三蜜を避けることが一番・・・とのことで仕事で博多/鹿児島を行き来している私は5月の連休明けまでStay Home となった。急にパタッと仕事がなくなることの虚脱感、不安感を実感・・・日本中が不安と焦燥感が充満しているだろう。スポーツでは多くの若者の夢も奪っている。 

戦争よりも手強い敵がいた・・・戦争が絶えない世界、無節操に発展する経済、放縦に対する神様の戒めみたいな感じもしてくる。こんなものいらない・・・なんていうものが沢山あるしなあ。携帯電話一つとってもこんな機能必要なんだろうか、電話ができてメールとカメラ機能があれば十分じゃないの?…なんて思うことがしばしばだ、機能を使いきれないシニア層のひがみでもあるかな⁇(smile)  

というわけで、急にたくさん時間ができたので年来ためこんできた映画DVDを見たりCDを聴いたり、ホコリをかぶって積読状態になっていた本を読んだりすることにした。アコーディオンの練習もマメにできるようになった・・・嬉しいような淋しいような両方の気持ち。

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九州新幹線

2020年04月23日 | 歴史はロマン…九州の歴史を中心に

九州新幹線のお客がこんなに少ないなんて 

仕事で博多と鹿児島を週に1回行き来している。火曜日に鹿児島へ単身赴任、木曜日に博多帰る・・・の繰り返しでもう何年もこのスタイル・・・以前は週4日の仕事だったが働き方改革で3日に短縮した、なじみの患者さん達には申し訳ないけれどおかげで体力温存には役立っている。  

長く新幹線に乗っているけれど今日(4/23木曜日)の乗車状況はひどかった 博多への帰りの私の車両にたった6人、熊本からも数人しか乗ってこない状態だった。長い間新幹線を利用しているけれどこんなことは初めてだった。あまりにお客さんがいないとかえって不安になる。 

そして院長先生から2週間の自宅待機をするように指示があった・・・自分には何の症状もないけれど福岡でのコロナ増加ゆえに新コロナウイルスの蔓延を危惧してのせめてもの対策ということであったので了承。 鹿児島にもすこしずつ増えてきている状況だし新幹線の乗車状況をみても外出自粛がふつうになってきていることを実感するから

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亡くなったケニー・ロジャースのこと

2020年04月18日 | 歴史はロマン…九州の歴史を中心に

 

ケニー・ロジャースが亡くなった  

3/22(日曜日)の新聞に載っていました。私にとってのケニー・ロジャースDon Williams と同じようにレイドバックカントリー(lidback=くつろいだ、リラックスした)といった趣きのカントリー歌手でした。優しさやくつろいだ・・・といった意味では得難い歌手だったのは確かです。ただ、アルバムの中で通しで何曲も聴いているとちょっとダレてしまう つまりCountry musicでは時にはメリハリのあるシャキッとしたアップテンポの曲もないとlaidback だけでは何となく物足りない感じもするものです、この人の曲の出だしがみんな優しいんですね。ケニー・ロジャース自身カントリー・ミュージック一筋で通した人ではなくてけっこうバーサタイルな(versatile=多芸多才な)人なので行きつくところがカントリーだった・・・ということなんでしょうね。 やや枯れたハスキー気味の声は”アッ!ケニー・ロジャースだ” とすぐにわかります。 ドティ・ウェスト、ドリー・パートン他の女性歌手とのデュエットヒット曲もあります、1970年代~1980年代が全盛期だったと思います

は彼の曲の中では”Coward Of The County(弱虫トミー)”、”Lucille(ルシール)”の2曲くらいかなあ・・・アメリカではとても人気のあった歌手、きっと歌う曲の内容で勝負するタイプの歌手かもしれないと思っています。

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