幕末の風雲福岡 乙丑の獄 (いっちゅうのごく)
「頭山満と玄洋社」のY新聞記事が終了してから間もなくして連載記事が単行本になって発売された。連載記事とは違って系統的にまとめられたものになっていたので購入して改めて読んだ。補足内容もあってなかなか充実したものになっており満足。
その中にこんな一説があった「幕末の一時期、福岡は討幕運動の中心地の様相を呈していた。だが、1865年()黒田藩の勤王派は佐幕派の巻き返しで一網打尽の弾圧を受ける。勤王派リーダーの家老・加藤司書以下七人が切腹、14人が斬罪、16人が流罪となり野村望東尼は姫島に流された・・・・頭山ら玄洋社結成メンバーは乙丑の獄を十代で目撃したた・・・」と。
日本史が好きで幕末に興味があっても私的にはまだほとんど知らないことがいっぱい・・・だ。だいたい黒田藩は外様大名なのに幕末期に佐幕派がいたなんて・・・??だった。さらに驚くのはその時代の藩主黒田長薄(ながひろ)という人は薩摩藩の島津家から養子にいっており、あの開明派の薩摩藩主 島津斉彬と縁続きの人だというからますます一体どうなっているんだ??となってしまった。 そんな藩主が勤王派を弾圧してしまった・・・まあ家臣の中に勤王派嫌いがいたということかもしれないですが・・・・こうして筑前勤王党は壊滅し、人材を失なってしまった福岡藩は明治維新に乗り遅れて活躍できる素地すらなかった……ということらしいです。 次回に続く
写真は箱崎の九州大学病院の近くにある崇福寺の門で、もともとは福岡城本丸にあった表門を移築したものだそうです。7年くらい前に大腸がんの手術を九州大学病院で受けた時に散歩がてら訪れて撮りました。ちょうど黒田官兵衛のNHKドラマ(岡田准一主演)があっていた頃で、その寺には官兵衛の墓があるようで観光バスも寄ったりしてちょっと脚光を浴びていました。お寺の門にしては武張ったところがあるな…と思っていたらそういうわけだったようで。