西部劇と懐かしのカントリー&ウェスタン日記

現代とはかけ離れたOld Countryの世界ですがずっと続けていきます。興味のある方は時々のぞいてみて下さい。

日野てる子さんのCD

2013年06月30日 | お気に入りのCD
   日野てる子さんのCD

(1)夏の日の想い出 (2)真珠貝の歌 (3)カイマナ・ヒラ (4)アロハ・オエ (5)小さな竹の橋 (6)月の夜は (7)南国の夜

6月最後の日曜日の午後、近くの百円ショップと量販店Mr.Maxに色々買い物に行って目についたので思わず衝動買いしてしまったのがこのCDです。ひとつにはいまラップスティールギターを練習しているのでハワイアンの参考にしようと買ったのですが、懐かしさもありました、彼女は先般亡くなったこともあって。
7曲入って600円でしたが このへんのところが代表曲だから十分かなあ・・・・・ウ~ン久し振りに聴くといいなあ、大人の女性のムードです。特に(1) ”夏の日の想い出 ” と(7) ”南国の夜 ” は秀逸でウットリとしてしまいます、このようなムードのある音楽はどこへ行ってしまったのかなあ・・・・・
今年になってカントリーのジョージ・ジョーンズの初期CD集を買ったのに続いてやっと2枚目のCD・・・・・なかなか現代の新しくていいカントリーに行き当たらないとこっちの方がいいや・・・・となってしまいます。
Lap Steel Guitar の練習に・・・・・
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

初期の頃のレイ・プライス Part3

2013年06月30日 | 懐かしのカントリースター
  
Ray Price (5)
米国盤 Harmony Records HS-11240 Ray Price Born To Lose
(1)Ⅰ've Gotta Have My Baby Back (2)I'll Keep On Loving Ypou (3)Please Don't Leave Me (4)Till Death Do Us Part (5)Beyond The Last Mile (6)Born To Lose (7)The Answer To The Last Letter (8)Your Heart Is Too Crowded (9)Move On In And Stay (10)We Crossed Our Heart

前回からの続き(すこしづつ埋めていきます)・・・・・

「 実際にはバンド( Cherokee Cowboys の母体ともいえる ) は既に結成されて4年たっており、Blackie Crawford に率いられてBeaumont 周辺で活動していました。テキサスのスタジオでは A-Team( 一流バンド )として通っており レフティ・フリッツェルやジョージ・ジョーンズの初期レコーディングのバック演奏をつとめたりしたのでした。1954( 昭和29 )年の春までには The Cherokee Cowboys はフィドル、ギター奏者で歌手でもあった Tommy Hills に率いられて、レイ・プライスのバンドになるまでにはさらに2人のフィドル奏者( Kenneth " Little Red " Hays と Johnny Manson )、スティールギターには以前レフティ・フリッツェルのバンドにいた Jimmy Biggar 、ドラムに Jimmy Dennis 、ピアノに Milburn " Bernie " Annette そしてリズムギターの Van Howard がレイの脇でハーモニーボーカルをつとめる-といった構成になっていました。

1955(昭和30)年には新しく、より大規模になったこのバンドにスティールギターのJimmy Biggarに替わってDon Helmsが再加入し、Pete Wade とCedric Rainwaterも再加入しました。このLPで先に挙げた5曲以外の曲は(時にスタジオセッションマンが参加することがあっても)このバンドメンバーによるものです。
”I Can't Go HomeLike This”は1955(昭和30)年7月8日の素晴らしいナッシュヴィルセッションからのもので、たまたまColumbiaレコード社のNick SheffrinがCBSの保管庫で見つけたオリジナルセッション盤です、それには11人近くのミュージシャンが参加しており、The Cherokee Cowboys のほかにフィドラーのTommy Jackson、ベースのLightnin' Chance の名があり、驚いたことにブルーグラスのEarl Scruggs(有名なバンジョー奏者)が素晴らしいblusey soloを入れてくれているんです、珍しいことなのでこれまでは全盛時代のアール・スクラッグス本人とは特定されていませんでした。

”I Don't Want This On My Conscience ”は同じセッションからの曲でスクラッグスも歌っています。
”Slowly Dying ”(1955年10/23録音)は発売されなかった曲のひとつで、ハンク・ウィリアムスの Single-fiddle type のサウンドが聴かれるものです。 一方、
”You Never Will Be True ”(1955年10/23録音)はレイ・プライスの別なオリジナル曲です。

”Wasted Words”(1956年8月3日録音 )と
”Fallin', Fallin', Fallin' ” (同上)の2曲は3本のフィドル(カントリースタイルのバイオリン)が入った目いっぱいチェロキー・カウボーイズ サウンドを反映したもので、レイ・プライスを世界的に有名にするきっかけになったスタイルでした・・・・・即ち 当時 最も影響力が大きくて輝いていた二つの Country style・・・・・ Honky-tonk カントリーと Western Swing )を融合させたスタイルです。

最近になって(このアルバムが出された1986=昭和61年時点の話です)レイ・プライスはこれら初期の時代を振り返って次のように表明しています・・・・・” 私は自分の instrument(楽器=声)を使って何年にもわたってハードに働いてきました。 大多数の人は声というものを楽器とは思わないかも知れませんが そうではありません、私にとって声は楽器なのです。そして私は自分の技術に熟達したいがためにそれを完璧なものにするべく磨き上げようと努力してきました”・・・・と。

これ等の歌で聴かれる若いレイ・プライスの 実に見事な調和のとれた歌声と信じがたいほどの声域の広さが彼の云っていることを証明しています。
こうして、カントリーミュージックの黄金時代から今日まで水晶のように澄んだ歌声(crystal-pure singing)を 新しい聴衆に披露し続けているのです。 完 」

<私のひとこと>

トップの写真は私が持っている廉価盤 Harmony Records のひとつ、新旧の曲が雑多に入っています、聴いて一番驚いたのは ”Beyond The Last Mile ” というとても甘美なスローバラッドの曲。
最後の写真は日本盤のベスト物ですが、私の世代では買えなかった時代のもの。後年中古屋さんで見つけて痛みが激しかったけれどジャケットだけでも飾りに・・・と500円位で買いました、写真に撮るときれいです。

レイ・プライスはもう高齢ですから健康面が心配で 歌えなくなるのも近いかも知れない・・・・・と思って今回若い時代の彼に絞ったレコード解説を訳して載せました。先般、Old Country について現代のカントリー歌手 Blake Shelton とのちょっとしたやりとり確執がありましたが Old でもやはり偉大なカントリー歌手であることに変わりはありません、1年でも長く歌い続けて欲しいと願っています
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

初期の頃の レイ・プライス Part2

2013年06月27日 | 懐かしのカントリースター
Ray Price (2) 
米国盤 Harmony Records HS-11172 Ray Price  Collector's Choice

(1)If You're Ever Lonely Darling (2)I Saw My Castles Fall Today (3)Talk To Your Heart (4)I Know I'll Never Win Your Love Again (5)Don't Let The Stars Get In Your Eyes (6)That's What I Get For Loving You (7)Four Walls (8)Oh Yes Darling! (9)Sweet Little Miss Blue Eyes (10)Let Me Talk To You



前回の続き
「 ”Lost Highway ”( 盲目のカントリー歌手レオン・ペインの作品でハンク・ウィリアムスが歌った曲 ) と同じ趣きの ”Road Of No Return ”( 1952年2/14録音 ) はこの時期の曲で、ハンクのバンド The Drifting Cowbys すなわちフィドルの Jerry Rivers、スティールギターの Don Helms、ベースの Cedric Rainwater、リードギターの Sammy Puruitt というメンバーが伴奏をつけているものです。 この頃には The Drifting Cowboys 自体が有名になっており、何曲かは実際に ”Ray Price and the Drifting Cowboys ” として売り出されました。1952(昭和27)年の次の Columbia レコードのセッションの頃にはレイ・プライスが実質上バンドを引き継いでいて、ハンクが出られない時はハンクの穴埋めに出演するというのが当たり前のようになっていました。 友人のカール・スミスのペンになる ”Move On In And Stay ”も同じ週に録音されたもので 場所も Castle スタジオなら、ハンクが ”You Win Again ” を録音したのと同じバンドでもありました。不思議なことにそれは発売にはならなかったので今回このアルバムで初めて聴くことができるものです。


レイ・プライスが The Drifting Cowboys を引き継いだのは1953(昭和28)年1月のハンクの死の後である-とずっと語られてきましたが、実際は ハンクが Grand Ole Opry を解雇されてナッシュヴィルを去った1952(昭和27)年8月に正式に引き継いだのでした。 人的な変化ではリードギターの Sammy Pruitt がカール・スミスのバンドに移籍して替わりに Pete Wade が加わりました(彼は後年ナッシュヴィルの優秀なセッションマンとして知られるようになります)。 
このメンバーでのレイ・プライスの曲は以下の通りです。

Cold Shoulder (1953年2/2録音)
The Way You've Treated Me (1953年6/18録音)
Who Stole That Train? (同上)
Wrong Side Of Town (同上)
I'll Be There (1953年12/28録音)

”Cold Shoulder ” は有名な Acuff-Rose 社の重役の奥方 Helen Hudgins さん作ですし、 ”Who Stole That Train ” は ”Take These Chains From My Heart ”( これもハンク・ウィリアムスの歌で有名 )のような歌を Fred Rose と共作した Tin Pann Alley のベテラン作詞作曲家の Hy Heath のペンになるものです、 ”The Wrong Side Of Train ” は後年 ”Sweet Little Miss Blue Eyes ” をレイのために書いた Don Helms ( Drifting Cowboys のスティールギター奏者 )の作品です。 一方 レイの1956(昭和31)年の大ヒット曲である ”Crazy Arms ”よりも以前の大ヒット曲になった ” I'll Be There ” はアーネスト・タブのベテランリーダーだった Rusty Gabbard の作です。  また、”The Way You've Treated Me ”はまた別な驚きで、1953年録音セッションのうちの未発表曲でして 詳細は不明なんですが、恐らく Columbia レコード社の歌手に少なからず歌を提供していたナッシュヴィルの有名な広告マン Troy Martin を通じてレイに提供されたものと思われます。

1954(昭和29)年の中頃にレイ・プライスの一連のキャリアの中でもドラマチックな動きのひとつがありました、それは、彼が ハンク・ウィリアムスの honky-tonk スタイルに western swing の要素を加える決心をしたことでした。Don Helms が語るところによると、 ”レイは昔からずっと聴いてきたボブ・ウィルスやハンク・トンプソンの Western Swing をやりたいと思っていたんだね ” とのこと。 その結果 The Drifting Cowboys をファーリン・ハスキーに譲って 自らは新しいバンド The Cherokee Cowboys を結成したのでした。・・・・・次回に続く

<私のひとこと>

レイ・プライスのライナーノートを訳しながら書いている間に大好きなカントリー歌手だった Slim Whitman が6月19日に亡くなったことを知りました。 6月21日は母の命日だったこともあって、昔 母がアメリカ人の友人を訪ねた旅行でミネトンカ湖を訪れたことがあってスリム・ホイットマンが歌う ”ミネトンカの湖畔にて( By The Waters Of The Minnetonka ) ”を聴かせてあげた想い出とともに Slim Whitman のレコードを数枚聴いたのでした。スリム・ホイットマンについてはまた後日載せようと思います。

ところでトップの写真は私がアメリカから安い中古レコードを買っていた頃の Ray Price の名残りのものです、2008(平成20)年9月13日に記事を書いていたのに未発表にしたままにしています、今回ジャケット写真だけ載せましたが今回の記事と直接の関係はありません でも個人的にはインパクトがあって愛着があるレコードです
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

初期の頃のレイ・プライス Part 1

2013年06月17日 | 懐かしのカントリースター
 Ray Price (4)
米国盤 Rounder Records SS-22 Ray Price The Honky-Tonk Years 1951-1953
(1)Who Stole That Train? (2)The Way You've Treated Me (3)Slowly Dying (4)Move On In And Stay (5)The Wrong Side Of Town (6)The Road Of No Return (7)I Made A Mistake (8)I'll Be There (9)Tou Never Will Be True (10)Wasted Words (11)I Don't Want This On My Consciens (12)I Can't Go Home Like This (13)Cold Shoulder (14)Fallin', Fallin', Fallin'

レイ・プライスのLPレコードを500円で買いました、中古屋さんでしたが新品です。CDの時代で売れないんでしょうか。レイ・プライスの非常に初期の頃の曲集で荒削りですが純粋の Honky Tonk Style です。
ラウンダーレコード社がアメリカ Columbia Records の原盤を借りる形で出した Special Series ものです。 原盤を借りて出すという意味では後年のドイツの Bear Family Records 社あたりの先駆け、指針になったのではないでしょうか(?)。 Charles Wolfe という人が載っている1曲1曲の経緯まで書いたりしたかなりマニアックといえる詳しい解説がついています、レイ・プライスの初期の状況が解かりますので頭の体操のつもりで省略せずに3回に分けて訳して載せてみます(私なりの補足を少々入れました)。

「 レイ・プライスがダラス(テキサス州)を去ってグランド・オール・オープリーに加わるためにナッシュヴィル(テネシー州)にやってきたのは1952(昭和27)年1月でした。彼はほとんどハンク・ウィリアムスの被保護者みたいなものでした。ハンクの死後にハンクから学んだとか影響を受けたと主張する多くの歌手達と違って レイ・プライスは直にハンクサウンドを吸収した純粋の弟子でした。

ハンクがレイ・プライスに会ったのは1951(昭和26)年の秋です、ハンクは高く澄み切ったレイのテナーボイスを聴いて気に入り、自分の演奏ツアーに参加するように招待したのでした。数ヶ月間 演奏経験の機会を与え、出演、契約、さらには ”Weary Blues From Waiting ” のようないい歌さえ提供してやり、オープリーの支配人 Jim Denny が渋るのを説得してオープリーでの自分の出演ワクにレギュラーとして迎え入れたのでした。さらには短期間ではありましたが二人は宿舎を共にしたことさえあるのです。

1952(昭和27)年暮れになってハンクの個人的問題(オードリーとの不和に起因する諸問題か?)が悪化するにつれて ハンクが出られない時の代役を務めてバンドの前に立って歌うのはレイ・プライスだったのです。 聴衆の心を捕らえたレイの最初のレコードがハンク譲りのクラシックホンキートンクスタイルであって、レイ自身がさらに磨きをかけて作り上げた classic country music あったことは疑う余地のない事実です。

The Ray Price スタイルはさかのぼること1948(昭和23)年に始まっており、まだ彼が北テキサス州立農業大学で獣医学を学ぶ学生だった時代に、余暇にバンドを組んでアビリーンの KRBC 局の ”Hillbilly Circus ”という番組で歌い始めた頃になります。すぐにダラスに移ったのですが、そこは1940年代当時はナッシュヴィルよりもレコード産業の中心地だったところです。レイは Ross Avenue にある Jim Beck のスタジオに出入りするようになったのですが、そこは伝説ともなっているスタジオで、マーティ・ロビンスやレフティ・フリッツェル、シド・キング等の有名歌手を輩出したところでもありました。
Jim Beck や彼の作曲家達のためにデモレコードを作ったりすると同時に、新しいもの、タフな内容のもの、誠実な内容のもの、現実的なものといった " honky-tonk " と呼ばれるようになった歌の数々を直に学ぶ機会も得たのでした。

不成功に終わった Bullet レコードからのデビューと ” Big D Jamboree ”への出演のあとレイ・プライスは1951(昭和26)年3月に Columbia レコード社と契約を交わしました。 Columbia レコード社の契約書には”Sings and plays guitar ” と書かれていましたが、やがて驚異的なヒット曲を出すことになるにしては控えめな表現です。

ダラスからナッシュヴィルに移った1951(昭和26)年終わりまでにレイは4枚のレコードを出しました、いづれも Jim Beck のスタジオで録音されたもので、Shorty Long の ”I Made a Mistake(And I'm Sorry )” を歌ったバージョンが含まれています。バックの演奏陣は Beck スタジオのミュージシャンで 有名な2人のフィドラー(カントリースタイルのバイオリン)Georgia Slim とGeorge Custer 、ギターには Buddy Griffin、リードギターには Lefty Frizzell のセッションで光彩をはなった Jimmy Rollin がつとめたのでした。  どれもヒットするには至らなかったのですが、レイ・プライスは Columbia レコードでの次のレコーディングセッションが組まれるまでナッシュヴィルでハンク・ウィリアムスの許に居候することになったのでした。」・・・・・・以下次回に続く


<私のひとこと>
ジャケット写真が1940~50年代を思わせますし、どことなくハンク・ウィリアムス的雰囲気がありますね。
以前「レイ・プライス ハンク・ウィリアムスを歌う」というLPレコードについても載せていますので参考に見て下さいね
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする