西部劇と懐かしのカントリー&ウェスタン日記

現代とはかけ離れたOld Countryの世界ですがずっと続けていきます。興味のある方は時々のぞいてみて下さい。

久留米城と高山彦九郎の跡を訪ねて

2019年04月28日 | ブルーグラス音楽
久留米城と高山彦九郎の跡を訪ねて
平成から令和へのゴールデンウィークの4/28日曜日 に久留米に行った。JR大野城駅から久留米まで快速電車、久留米駅でレンタサイクルを借りて先づは久留米城跡へ。天気は薄晴れで連休といってもここは人が少なくてゆったりとした気分になれるところだ。 
 
有馬氏21万石の久留米城は石垣しか残っていないけれどそれがかえって古城の雰囲気があっていい。すぐ近くにはブリジストンの工場や久留米大学医学部と附属病院が建っているが、昔はそこも城郭の一部であったらしく規模的には大きな城であったようだ。今は主郭しか残されていない。堅牢な石垣が風格がある。 
 
城内には大きな篠山神社のほかたくさんの記念石碑が建っており竹の笹がきれいだった。その中に小さな石の祠があって小早川神社と表札が建っていた。有馬氏以前の豊臣秀吉時代に久留米城主だった毛利秀包(ひでかね)を祭ったちっちゃな神社(写真、smile)・・・この人は戦国時代の大名 毛利元就の末っ子だったとのこと、関ヶ原の戦いで西軍に属したため領地を没収され不遇のうちに亡くなったとか。キリシタン大名だったらしくて、この祠の扉にアンドレアス十字なる印が刻まれているとか・・・ウーン知らないことがたくさんだ。 
 
城内には日露戦争の日本海海戦で連合艦隊の指揮を執った東郷平八郎()の寓居した小さな家がありました・・・なぜ久留米城に?と思いましたが何か説明板があったけど写真に撮るのを忘れた。砲弾の石碑が建っていました。他にも芭蕉の句碑とかもあった。 
駅で借りた自転車と久留米城の高石垣、4時間で300円・・・これだと久留米市内を動き回るのには十分役目を果たしてくれます(smile) 


久留米城をあとに、寺町を目指す。名前の通りお寺が集まった区域で閑静な通りの両脇に古くからのお寺がたくさんあり、各寺の表門脇には由来の説明板が立っており 久留米の歴史的人物のお墓がここにある・・・とか書いてあるんですね。今回の目的の一つ高山彦九郎のお墓も遍照院というお寺にありました。先づは彦九郎の胸像があって右手奥に日の丸旗が掲げてある向こうに墓があります。
 
 
作家吉村昭さんの「歴史の影絵」という文庫本に収められていた ” 反権論者 高山彦九郎 ” を読んで興味をもち、久留米で自刃した・・・と知って一度訪ねてみたいと思っていたのでした。高山彦九郎は幕末の勤皇の志士達に思想的な影響を与えたといわれる人物です。
ところで、駅で自転車を借りる時に受付の女性から目的を尋ねられ、” 久留米城跡と高山彦九郎のお墓を見にきました ”・・・と言ったところ ” えっ、研究か何かされているんですか? ” といわれたので ” いえ、ちょっと日本の歴史が好きで たまたま高山彦九郎についての本を見たもんですから興味をそそられてです ” と答えた。久留米をそういう形で訪ねてくる人が珍しいのかなぁ・・・と感じました。その女性が ” お墓を訪ねるんだったら彦九郎が自刃した場所が近くにありますからそこまで訪ねられたらいいですよ ”・・・と地図や説明書きをくださったのでしたが、何となくその受付嬢は嬉しそうでした。 
 
 
上の写真が実際に彼が自刃した場所で、友人の久留米藩儒者 森嘉膳の自宅があったところだそうです。戦前は勤皇家として教科書などにも採りあげられて日本人の誰れもが知っていた高山彦九郎だったようですが、戦後は見向きもされない存在になったきらいがある人物ですね。彦九郎の思惑とは関係なく戦前の皇国史観に利用されただけ・・・という思いがしますが、それ以前の幕末の尊王攘夷派の志士達の多くが往来の途中で立ち寄って彦九郎の墓に詣でたという事実を知れば ” 志士達の先駆け ” として早すぎた鏡だったのかもしれません。 
日本の幕末史の興味深い人物ではあります・・・・ちなみに、吉村昭さんには「彦九郎 山河」なる単行本があるようで読んでみたくなりました。
 
 
  
この自転車にはお世話になったなあ、快適に走ってくれました(smile)。 
なお、以前に日本の歴史のカテゴリーで吉村昭さんの高山彦九郎の記事を載せていますので参考にしてください
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