風音土香

21世紀初頭、地球の片隅の
ありをりはべり いまそかり

2023-10-01 | 音楽
三線を手にし始めた頃
耳に残っていた八重山民謡の工工四楽譜を買い
それを見ながら唄三線を練習してみていた。
唄も、三線も、正直言って超高難易というわけじゃない。
なんとなく、なんちゃってで歌ったり、三線を合わせたりはできる。
でもね、何かが違う、どこかが違うのだ。
沖縄本島の人たちは「八重山言葉の発音が難しいでしょ?」というが
東北弁とどこか似ていて、それが苦というわけじゃない。
唄はちゃんとメロディー追ってるし、三線も工工四通りだ。
それでも耳に聞こえてくるのは
CDなどで聴く八重山民謡とは似て非なる、いや全然違うもの。
何度も名人たちの唄三線を聴いているうちに
だんだん理解できるようになってきた。
唄だけでも微妙な間があるし、三線も絶妙なタメがある。
そして何よりも、唄の旋律と三線の音のほんのわずかなズレが
その曲そのものを形作っていると言っても過言ではない。
こりゃ無理だ。
師匠から「楽譜見ちゃダメ」「三線はあとから。まずは唄が大事」
という言葉がその時点でなんとなく理解できた。
その「間」こそが八重山の、沖縄の音楽の真髄なんだろう。
それを身につけないと唄三線にはならない。

先日、とある日本のベテランソウルシンガーのトークをTVで見た。
何十年もやってきて、ようやくソウルがわかるようになってきたとのこと。
披露された歌も、さすがは憧れのボーカル。
ただ、洋楽のカバーをソウルフルに歌った歌はちょっと引っ掛かった。
あれ?それでいいんだっけ?
なんか、ダシが効いていない料理を塩や砂糖の味付けで食べてる感覚。
確かに雰囲気はあるんだけど、どこか表面的だ。
深みはどこからくるのか。
もしかすると「間」というやつかも知れない。


「間」はタメを作ったり、殊更感情を込めるだけじゃない。
このビリー・プレストンのようにサラリと歌っていても
真似のできない「間」というか、味が滲み出る。

例えば、忌野清志郎さんの曲を
清志郎さんのように歌いこなすことは難しい。
それはあの人独特の「間」が誰にも真似できないからだろう。
考えてみたらこれは音楽だけの話じゃないよね。
例えば自分の仕事の周辺を例にあげると
デザインや写真、文章にも同じことがいえるだろう。
技巧に走り、目一杯詰め込むのではなく
いかに空間やスペースを活かし、「間」を作るか。
それが深みや味につながるんだなぁ。
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