風音土香

21世紀初頭、地球の片隅の
ありをりはべり いまそかり

豊沢の歴史

2021-10-02 | 風屋日記
私の祖父は(これまでも何度か書いてきたが)山口県出身。
明治8年に生まれ、10代で上京し法律を学んだ後、
陸軍で近衛兵を務めてから盛岡駐屯地に配属となったとのこと。
その頃祖母と結婚したらしい。
もしかしたら日露戦争に従軍していたかと思ったが
明治期の陸軍の軍籍を調べるのは至難の技で
いまだに詳細はわかっていない。
ただ、近衛兵時代に知り合った財閥からの声がけで
長男(私の伯父)が生まれた明治36年ごろには
除隊して秋田の花岡鉱山の経営に携わっていたようなので
明治37年の日露戦争には行っていないのかもしれない。

そして、その後祖父は明治の終わり頃に
今度は花巻の奥、いま豊沢ダム湖底に沈んだ豊沢集落に入り
近くの鉱山管理の仕事をしたらしい。
当時そのあたりに硫黄を産出する鶯沢鉱山があったようだが
豊沢集落の思い出の記には「桂沢金山」と書いてある。
はたしてどちらが本当なのか。
鶯沢鉱山の記録はいくつかあるものの
「桂沢金山」のことが書かれた記録は見当たらない。
鶯沢鉱山は、そこで産出した硫黄を運ぶために
鉛から大沢まで鉄道馬車を走らせ、
それがのちに花巻電鉄の電車の線路の元になった由。

鉱山の仕事をしながら、豊沢の方々に炭焼きを教え
鉱山を辞めた後(大正7〜8年ごろ)には
その炭を首都圏に出荷すべく花巻のまちに出てきたようだ。
大正3年生まれの伯父や大正12年生まれの父は
花巻のまちで子どもの頃を過ごしたとのこと。
住んだのは現在の万福跡地内(当時は三浦医院敷地内の貸家)から
鍛治町(現在のデンノさんの裏あたり)に移り、
大工町(現在の双葉町=文化タクシー付近)に住んでいたときに
昭和20年8月10日の空襲で焼け出された。

さて本題に戻る。
豊沢集落が豊沢ダムに沈んだのち、豊沢ダム40周年を記念し
旧豊沢の方々が「豊潤」という思い出の記を制作した。
そこに祖父が桂沢金山にいたこと、炭焼きを教えたことなどが
当時を知る人によって記されている。
それまで自給自足に近い生活を行っていた人たちが
炭焼きによって現金収入を得るに至った事業だったのだろう。
彼の地出身の方々は、今も定期的に豊沢会と称した
花巻市内あちこちに散らばっている子孫の方々の集まりがある。
以前アトラクションに神楽で呼ばれたときに
祖父の話をしたら、周囲にいた何人かが集まってきて
親やそのまた親から聞いた話をしてくれた。
そんな豊沢の歴史の中に、祖父がいることが誇らしかった。

ということで、
現在調べたいのは明治期の陸軍の軍籍と桂沢金山のこと。
もちろん縁遠くなってしまった山口県の本家へも
機会があったら訪ねて行ってみたいと思ったりしている。
確か宇部市だったような記憶がある。
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4 コメント

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湖底をしのぶ 豊沢平和卿 (佐々木伸行)
2021-10-03 21:07:42
豊沢の人たちが残したのは、タイトルに記したものです。「豊潤」は水利組合の発行です。

炭焼き技術を教えて頂いたことは、素晴らしい地域振興になったと思います。穏やかな平和卿で有れたのは安定した収入手段を持てたからだと思っています。

秀平街道周辺の伝説に金と炭焼きの伝説が有ります。金売り吉次と炭焼きのことも有りました。
金属の精錬と木炭は切っても切れない関係が有ります。たたら製鉄と木炭、司馬遼太郎(タイトルは失念)は製鉄と日本の森の再生力の関係を書いています。

おそらく、金山は止めざるを得ない事情(含有量など?)、木炭需要はなく成りその活用として(あるいは責任を感じて・?)薪炭業を始められたのでは・・と思たりします。 北山郁子さん(だったと思います)と東京の花巻人会でお会いして、関東大震災で東京の木炭在庫が焼けてしまった・・などと当時のことをお聞きしました。

また、木炭輸送のおかげで馬車、馬橇が通れる道、低い位置(崖沿い)の路が出来たのではないかと思っています、木炭生産前は薪を町まで川に流して運んだと記しています。豊沢からの中山街道は崖際は通って居ません、峡谷部の道は上部のなだらかな部分に道が通っています。
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>佐々木さま (風屋)
2021-10-04 10:17:53
ご指摘ありがとうございます。
図書館でいくつかの本を調べましたので
混同してしまったのかと思います。
花巻電鉄の鉛〜大沢間は
鶯沢鉱山の硫黄を運ぶために敷設された
鉄道馬車の軌道を利用したと聞きました。
当時は金山より
鶯沢鉱山の方が盛んだったのだと思われます。
返信する
硫黄のこと (佐々木伸行)
2021-10-04 13:48:51
鉛線の執着駅、西鉛温泉のホームには成形された硫黄が野積みされていました。鉱山は豊沢とは離れており人の交流も無かったと思います。鉛に近い崖下に一本の黄土色に濁った小さな沢が流れ込んでいました。
沢の名が鶯沢で、汚濁は硫黄生産の排水でしょう。(豊沢川の鉛までに、汚濁水はその沢だけでした)

また、硫黄の生産と木炭は関係ないと思います、高温状態を必要とし木炭の大量消費の金属生産に比べズット低温で流動化し成形できる硫黄、薪で十分だと思います。
他方金属鉱業のは多量の木炭が必要(現地調達)で
住民に生産の手段を教えて、買い上げる事にしたと推察しております。(閉山の後も住民が収得した技術を生かして暮らせるように薪炭業をされたのでは?)
大気汚染防止のための石油脱硫開始により日本の硫黄生産は消えたと認識しています。

住んで居た頃、金山はもう無かったのですが、硫黄はまだ生産していました。業軌道馬車の必要性は単なる、製品のボリュームによるものと思います。後には木炭も貨車で輸送していました。
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>佐々木さま (風屋)
2021-10-05 10:07:16
ありがとうございます。
硫黄生産は、当時の時代により
軍需目的もきっとあったのでしょうね。
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