先日書いたように
「普通」とか「正義」とかいう言葉は信用しない。
差別や区別、分断、争いは大抵この2つの概念から生まれる。
それらは嫌いな言葉というよりも信じていない言葉。
最近よく使われている言葉で嫌いなのは
「コスパ」と「タイパ」。
コストパフォーマンスとタイムパフォーマンスとのこと。
「無駄を排除」し「効率を追い求める」考え方だ。
確かに事業など、ある分野では必要なことだとは思う。
コストに響いてくるしね。
でもそれが生き方や行動全般の規範の元になるのは
正直どうなんだろうと思うんだ。
生まれてからこれまで60年以上生きてきて
「無駄なことな何もない」「無駄の中にこそ大事なことがある」
そして「どんなことでも後で必ず生きてくる」を
つくづく実感しているから。
無駄なく一直線に生きるということはありえないし
仮にできたとしても応用が効かずとても弱いものになる。
窮地に陥った時、過去の「無駄な経験」が活きてくる。
無駄な経験がないと、
何かの拍子に1本道から外れるともうやり直しが効かない。
仕事1本で会社人間だった人が定年退職した途端に
生きる意味を見失ったりするのもそれだろう。
私は高校時代、もの書きになりたかった。
文章修行するつもりで大学では文学部を選んだのだが
そこで自分の無能さを思い知らされて断念した。
その後TV局でのAD経験からメディアを作ることに夢を抱いたが
それも叶うことなく、紆余曲折の末に
そういう世界とは全く違う世界の会社に、食べるために入った。
(実はその時点で、もうそれまでの経験が活きていた)
その後、多少はメディアに近い会社に転職し
これまた若い頃に目指した分野とは違う部署を長く経験し、
徐々に書き仕事やメディアに触れる部署に移った。
25年の勤務を経て独立。
気付いたら、いま書き仕事やメディアを作る仕事をしている。
大学を卒業してからの40年は回り道や寄り道だらけだったけど、
気付いたら高校・大学時代に目指した世界にいる不思議。
これは回り道や、より「無駄なこと」をしてきたからの相違ない。
若い頃は「一直線に夢へ」と焦っていたけれど
「人生の時間はたっぷりある。焦ることはないよ」と
当時の自分に言ってあげたい。