吉澤兄一のブログ

お江戸のど真ん中、平河町から、市井のトピックスを日記風につづりたいと思います。

権力体制への距離が基準かー小沢さんの政治(家)像?

2007年11月04日 | Weblog
 そのときそのときの権力体制に首を突っ込む小沢政治が解らない。若くして赤絨毯を踏むことになった二世議員のハシリだ。腕力政治の祖、田中角栄(当時、自民党幹事長)に見初められ、以来つねに権力体制側を歩んだ(田中派、創政会、経世会)。

 初当選(27歳)から20年後、竹下内閣を継いだ海部内閣では実力NO.1の党幹事長を務め、そしてまもなく”海部おろし”役をした。カリスマ性や剛腕性をリーダーシップと騒ぐ世界の頂点にいて、総理総裁選びの総裁3候補(宮沢、渡辺,三塚氏)を事務所に呼んで面談したりした。

 バブルがはじけた1992~3年後に再び権力体制を奪取した経世会は、小渕、橋本首相と繋いだ。七奉行で彼が守旧派という体制側から外れた小沢氏は、改革フォーラム21(羽田派)を立ち上げ、その後の新生党から日本新党へのリーダーシップをとった。新党さきがけや新生党などにより保守自民がゆるぎ、宮沢内閣の総辞職から細川8党派連立内閣を経て羽田少数与党内閣などが生まれた。この一連の合従連衡に深く関わったのが小沢さんだ。この改革やリベラルを装ったカリスマ性や院政政治が、田中さんに学習したのか金丸さんに学習したのかは解らない。

 1996年自らが率いた(幹事長)新進党が敗北すると1998年、自由党を立ち上げ、”自・自連立内閣”(小渕首相)などを画策し、そして離脱した。創っては壊し、首を突っ込んでは足蹴りしたりの”壊し屋小沢”との批判を無視する剛腕で、2002年鳩山由紀夫率いる民主党と小沢自由党は合併した。与党自民党も壊し屋小泉総理から、若い保守体制派の安倍首相になり躓いた。

 その後、若い寄り合い所帯民主党の代表になった小沢さん、まだしたたかに体制権力に執着していたようだ。むかし二大政党化のための小選挙区比例代表制を提示、成立させたころの小沢さんに喝采したが、このごろの彼には疑心だ。先の参議院選挙の結果の受け止め方に”口先とホンネ”のズレを垣間見るからだ。

 もともとの給油特措法は時限立法だったのだから、アメリカとの安保体制や信頼がどうの、国際関係がどうの、国連決議やISAFならどうのの問題ではない。時限法の期限が切れて、継続やこれに変わる新法が成立できないと”政治が止まる”ことになるのか。評価も検証もせずなし崩しに動くことが政治なのか、よく考えたらいい。アフガンやイラクのような情況や問題にどう対処していくのか与野党でじっくり検討、討議、協議をしてほしい。

 どう政策実現するか、どう政治を打開するかと言って、二大与野党の党首二人で密談すれば、疑心暗鬼。新体制などと野合の大連立など、話してはいないと言えば言うほど世間が騒ぐ。小沢さんの政治姿勢が少しづつ解ってきたような気がする。

 朝、このブログを記述発信して外出、午後帰宅。小沢民主党代表が代表を辞任するとのニュースに接した。追記する。(そして丸2日後、辞職撤回だ。)
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