最近よく聞く地方分権や地方自治だが、現実は中央集権というか国の行政や政治へのチカラの重みが増しているような気がする。大阪の橋本知事や宮崎の東国原知事などの発言などの多くは、国や霞ヶ関に対する抵抗のように映るが、それだけ霞ヶ関や中央省庁への権力が集中しているという印象をつよくしている。
地方自治や地方分権および三位一体改革の財源、権限の地方への移行など、謳われ叫ばれた割に”どうなっている?”の印象だ。グローバル化という動きや地球市民、地球村民という国を越えそうな概念の進行との板ばさみにあって、いつまでも”チカラ”がつづく霞ヶ関の感なのだ。
ささやかに、あてがわれる地方交付税や交付金や国庫支出金を頼りにしている最近の地方自治体は、どこもかしこも”まちづくり”や地域活性化という作業に傾注している。地産地消をテコにする地方やコミュニティを再生させようとする都会のまちなど、何やら地方自治とは何かの模索をしている姿がイタイタしい。
戦後の復興期や高度成長期に整備された地域の道路や上下水道や建物などのインフラは、揃ってどこもかしこも痛んで、修理などもままならない。崩壊寸前なのだ。修理の予算も設定できないのだから、再構築などトンデモナイのだ。膨大な予算の検討を回避する地方自治体は、ささやかな予算で”何かやっている”演出をと、揃って自治力アップや地域コミュニティづくりなどをプロジェクト化している。
自治力アップなどという意味不明の和洋合成語を使って、共同体や住民協業のまちづくりをするのだと、推進協議会をつくったりパブリックコメント(最近の自治体用語)を求めたりしている。地方行政とは何かをスルーし、地域社会を構成するいろいろな人々が、協業することや相互に協力する仕組みが自治力をアップさせるといっている。何を言っているのかわからない。
地方自治体や地方の地域が元気になることを切に望んでいるが、何だかわからない自治体推進の参加と協業のまちづくりに乗ろうという気にはなれない。
地方自治や地方分権および三位一体改革の財源、権限の地方への移行など、謳われ叫ばれた割に”どうなっている?”の印象だ。グローバル化という動きや地球市民、地球村民という国を越えそうな概念の進行との板ばさみにあって、いつまでも”チカラ”がつづく霞ヶ関の感なのだ。
ささやかに、あてがわれる地方交付税や交付金や国庫支出金を頼りにしている最近の地方自治体は、どこもかしこも”まちづくり”や地域活性化という作業に傾注している。地産地消をテコにする地方やコミュニティを再生させようとする都会のまちなど、何やら地方自治とは何かの模索をしている姿がイタイタしい。
戦後の復興期や高度成長期に整備された地域の道路や上下水道や建物などのインフラは、揃ってどこもかしこも痛んで、修理などもままならない。崩壊寸前なのだ。修理の予算も設定できないのだから、再構築などトンデモナイのだ。膨大な予算の検討を回避する地方自治体は、ささやかな予算で”何かやっている”演出をと、揃って自治力アップや地域コミュニティづくりなどをプロジェクト化している。
自治力アップなどという意味不明の和洋合成語を使って、共同体や住民協業のまちづくりをするのだと、推進協議会をつくったりパブリックコメント(最近の自治体用語)を求めたりしている。地方行政とは何かをスルーし、地域社会を構成するいろいろな人々が、協業することや相互に協力する仕組みが自治力をアップさせるといっている。何を言っているのかわからない。
地方自治体や地方の地域が元気になることを切に望んでいるが、何だかわからない自治体推進の参加と協業のまちづくりに乗ろうという気にはなれない。