シャツのほころび涙のかけら

昔よく聞いたNSPのタイトルを拝借。…趣味や日常を綴っています。基本はガンバレ自分!時々覗いてみてください。

上野の『東叡山 寛永寺』など

2021-04-03 | お出かけ

3月20日(土)、前回の『上野の森美術館』で『VOCA展2021』を見た後、未だ行ったことのない寛永寺に行くことにした。・・・というのも、寛永寺の名前は知っているし、時代小説を読んでいればよく目にする名称。戊辰戦争(上野戦争)では境内地に彰義隊がたてこもって戦場と化し、火事で伽藍の大部分が灰燼に帰したことも知ってる。でも、上野公園には何度か行ったことがあるけど寛永寺は見たことがない。どこにあるんだろう?探して行ってみよう!と思ったわけだ。

マップで確認すると、少し離れた所にある。途中には見所があるので立ち寄りながら&密避けながら(桜がまだ咲く前だし、曇天だったので、まだ人出は少なかったと思われるが、所々では密発生していた)。

清水観音堂』は天海大僧正が清水寺に倣って、寛永寺の観音堂として建立したもので、さらに比叡山から見る琵琶湖と竹生島の宝厳寺を、東叡山・清水観音堂から見る不忍池に不忍池辯天堂(べんてんどう)を建立するという模倣もしたとされる。
歌川広重「名所江戸百景」に描かれている『月の松』は、松の枝を丸くして月をかたどったもので、当時大変評判だった松だったが、明治初期の台風の被害で無くなった。それを、2012年に150年ぶりに復元した。
清水観音堂の舞台からは「月の松」の月の中に不忍池辯天堂が見える。(前回同様、スマホで撮影)


東叡山寛永寺を開山した後、境内には多くの伽藍や子院が建立された。その一つが1627年(寛永4年)に創建した神社「東照社」で、1646年(正保3年)に朝廷より正式に宮号を授けられ「東照宮」となった。
現存する社殿は1651年(慶安4年)に三代将軍・徳川家光公が造営替えをしたもので、遠く日光までお参りに行くことができない江戸の人々のために日光東照宮に準じた豪華な社殿を建立したと言う。
中には入らなかったので、唐門(1651年造営、国指定重要文化財)の外観のみ記録。参拝する方たちが並んでいた。

この造営替えに際し約250基の灯籠が全国の大名から奉納されたそうだ。
そういえば、2年前に日光東照宮~二荒山神社~大猷院を巡った時にも、灯篭をたくさん見たが、ここでも多数の灯篭が並んでいた。

なお、ここの東照宮は幕末の上野戦争(戊辰戦争)でも、関東大震災でも、第二次世界大戦でも消失や倒壊は免れた。何という強運な神社なのだろう。あやかりたい。

人出が増えてきたので、そそくさと寛永寺に向かう。マップで確認すると、寛永寺根本中堂はそこそこ離れた場所にある。大噴水のある広場を突っ切り、東京国立博物館との間の車道を西側に行って東京芸術大学からは北に向かって行く。その辺りからは、歩いている人がほぼいない・・・。

東叡山(とうえいざん)・寛永寺
寛永2(1625)年に、江戸城の鬼門(東北)にあたる上野の台地に建立された。江戸時代には格式と規模において我が国随一の大寺院となり、寛永寺の境内地は、最盛期には現在の上野公園を中心に約305,000坪に及び、さらにその他に大名並みの約12,000石の寺領を有していた。現在の上野公園の噴水広場にあたる竹の台には、間口45m、奥行42m、高さ32mという壮大な根本中堂が建立され、本寺(現東京国立博物館)には、小堀遠州による名園が作庭された。

しかし幕末の上野戦争により、全山の伽藍の大部分が灰燼に帰した。さらに明治政府によって境内地は没収されるなど、寛永寺は壊滅的な打撃を受けた。
その後、明治12年(1879)、ようやく寛永寺の復興が認められ、現在地(旧子院大慈院跡)に川越喜多院より本地堂を移築、山内本地堂の用材も加えて、根本中堂として再建された。現在の境内地は約30,000坪、盛期の十分の一になった。
寛永寺の歴史は激動だ。その中で、東照宮がそのままというのは、やはり奇跡かも。

寛永寺の根本中堂。境内には我々ともう1組。

境内に大きな鬼瓦があった。根本中堂の屋根にあったもので、高さ248cm。

 

上野駅方面に戻る途中、道路の角に小ぶりだけど歴史のありそうな建物があった。プレートを見ると『博物館動物園駅跡 京成電鉄株式会社』とある。調べてみると、同駅は1933年(昭和8年)に開業し、1997年(平成9年)に休止になり、その後廃止になったという。平成までやっていたことに驚く。それなら、続けても良いのでは?とも思う。

 

そこから道路沿いに歩いていると立派な門があった。『旧因州池田屋敷表門』との表示。鳥取藩池田家の移築された表門で、加賀藩前田家の「東大の赤門」に対し「上野の黒門」と呼ばれているそうだ。


一休みするところを探しながら進むが、広場のスタバも反対側のカフェも並んでいるのでパスし、上野駅公園口近くまで行ったら、公園の事務所の1階にカフェがあり、店内もテラス席も空いていたので、テラス席で紅茶。
その後、電車で帰った。

 

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2 コメント

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寛永寺 (地理佐渡..)
2021-04-06 06:27:37
おはようございます。

冒頭書かれているとおりでした。当方も。
歴史、特に幕末維新史を学ぶと上野戦争
など出てきますものねぇ。それがどこに
あるか?上野は行っていてもこの寛永寺
には行ったことが無い。当方もそんな一
人です。
今回の紹介で少なくともこんなところな
のだと言うことがわかりました。かなり
立派ですね。
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地理佐渡さん こんばんは (KAEDE)
2021-04-08 22:27:54
やはりそうですよね~。寛永寺には行かないですよね。飛び地のように離れています。
被災せずに、昔のままの伽藍が残っていたら・・・と想像します。見てみたいですね~。
それにしても、境内地の一番奥に、しかも間には道路や住宅に公園もあり、ちょっと残念な気はします。
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