シャツのほころび涙のかけら

昔よく聞いたNSPのタイトルを拝借。…趣味や日常を綴っています。基本はガンバレ自分!時々覗いてみてください。

長崎市:長期復元整備中の「出島」~治水と共に「眼鏡橋」

2024-06-22 | お出かけ

〔一泊二日 長崎市の旅。旅行記&備忘録つづき〕
二日目の5月25日(土)、新地中華街でのランチ後は、出島へと歩いてゆく。

鎖国時代、日本と西欧を結ぶ唯一の窓口であった出島は、交流拠点として日本の近代化に大きな役割を果たした。しかし、幕末に日本が開国すると出島の役割は終焉を迎え、明治期からは周辺の埋め立てが進み、海に浮かぶ扇形の原形が失われた。
1951(昭和26)から出島の復元整備事業に着手。最終的には四方に水面のある19世紀初頭の扇形へと完全復元を目指し復元整備が進められている。

現在、川に架けられた出島表門橋(2017(平成29)年架橋)を渡って、復元された表門から出入りする。


前日のバスガイドさんが言うには、新しい橋は趣きのある当時の石橋のイメージを期待していたようで、鉄骨の橋がクレーンで架けれた時は少しガッカリしたそうだ。でも、現代の技術の活かし、出島側の石積みに負荷がかからないよう、そのままなら片持ちで維持できる構造らしいのでエライものだ。

正面向かって右側が復元ゾーン、左側が交流ゾーンで明治期の洋館も活用している。


現存する江戸や明治の石積みを守りながら、景観に調和した護岸整備が行われた。


出島の中には、1820年頃の出島を15分の1サイズで表現した「ミニ出島」がある。200年以上の歴史がある出島のひと時。


当時の出島で最も大きい建物は「カピタン部屋」で、オランダ商館長(カピタン)の事務所兼住居。2階の広間では阿蘭陀冬至(クリスマス)の宴の席などが再現されていた。


裏には「乙名(おとな)部屋」という、日本側の貿易事務や管理を担当していた出島乙名が拠点とした建物。乙名は出島の町長さん的な役人。ここだけは日本的。


出島の東西を繋ぐ通り。復元ゾーンから交流ゾーンを見る。


旧長崎内外クラブ」は、1903年に長崎に在留する外国人と日本人の親交の場として建てられた。1Fはレストラン。訪問時は貸し切りで利用できないと入口で案内があった。


↑画は通り沿いではなく旧出島神学校との間の広場から撮影した。
その近くに「デジマノキ(コパールノキ)」という大木があった。オランダ人が幕末にジャカルタから移植したもので、日蘭交流の貴重な記念樹となっている。
取り上げ所満載の出島だが、この辺にしておこう。
今後の復元状況の進展は気になるので、時々公式Webサイトをながめつつ、数年後、十数年後を楽しみにしていたい。


この後、眼鏡橋へ行くため路面電車を利用することにした。路面電車に乗ることも観光の一つ。路面電車や前日利用したバスもSuicaが利用でき便利でスムーズ。ただ、個人的には通勤感が湧かないでもないので少し味気なかったり。(かといって小銭の用意もなかったけど・・・)

眼鏡橋の下流に架かる袋橋から眼鏡橋を見る。水位が低いので川縁の歩道散策や飛び石の上で記念撮影する方もいた。


眼鏡橋は、現存最古のアーチ型石橋の一つで、国指定重要文化財。川面に映る影が双円を描きメガネに見えることからこの名前がついたと言われる。


階段で川縁に降り眼鏡橋まで行く。水はキレイで、小魚がけっこういるな~という印象。
1982(昭和57)年の長崎大水害で一部崩壊したが翌年復元された。橋長22m、幅3.65m、歩行者専用の人道橋だ。


歩道沿いの案内板を見ると、ここ中島川には幾つも橋があり石橋も多そうだ。それと山裾に多数のお寺が並ぶ。平地の少ない長崎の街づくりを表しているように思えた。

後日マップの航空写真を見たところ、お寺の背後の山の斜面が全面墓地として造成されていて驚く。そういえば前夜に稲佐山からハート形の灯を見たが、墓地を利用しているとバスガイドさんが言っていたのは、ここかもしれない。

歩道は幅があり植栽やベンチもあって細長い公園のようだった。アジサイは市の花ということもあり、珍しい園芸種が多数。


電停に近い常盤橋から上流を見る。橋は袋橋だが、それよりも川の左右の暗渠!?が目にとまる。


気になるので調べてみた。1982年の長崎大水害で未曾有の被害を被った後、当地では重要文化財「眼鏡橋」を残したまま如何に治水するかが検討された。そして、川を拡幅する方法として、両岸にトンネル水路(バイパス)を設置し暗渠にし、その上を道路や公園として整備したという。
眼鏡橋の上流の橋の先で川の水を水路に逃がし、常盤橋の手前で戻すわけだ。橋を守り治水するとともに公園もでき・・・素晴らしい。

ところで、眼鏡橋・錦帯橋(山口)・日本橋(東京)は、日本三名橋と呼ばれるそうだ。
眼鏡橋や錦帯橋に比べると、日本橋は歴史があっても首都高に覆われ風情がない・・・と皆思うことでしょう。
この日本橋も再生計画が進んでいる。首都高を地下化するわけだが、長崎の出島を倣って昔の面影を取り戻してほしい。

〔オマケであと1回、つづく〕

 

コメント (4)
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