7月2日(土)の行田市プチ観光その3。「さきたま古墳公園」を訪れた。
過去、2015年5月に「忍城」の帰路に立ち寄ったことはあるが、園内を少し歩いた程度。その時に、墳丘に登れることを知ったので、今回は墳丘登山(?)や博物館などに行こうと考えた。
★「埼玉古墳群」は、2020(令和2)年に国の特別史跡に指定された。
事前に調べてみると公園はかなり広く、最初に行こうと考えた将軍山古墳展示館は駐車場から600mはある。レンタサイクルがあるとの情報があったので期待したが、レストハウスで聞くと「今はやっていません」でガッカリする。暑い中、木陰の少ない遊歩道をトボトボ歩く。↓案内図は左斜め下が北側。
◇将軍山古墳展示館
将軍山古墳(前方後円墳・墳丘長90m)は、1894(明治27)年に発掘され、横穴式石室からは馬具や副葬品が多数出土したが、その後に墳丘はかなり崩れてしまった。そこで、遺構や遺物を保存活用するため、墳丘や堀の復原とともに展示館を設置(1997年)したという。
展示館内部の2階では、透明な間仕切り越しに石室の様子が間近で見られ、配置された遺物(復原)からは当時の姿を知ることができる。
室内の壁に積まれた石は「房州石」で千葉県富津市の産出。東京湾から川をさかのぼって運ばれたと考えられている。6世紀後半のこと。建造者は相当な権力があったようだ。
◆稲荷山古墳 5世紀後半・前方後円墳・墳丘長120m
埼玉古墳群のなかでは最も古い古墳で、前方から後円まで墳丘の中心を登って縦断することができる。↓全景の画は丸墓山古墳の頂上から撮ったもの。
階段がある前方部分までの遊歩道と階段を見て、少し弱気になる・・・。
前方部頂上から、後円部頂上を見る。緩やかに下って、階段を上る。
1968(昭和43)年の発掘調査で、後円部の頂上(地下)に埋葬施設が発見された。舟形に掘った竪穴に河原石を貼り付けて並べ棺を置いたもので「礫槨(れきかく)」という。頂上には礫槨の実物大模造画がある(以前は、模型が置いてあったようだ)。
◆丸墓山古墳 6世紀初め・円墳・直径105m
日本最大級の円墳として知られ、埼玉古墳群で最も高い17.2m。(2015年の日記では高さ約19mと記しているが、その時の根拠が分からない。変わったのかも?)
円墳の南北に階段があり、稲荷山古墳の後円部に近い北側から登る。北側の階段は真っ直ぐではなく、何故か歪んでいる。頑張れ!と自ら鼓舞する。
頂上部は平らで、直径約20mくらいありそう。高木はソメイヨシで桜のスポットでもあるそうな。
市街地の北西側を眺めると、カメラのズームで忍城の御三階櫓を確認することができた。左の画では中央だが目視では分からない。(デジカメ 35mm換算で70mmと800mmの望遠)
南側(駐車場側)階段から降りる。↓画の中央上部に駐車場、その先に博物館がある。この後、博物館に向かう。
「埼玉(さきたま)古墳群」は、5世紀後半から7世紀中頃にかけて築かれた、前方後円墳、円墳、方墳など9基の大型古墳や小円墳群で構成される古墳群。最も大きな古墳は「二子山古墳」で前方後円墳・墳丘長約132m。
◇埼玉県立 さきたま史跡の博物館
国指定史跡「埼玉古墳群」及び国宝の「武蔵埼玉稲荷山古墳出土品」をはじめとする貴重な文化財を将来にわたって確実に保存、管理し、その活用を図る施設。
1969(昭和44)年に「さきたま資料館」がオープン。その後、埼玉県の県立博物館再編計画に伴い、2006(平成18)年に「さきたま史跡の博物館」になった。展示施設は本館と前述の将軍山古墳展示館。観覧料200円で両施設利用できる。
国宝展示室には、稲荷山古墳の埋葬施設から出土し、一括で国宝に指定されている金錯銘鉄剣や副葬品をはじめ、将軍山古墳から出土した馬具などが展示されている。
博物館の象徴で超一級資料は、金錯銘鉄剣(きんさくめいてっけん)。長さ約73.5センチ。鉄の剣に彫刻した溝(文字)に金を埋め込んでいる。文字は115文字。保管と展示を可能にするため、鉄の酸化を防ぐ特別なケースの中に飾られている。
なお、展示室内の写真撮影は可能で、フラッシュ撮影や接写およびケース真上からの撮影は禁止されている。
館内では「勾玉作り体験」も実施している。鉄剣と共に出土し、国宝に認定されているヒスイの勾玉と同じサイズの勾玉を作れる。もちろん材質はヒスイではないので250円から(色によって異なる。2022年9月からは50円アップ予定)。時間の関係でパスしたが、またの機会があれば作りたいと思う。
◇埼玉県名発祥の碑
この碑は、博物館の近くにある。「さきたま古墳公園」の所在地は行田市埼玉(さきたま)で、古くは埼玉郡埼玉村。ここが埼玉県名の発祥の地と云われている。
碑文によると、1871(明治4)年11月14日、現在の県域に「埼玉県」と「入間県」を設置するとの太政官布告が出された。これが埼玉県の誕生である。以後、幾度かの変遷を経て、1876(明治9)年8月に現在の埼玉県の区域が定まった。「埼玉」が県の名称とされたのは、当初の県の管轄区域の中で、最も広いのが「埼玉郡」であったことによる。(中略)
ここ行田市埼玉(さきたま)の地は、巨大古墳群の所在地であり、また「前玉神社」の鎮座する場所でもある。おそらく埼玉郡の中心地であったと考えられるので、ここに碑を建て、県名発祥の記念とする。
ちなみに、1971(昭和46)年に埼玉県設置100年目を記念して、11月14日を「県民の日」と定めた。
(この後、あまり時間はないけど武蔵水路を見に行く。)