8月の下旬に出張で初めて福井県小浜市に行ったのだが、10月13日~14日には京都~舞鶴市~小浜市へと、再度行く機会があった。宿泊は小浜市で、前回とは異なる宿に泊まった。で、また朝散歩の様子である。
◎小浜城(別称:雲浜城=うんぴょうじょう)跡
関ケ原合戦の後、慶長6年(1601)、若狭の国主となった京極高次(お初の夫)が着工し、その子忠高が引き継ぐも、寛永11年(1634)、酒井忠勝が城主となり、寛永15年(1638)に三層の天守閣を築いた。
酒井家14代、238年間の居城となったが、明治4年廃藩置県に際して城内に小浜県庁が設置された。しかし間もなく大阪鎮台分営のための改修工事中、明治4年(1871)12月二の丸櫓から出火し、旧城大部分を焼失した。
関ケ原合戦の後、慶長6年(1601)、若狭の国主となった京極高次(お初の夫)が着工し、その子忠高が引き継ぐも、寛永11年(1634)、酒井忠勝が城主となり、寛永15年(1638)に三層の天守閣を築いた。
酒井家14代、238年間の居城となったが、明治4年廃藩置県に際して城内に小浜県庁が設置された。しかし間もなく大阪鎮台分営のための改修工事中、明治4年(1871)12月二の丸櫓から出火し、旧城大部分を焼失した。
駅前から伸びる通りを北に進み、南川を渡ってすぐ左に曲がると、城壁があった。
画の手前も左も住宅が迫っている。城壁の前がゴミ置き場になっているのが、プチ観光に来た者にとってはちょっと寂しい。
画の手前も左も住宅が迫っている。城壁の前がゴミ置き場になっているのが、プチ観光に来た者にとってはちょっと寂しい。
本丸の跡地の一画。大きな木が数本あった。
この石垣の上に天守台があったようだ。上ってみたが何もなく。直下には住宅など。
小浜城は海と河川とを取り合わせた要害の海岸城だった。
しかし、現在は城郭の一部の石垣を残すのみで、掘は埋められ城址の周囲は市街地になっている。本丸跡は神社とその境内として残されている。
雲浜城の由来を調べてみた。京極高次は、かつての若狭守護武田氏の後瀬山城を捨て、居城を海岸沿いの蜘蛛の浜(下竹原)に移し、新たに城下町割りを行った。その蜘蛛の浜は後に雲浜と改称され、城は雲浜城とも呼ばれるようになったという。
◎小浜神社
明治8年(1875)、本丸跡に藩祖である酒井忠勝を祀る小浜神社が建立された。
順路は前後するが、1の画の道路を右に進むと、左に鳥居~参道が現れる。
拝殿は透明な板で囲まれていた。社殿の左奥が2の画になる。
◎雲城水
小浜市一番町船溜まり横にある自噴井戸で、「平成の名水百選」にも選ばれている。
地下30mの砂礫層から湧き出る地下水。山育ちの私には海岸沿いで、飲める水が自噴するということが不思議に思えたが、地下水ということを考えればあるわけだ。
案内板によると、この地は清水湧き出る豊水の地として知られ、各戸の掘り抜き井戸からは夏は冷たく、冬は暖かい恵みの水が絶え間なく流れ出ていたという。
半面、水禍に襲われることも多く、水天宮をお祀りしたとのこと。
◎一番町船溜まり
海に縁のない環境で暮らしているので、こういう光景も新鮮に感じる。
イカ釣り漁船だろうか。
この船には「若狭高等学校」の名前入り。学校の持ち物?地域ならではか。
◎小浜聖ルカ教会
南川の堤防道路沿いに教会があった。裏側なのか表側なのかよく分からないが、堤防道路から入れるようになっている。
この教会は、明治30年に建設された煉瓦造の教会堂を昭和6年に改造し、煉瓦造の1階部に木造の礼拝堂が2階にのる形とした建物になっている。登録有形文化財(建造物)
時間がそれほど取れなかったのでバタバタ散歩だった。とりあえず記録しておく。
かつて若狭湾で獲れた魚を陸路で京都まで運んだ「鯖街道」の起点が小浜だとか。鯖街道は昨年文化庁が日本遺産に認定。そこで小浜市は、いまはサバの養殖に取り組んでいるそうです。
第8面、大きな記事でした。
舞鶴と敦賀のあいだ、ですね。
聖ルカ教会の建物がおもしろいです。
ルカはたしか絵が上手でマリアの肖像を描いたという伝説がありました。