因幡屋ぶろぐ

劇評かわら版「因幡屋通信」主宰
宮本起代子による幸せの観劇記録。
舞台の印象をより的確により豊かに記せますよう・・・

文学座3月アトリエの会『アンドーラ 十二場からなる戯曲』

2024-03-16 | 舞台
*マックス・フリッシュ作 長田紫乃訳 西本由香演出 公式サイトはこちら 信濃町/文学座アトリエ 26日まで
 戦後スイスを代表する作家マックス・フリッシュがドイツ語で書き、教科書にも掲載されている作品とのこと(公演チラシ)。市川明翻訳版(松本工房)を一読、文学座のアトリエにぴったりの作品だと期待が高まった。

 平和で敬虔なキリスト教国のアンドーラだが、となりの「黒い国」ではユダヤ人が虐殺され、戦争の足音がすぐそこまで来ている。アンドリは「黒い国」で教師に救われ、彼とその妻、娘バブリーンと家族同然のように暮らしている。教師はユダヤ人の子を救い出した立派な人物だと称賛されている。アンドリは、家具職人になってバブリーンとの結婚を望む。実の兄妹ではないから問題ないはずだが、父である教師はふたりの結婚を許そうとしない。自分がユダヤ人であるためだと苦悩するアンドリのもとに、「黒い国」からひとりの女性が訪れた。

 上演中のため、これから観劇される方はご注意を。市川訳と今回の上演のための訳は、指物師→家具職人 狂ったバブリーンがアンドリのことを「あの人」→「兄さん」など、いろいろな点が異なるが、本記事は市川訳および記憶によるものです(不覚にも「文学座通信」を買いそびれました…)。

 時系列に沿った物語と、人々が「前景」で証言する場面によって進行する形式で、この証言において「彼(アンドリ)がそうじゃないこと」と、最後にどうなるかが、驚くほど早々に語られる。これを戯曲の綻びと捉えるか否かは意見が分かれるだろう。舞台の人々とともに観客も真実を求めるのではなく、早い段階で匂わされる真実に向かって、それがどのように歪められ、悲劇的な結末となるかを見据えることになるわけで、自分にとって決定的な妨げにならなかったのは、『オイディプス王』のように観る感覚が生まれたためであろう。

 結末を知っているだけに、アンドリの若さゆえの苦悩や暴走、相手の話を聞こうとしない頑なな姿勢(これまで味わってきたことがいかに辛かったからだが)、周囲の人々の無知や偏見がいっそうもどかしく、悲しみが募る。

 俳優陣はとても充実しており、若手から中堅、ベテランまで適材適所の好配役だ。男性のアンドリを演じた小石川桃子は声も動作も作り過ぎず自然、バブリーンの渡邉真砂珠は終幕の狂乱の場面がとてもいい。いつか『ハムレット』のオフィーリアを演じてほしい。また黒い国から訪れる女を演じる吉野実紗は、国内外の戯曲のさまざまな人物の根本を捉えた上で、自分の身体や声で表現して安定感がある。吉野による森本薫『女の一生』の布引けいと同時に、もう少し年齢を重ねたのち、堤しずを観たい。そしてこの作品の恐ろしさを象徴する存在として最後に登場する稲岡良純演じるユダヤ人選別官は、客席にはっきりと聞こえるような台詞は一言もなく、表情も全くと言ってよいほど動かない。といってサイボーグのようではない。それでいて舞台ぜんたいを支配する。登場するまでの長い時間、心身をどう調整し、準備したのか。演じどころ、演技の落としどころの難しい役であり、俳優の演技に対して「体当たりの熱演」、「圧倒的な存在感」といった凡庸な言葉を顔色一つ変えずに抹殺するような造形であった。

 昨年公開された映画『福田村事件』を想起せずにはいられない。関東大震災直後、四国から来た行商団の人々が朝鮮人と疑われる。教師夫婦は「この人たちは朝鮮人ではない」と懸命に訴える。そのとき行商団の親方は「朝鮮人なら殺してもいいのか」と言い返し、それを合図に惨劇が始まるのである。『アンドーラ』の人々はアンドリがユダヤ人であると決めつけて迫害し、両親は「息子はユダヤ人ではない」と必死で訴える。ユダヤ人でないのだから殺してはならない。そうなると、ユダヤ人であれば殺してもよい、そうなっても構わないのだろうか?と考えるのである。

 架空の国アンドーラを舞台に繰り広げられる物語は、遠い国の昔の物語ではないことに慄然とする。私たちはアンドリにも、黒い国の人にも、そして彼を抹殺する人にもなり得るのである。
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