因幡屋ぶろぐ

劇評かわら版「因幡屋通信」主宰
宮本起代子による幸せの観劇記録。
舞台の印象をより的確により豊かに記せますよう・・・

売込隊ビーム『トバスアタマ』

2010-06-05 | 舞台

 横山拓也作・演出 公式サイトはこちら 下北沢「劇」小劇場 6日まで
 舞台は抽象的な作りである。公演チラシと同じオレンジ色が基調になっており、下手には一段高い台と壁に囲まれた空間があり、ちゃぶ台が置かれていることから、家の内部らしい。上手は通路とスロープがあり、屋外を思わせる。開演前からちゃぶ台のそばに男の子が膝を抱えて座っており、この「板付き」の様相に早くも緊張感が伝わってくる。

 やがて母親が登場し、母子の食事がはじまる。この男の子が第一声を聞いて驚いた。男の子を演じているのが女優さんだったのだ。どのあたりからは既に覚えていないが、同じ服装をした男の子がもう1人存在し、しかしその子は直接母親とは口をきかない。音を立てないように気をつけながら当日チラシの配役表を読み直す。「次郎・・・田渕法明」その次に「次郎・・・辻るり子」と書いてある。次郎が2人。しかもそのうちの1人は女の子だ。これはいったいどういう話なのだろう?

 単純に言ってしまうと、これは母親による子どもの虐待である。不実な恋人は妊娠した自分を見捨てて去った。彼への憎しみのあまり、生まれた娘を恋人と同じ次郎と名づけ、男の子として育てていたのである。もう中学生になった。不登校は子どもが学校に行きたがらないことだが、この芝居では母親が子どもを学校に行かせないのである。担任教師、仲のいい友だち、児童相談所の職員やご近所がやってきて、何とか次郎を外へ連れ出そうとする。

 男優が演じる次郎は、女の子の次郎の中にいるもう1人の次郎であり、またこの男優は母親の別れた恋人を二役で演じている。自分を捨てた冷たい恋人へ直接復讐できないかわりに、母親は娘の次郎を家庭に閉じ込める。暴力を振るうわけではなく、食事の支度はじめ、世話もしている。しかし娘の希望や考えをことごとく否定し、自分の支配下に置こうとする。特殊な設定のように思えたが、何が起こってもおかしくない昨今だ。現実離れしたSFとはとうてい思えない。

 大変なのは次郎親子だけではなく、妻と犬のからだと心が入れ違っていたり、同居の叔父さんに性的虐待をされそうになっている次郎の同級生がいたりする。担任の先生やご近所の方々、ダンス教師のキャラクターややりとりのずれ具体がおかしく、あまり重苦しい感じはしないものの、小さな舞台に大きな問題が3つも存在するのである。。テンポのよい会話や俳優の達者な演技に引き込まれながらみていたのだが、それぞれが有機的に絡み合ったり、新たな展開をみせることなく、問題提示のまま終わった印象である。本作には子どもの虐待が2タイプあって、ひとつは母親対娘、もうひとつは叔父対姪だ。前者は相当にねじくれて複雑なものであり、次郎を2人登場させる作りが効果をあげている。まさに演劇ならではの手法であろう。しかし父親として登場する次郎の造形や、彼が登場してからの話の運びがいささか類型的である。後者の虐待については、ほんとうに叔父が姪をどうにかしようとしていたのか、姪の度を越した思い込みなのか、もう少し危ないラインが描かれるのをみたかったと思う。また妻と犬のからだと心が入れ違った件については、子どもの虐待との関連が遂にわからなかった。

 舞台上で問題が解決されないことはさほど重要ではないだろう。しかしこのもどかしさ、もの足りなさはどう言えばいいのだろうか。『エダニク』の筆力をもってすれば、本作はもっと違う地平へ劇的世界を広げられたのではないか。パンフレットはオールカラーの立派なもので、それによれば、本作は1998年初演時に学生劇団の演劇祭で大賞はじめ、多くの賞を得た作品を全面改定したものだそうだ。パンフレットには初演戯曲の冒頭部分が掲載されており、具体的なイメージを描くのがなかなかむずかしい設定であるが、自分はむしろこちらをみてみたくなった。初演から10年以上が経過し、この世で実際に起こるさまざまな事件の「演劇度」「演劇性」は、劇場での演劇を凌駕している。このような状況下で演劇を作ることには困難が伴う。まして高い評価を得た作品を一から書き直した作者の勇気に敬意をはらうとともに、もっと高くもっと深い場所へいざなわれる舞台に出逢いたいと願うのである。

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