因幡屋ぶろぐ

劇評かわら版「因幡屋通信」主宰
宮本起代子による幸せの観劇記録。
舞台の印象をより的確により豊かに記せますよう・・・

俳優座プロデュース№97『月の獣』

2015-10-18 | 舞台

*リチャード・カリノスキー作 浦辺千鶴翻訳 栗山民也演出 公式サイトはこちら 13日で終了
 20世紀のはじめ、オスマン帝国によるアルメニア人大虐殺(Wikipedia)が題材の舞台と知って、10年前に見たアトム・エゴヤン監督(Wikipedia)の映画『アララトの聖母』の記憶が生々しく蘇った。この作品は、大虐殺を映画にしようとするアルメニア出身の映画監督、監督が映画に登場させようとする虐殺で母を亡くした実在の画家、撮影の顧問をつとめる美術史家とその家族、映画に出演する俳優の私生活など、時と場所が交錯する上に、人物の関係も複雑で重層的な構成になっている。劇中劇ならぬ「映画中映画」がいつしか物語そのものに見えてくるところや、あざとくはないものの、やはり虐殺場面の描写が苛烈であることなど、手ごわい映画であった。もう一度見たいかというと、正直躊躇する。

 『月の獣』に登場する若い男女は、大虐殺を逃れ、家族とも離ればなれになってアメリカに渡った。写真家となった青年アラム(19歳くらいの設定か?石橋徹郎)は、アルメニアからの「写真の花嫁」として15歳のセタ(占部房子)を妻に迎える。愛情によってではなく、互いに生き抜く手段としての結婚である。しかもアラムが写真を見て決めた娘とセタは別人であった。
 ふたりは悲惨な体験の記憶に苦しみながら、それでも生きつづけようとする。舞台はふたりが暮らすアパートの一室のみ。過去の出来事は台詞によって語られるので、映画のような迫力やインパクトはない。
 しかし想像を絶する体験をして生き残った人が、過去の記憶にどれほど苛まれるか、乗り越えることが容易ではないことがひとつひとつ丁寧に、それだけに痛ましく描かれる。

 夫は熱心に聖書を読むが、それは彼の魂を自由にするものではなく、ある種の呪縛をもたらしている。彼は早く子どもを持とうとするが、妻はなかなか身ごもらない。それを執拗に責められた妻が食卓から離れ、夫に顔を背けて食事を口に運ぶ。さすがに悪いと思ってあれこれ機嫌を取ろうとする夫を、妻は初めて名前で呼ぶ。それまでは姓をさん付けだった。「今日からアラムって呼ぶ」。ほんの子どもだったセタが腹をくくった瞬間である。
 それから年月が流れ、ふたりにはいまだ子は生まれないが、それなりに生活も落ち着いたようである。セタは街で見かけた浮浪児ヴィンセント(佐藤宏次朗)をうちに呼び入れ、風呂に入れて食事をさせる。夫のクローゼットにあった古い上着を着せてやっているのを見たアラムは激怒する。虐殺された父のたったひとつの形見だというのだ。セタにしてみれば、彼がそれを着ているのを一度も見たことがない。だから少年に着せてやったので、乱暴に扱ったわけでもない。悪気はまったくない。知らなかっただけだ。というより、それほど大事なものだと教えてくれなければわからない。アラムの怒りは収まらない。
 しかし彼とて、セタがはじめてアパートにやってきた日、彼女が人形をずっと抱き締めているのを「もう子どもじゃないんだから」と止めさせようとした。人形は母親からの贈り物で、セタにはこれしか母を思い出すよすががない。 
 どちらの言い分も事情もやむを得ないものであり、正しいまちがっているという単純な分け方はできない。ふたりとも辛い経験をしているにも関わらず、両者の痛みはまったく同じではなく、互いに理解しあうことはこれほどに困難を極める。そのことに慄然とする。

 突如飛び込んでくる浮浪児ヴィンセントが、夫婦の暮らしに少しずつ変化をもたらす。終幕、三人で記念写真に収まる場面が非常に美しく、しかし悲しい。老人となったヴィンセント(金子由之)の回想形式で綴られる物語は、紆余曲折を経てなお、彼らが(とくに夫婦が)新しく生まれ変わり、家族として希望を持って歩きだしたという確信とは別の、微妙で複雑な味わいを残すのである。

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 唐組第56回公演『鯨リチャード』 | トップ | 劇団民藝 『大正の肖像画』 »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

舞台」カテゴリの最新記事