因幡屋ぶろぐ

劇評かわら版「因幡屋通信」主宰
宮本起代子による幸せの観劇記録。
舞台の印象をより的確により豊かに記せますよう・・・

elePHANTMoon#9『ORGAN レシピエント編』

2010-04-08 | 舞台

 ドナー編の翌日観劇。舞台装置の大枠は同じだが、中央におかれたテーブルや椅子は丸みを帯びた優しい形で、ほかにもソファや舞台奥には青々とした緑が植えられ、ここが普通の生活空間であることを感じさせる。今日はこの家に何人もの人が集まってバーベキューパーティがあるらしい。準備のために出入りする人たちは夫婦もの、結婚予定のカップル、独りものらしき男性、そしてこの家の家族である母娘だが、彼らは毎年1回決まった日にここに集まるらしいのだが、これはどういうつながりの人々なのか。ご近所どうしや趣味のサークル仲間でもなく、一見和気あいあいと楽しげだが、みな心から喜んで参加してはおらず、幾人かが「来年からこの集まりには来られない」と告げるや、母娘の態度が豹変する。

 ドナー編にたがわず、詳細を記すことが憚られる舞台である。レシピエント、すなわち臓器提供者側の話であるが、提供者だけのことを描いたものではなく、提供者と受容者が織りなす壮絶バトルとでも言おうか。提供者は、大切な家族のからだの一部を提供した。家族が死んでもその臓器は受領者のからだの中で生きている。受容者にはその気持ちを忘れないでほしい。受容者は、提供者とその遺族のおかげで命が助かったのだからもちろん感謝しているが、いつまでも提供者とのつながりを強要されることが負担になっている。その気持ちを知った提供者の遺族は凶行に及ぶ。

 いくらなんでも現実にここまではありえないだろうと思いながらも、人が抑制している気持ちに歯止めがかからなくなったら、まったく起こらないと断定もできない。提供者の遺族は、「わたしたち(亡くなった家族含め)のおかげで、あなたがたはこうして生きていられるんじゃないの」と、あたかも自分たちの犠牲の上に受容者の人生が成り立っているかのように、提供したことを楯にとって責め立てる。受容者は「生かさせてもらっている」という負い目があって強くは言えないが、提供者の遺族と自分たちの交わりを快くは思っていない。

 どうしようもなく価値観が違うものどうしが歩みよるにはどうすればよいか。提供者と受容者いずれもが幸せになるにはどうしたらよいのか。いつのまにかドナー編と同じことを考えている。

 ドナー編とレシピエント編両方に登場する人物があるかと予想した。たとえばドナー編で1シーンしか登場しなかった映画監督や、両者をつなぐ役割のコーディネーター、被害者の妹などが別の顔をみせるなど。重複する人物はなく、2本の舞台はまったく別の話として進行する。ドナー編にもレシピエント側の人が登場するし、逆もまた然りである。両方みないと成立しない作品ではなく、どちらか1本でも充分に手ごたえが得られる。ただ欲を言えば、やはりドナー編とレシピエント編がもっと交わる物語をみたいと思う。

 ここからは余談だが、昨夜の絶好調から一転、翌日は大変な体調不良に陥った。胃も背中も頭も痛み、食欲はなく手先が冷たい。二日間に起こった心身謎の大波小波。これはやはり「マキタ効果」なのだろうか。

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