因幡屋ぶろぐ

劇評かわら版「因幡屋通信」主宰
宮本起代子による幸せの観劇記録。
舞台の印象をより的確により豊かに記せますよう・・・

シアターコクーン『幽霊』

2014-03-20 | 舞台

*ヘンリック・イプセン作 毛利三彌翻訳 森新太郎演出 公式サイトはこちら シアターコクーン 30日まで
 第21回読売演劇大賞の最優秀演出家賞、同作品賞(『エドワード二世』)を受賞するなど、ますます評価が高まっている森新太郎(1,1',2,3,3',4,5,5',6,7,8,9,10,11,12,13,14,15,16,17,18)がイプセンに挑む。本作は十数年以上前、森が所属する演劇集団円公演をみたことがある。このときは『ゆうれい』のタイトル、演出はタリエ・マーリであった。近いところでは2011年秋に矢野靖人構成・演出による『構成・イプセン-Composition/Ibsen』も。公演パンフレットには<イプセン『幽霊』上演年譜>のページがあり、1912年、森鴎外訳(!)、小山内薫演出の演芸同志会公演からshelf公演まで、しっかり記載されている。

 白と黒を基調とした部屋は、まるで高級マンションの一室のように整えられている。ふつうの家でこんなソファは使わないのじゃないかしらと思うくらい極端に横長のソファやカセットデッキ、人物の服装は現代風である。上手にある大きな観葉植物は何かの象徴なのだろうか。決して設定を現代の日本に置き替えたわけではないが、いつの時代のどこの国とも認識できないつくりになっている。

 出演者も多士済々だ。アルヴィング夫人に元宝塚トップスターの安蘭けい、息子オスヴァルに読者モデルから俳優になり、舞台にもコンスタントに出演している忍成修吾、女中レギーネに『あまちゃん』で全国区の顔になり、今回が初舞台の松岡茉優、その父親に舞台は久々と思われる個性派俳優阿藤快、そして牧師マンデルスには森新太郎の座組みに欠かせない実力派、吉見一豊。キャリアもタイプもみごとなまでにばらばらだ。
 いったいどんな『幽霊』になるのか。

 「喜劇」ということ、「喜劇的」、あるいは「喜劇性」ということについて考えた。
 3月20日付朝日新聞夕刊掲載の森新太郎のインタヴュー「笑いこそ、最も強い批評」には、「(人物が)目先の考えであがく悲劇を、『愚かだなあ』と笑える距離感で作りたい」とある。
 またステージぴあ3+4月号の安蘭けいインタビューには、マンデルス役の吉見一豊が海外で本作をみたことがあり、「お客さまが冒頭からドカンドカンと笑っていた」と話していたとのこと、公演パンフレットに忍成修吾が「最初はシリアスな物語にしか映らなかったが、よく読むと喜劇のようにおもしろい」と述べている。

 たしかに『幽霊』には近親相姦、梅毒遺伝、宗教冒涜、背信行為などタブーに満ちた重苦しい作品というイメージが強い。しかし今回の公演では、困惑するほど客席に笑いが湧き起こった。終演後のロビーでは、「けっこう笑える話なんだね」という感想も聞こえたほどである。

 今回の『幽霊』で、笑いの箇所を重点的に担ったのはマンデルス牧師役の吉見一豊である。物語がすすむほどに彼は舞台をあたふたと駆けまわり、すべってはころび、大声で泣き叫ぶ。その様子はたしかにおもしろい。牧師というより無能な会計士の風情である。しかしその昔アルヴィング夫人が結婚生活の不幸を嘆くあまり、自暴自棄になって身を投げ出そうとしたことがあるのだから、それが納得できるだけの男性的な魅力も持っていてほしい。
 吉見一豊は、ホームグラウンドの演劇集団円の公演はもちろん、外部の作品においても森新太郎演出の舞台に欠かせない俳優だ。ときには激しくぶつかりあうこともあるだろうが、俳優として演出家を全力で支えようとの気迫が感じられる。おもしろ味のある人物、笑えるキャラを演じても達者であるし、奇妙な色気を漂わせる男性としても魅力を放つという、非常に稀有な俳優さんだ。
 マンデルス牧師がずっこけるたびに笑いながら、吉見さんならもっと複雑に一筋縄ではいかないマンデルス牧師を造形できたのではないかと、欲が出てしまうのを禁じ得なかった。

 深刻ではあるが滑稽な一面もあり、人々が深刻になればなるほど、それを離れてみている観客にとっては「喜劇的だ」と思えたときに、物語を表面的でなく、もっと奥深くとらえることができるのではないだろうか。
 マンデルス牧師のドタバタや阿藤快のエングストランとのコントのようなやりとりはとてもおもしろい。しかし「何に対して笑っているのか」と考えたとき、ごく表面的なところで笑ってしまっているのもたしかなのである。

 100年以上上演されつづけ、読まれつづけている作品には、こちらが想像するよりもはるかに強靭で堅固な芯がある。かんたんに変えられない。ひとつ変えると(減らす、増やすどちらでも)、どこかに影響が出て無理が生じたり、不自然になったりする。
 今回の無国籍風の現代的な舞台美術はスタイリッシュで魅力的であった。古めかしいイプセンへのイメージをしばし忘れさせる。
 しかし舞台には、大きなフィヨルドのあるノルウェー西部という雰囲気はほとんどない。
 小さな町しか知らずに育った娘が、「おまえだってパリに行けるよ」と坊ちゃんにささやかれ、「この私がパリに!」と心躍らせる気持ちや、たどたどしくフランス語を勉強する健気な様子、最後にすべてが夢と終わったときの絶望と、居直りのふてぶてしさなども、様相を変えざるを得ないのである。

 気になるところだけを急ぎ記したので否定的な記事になったが、演出家・森新太郎に対する夢と期待はみるたびに大きくなる。今回の『幽霊』も、初日から中日、千秋楽と、訪れる観客ととともに呼吸し、どんどん変化していくのではないだろうか。
 森新太郎はみずから意識して舞台を「変える」勇気と、自分の意志に関わりなく、どうしようもなく変わっていく舞台という生の生きものに対しても、それを「受けとめる」柔軟性を持っている演出家だ。わたしもまた勇気と柔軟性をもって、森新太郎の舞台を見つづけていきたい。

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