晴走雨読

晴耕雨読ではないが、晴れたらランニング、雨が降れば読書、きままな毎日

太宰治

2007-08-26 10:42:51 | Weblog
 釧路幣舞橋です。名物の海霧(がす)に包まれると一段とメランコリックで文学的になります。



 北海道立文学館の「太宰治の青春 津島修治であったころ」に行きました。生まれ故郷青森での太宰に関係する資料が展示されていました。太宰は、かなり早熟で、大学で上京する前から、仲間と同人誌を発行したり、当時の文人とも交流を持っています。

 私自身は、太宰を全く読んでいませんが、それは、繊細で、女々しいとも思われる太宰のテーマやこだわり(こう決め付けることもできないと思いますが)に興味を持ったことがなかったためです。



 でも、太宰は今、旬なのかも知れません。

 北海道新聞5月31日の「論壇時評」で、担当の大澤真幸は、加藤典洋著「太宰と井伏」(講談社)で、太宰を自殺へと追い込んだ要因は何か?と問い、太宰の小説は二つの声の対立によって構成されている、ことを取り上げています。

 その一つは、戦争の死者からの純白な声(死者の遺志を継いで文学に殉じて欲しいという声)、もう一つは、生者の汚れた声(知識人風の理念の純粋さよりもまずは生きることが肝心だという声)、太宰は、前者の方に偏し自殺した、と。

 この洞察から、加藤は憲法9条論を導く。(「戦後から遠く離れて」(論座))それは、「純白な」9条と「汚れた」現実。そこから、理想を生かすため、ねじれを生きるという結論の達する。



 太宰に関わらず、門外漢の私でも、新たな何かを感じれるかも知れないとこの夏は、今までの行動の枠を少しだけ拡げています。

 フットワークも軽く、頭も体も鍛えたい。

 

 
コメント
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