晴走雨読

晴耕雨読ではないが、晴れたらランニング、雨が降れば読書、きままな毎日

がんばろう!夕張マラソンフェスティバル

2007-08-18 13:25:47 | Weblog
 子どもの頃、毎日のように遊んだ海岸です。波打ち際の岩もまだありました。家からは、40mの崖を降りて行けば、10分です。真夏でも、冷たくて、深くて、泳げない海ですから、海水浴客など誰も来ません。波にさらわれたり、岩場から落ちたり、流氷に乗ったり、危険が一杯ですが、遊びものもゴロゴロころがっていました。

 明日は、「がんばろう!夕張マラソンフェスティバル」ハーフマラソンの部に参加します。このイベントは、今日の夕方から始まる日本テレビ系列の「24時間テレビ・愛は地球を救う」とタイアップしているので、もしかしたら、テレビに映るかも知れません。



 今日は、千葉ロッテマリーンズが札幌ドームに来ているので、観戦に行こうと思っていましたが、何とチケットが土日とも完売でした。ハムファンに囲まれて、周りと喜ぶタイミングが全く違うというのも楽しみなのですが、残念。



 情況論ノート第13回


 1989年11月9日、ベルリンの壁が崩壊、その後のドイツは欧州統合と東西ドイツの統一という二重の統合プロセスを歩んだ。

 コール西独首相は、「ドイツ統一と欧州統合は同じメダルの表と裏の関係」と述べ、西独政府が、東西ドイツの統一を構想する際に、ECそして全欧との関係を強く意識した。
 将来、ドイツを欧州の中でどのように位置づけるかという問題(ドイツ問題)が、ドイツ統一のカギであった。(欧州には、ナチスドイツの再来という恐怖が消えていない。)

 ドイツ問題とは、①ドイツの統一で、人口8,000万人の大国ドイツができることへの隣接国の脅威。②ドイツが、西欧から離れて、ドイツの支配する東欧圏を形成する恐れ。これらをいかにして解決するかであった。

 ドイツ統一への対応のポイントは、欧州の安全保障をどのように再構築するかであった。
 具体的には、①ドイツのNATOへの帰属、②ドイツの東部国境(ポーランドとの)を無変更のままで確定、③ドイツ・マルクの統一通貨への融合を行なった。

 ベルリンの壁崩壊後、1990年2月に入っても、東独から西独への移住者の流れは、1日2,000人規模で続いていた。
 移住防止策として、両ドイツの通貨統合により、東独経済の危機を食い止めなければならなかった。その結果、1990年7月1日両ドイツの通貨統合が、10月3日に国家統合も実施された。

 東西ドイツという分断された国家を統一するという国民的な事象を実現するために、国民的なものを無くした上で、欧州統合を深化させる必要があったのは、皮肉である。

 2002年1月1日、ユーロによる欧州通貨統合が12カ国の参加で完成した。

 「ドイツ統一と欧州統合~ドイツの目指した二重の統合」藤澤利治による



 今、この国は、米国に忠実なポチとして追随しているが、アジアの片隅でこれからもずっと生きていくとした場合、欧州の地域統合に、また、格差社会からの脱却するためには、北欧の社会民主主義に、それぞれ学ぶことが多いと考えます。





 
コメント (9)
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