真夜中のドロップアウトカウボーイズ@別館
ピンク映画は観ただけ全部感想を書く、ひたすらに虚空を撃ち続ける無為。
 



 「女教師のめざめ」(昭和56/製作・配給:株式会社にっかつ/監督:藤井克彦/脚本:那須真知子/原作:リチャード・ピーターズ 桂千穂訳 『DENGER TO GET WET』⦅フランス書院刊⦆/プロデューサー:林功/企画:山田耕大/撮影:鈴木耕一/照明:木村誠作/録音:小野寺修/美術:渡辺平八郎/編集:川島章正/音楽:甲斐八郎/助監督:児玉高志/色彩計測:松川健次郎/現像:東洋現像所/製作進行:鶴英次/出演:朝比奈順子・山科ゆり・岸田麻里・野上正義・錆堂連・池田光隆・見城貴信・石神一・田中穂積・田村寛)。出演者中、朝比奈順子にポスターでは括弧新人特記。そして、どうも正しくは 『DANGER TO GET WET』な気がする、原作題は本篇クレジットまゝ。と、いふか。ケッサクなのが原作者とされるリチャード・ピーターズといふのは、訳者を騙つた桂千穂の変名、何だそれ。
 混声のスキャットが起動しての、速攻タイトル・イン、“めざめ”が赤く発色する。花壇の手入れをする「鳳凰学園」美術教師の相川雅子(朝比奈)に、教頭の高橋(野上)が「いやあ綺麗だねえ」。そこは「精が出ますなあ」と来るのが、量産型娯楽映画として然るべき紋切型といふ奴ではないのか、とも脊髄で折り返す疑問はさて措く、どころか。高橋が褒めたのは雅子の指で、挙句「まるで白い蚯蚓だ」だなどとど腐れたレトリックにクラクラ来る。挙句の果ての、その先で。目の下が黒ずんでゐるのを理由に、高橋が雅子の生理中を邪推するに至つては、トバしすぎだろ、昭和。兎も角、あるいは兎に角。クソ教頭は立ち去つたその場に、ローラースケートで突つ込んで来た女生徒の三田かおり(岸田)が雅子に激突。大股開いてスッ転んだ二人のわざとらしいパンチラを、しかもスローモーションで捉へる底の抜けたカットには、腰を抜かすかと思つた。カメラを構へる部長ないし監督格でかおりの彼氏・石井良二(池田)以下、大江(石神)に録音部の鈴木(田中)。ビデオ研究会の面々がそんな雅子とかおりにカメラを向け、首尾よく撮れた狙ひ通りの画に小躍りする。先走るとビデオ研究会が撮影する自主映画のタイトルが、カチンコと記念撮影ボードに台本表紙で、順に「新暴力教室 セックス・ハンター」と「新・暴力教室 セックスハンター」に、「新暴力教室 セックスハンター」。器用に三通り表記が割れてみせるのは、美術部が仕掛けた間違ひ探しの趣でも酌み取ればよいのか。
 配役残り錆堂連は、雅子の同僚兼恋人・伊藤勝也、担当科目は多分英語。見城貴信も、ビデ研部員の島内、大江共々俳優部。山科ゆりは客室添乗員の女手ひとつで一人息子を育てる、良二の義母・貴子、実母と父親の去就は一切不明。麻布まで車で送つた―実際送つたか否かは甚だ怪しい―伊藤を、その後家庭訪問といふか要は寝室招待に連れ込んだ上で喰らふのが、力技の二番手初戦。しかもその様子に、隣室から良二がビデオを回す周到な因果。一方、伊藤を高橋の姦計にカッ浚はれ、雅子が日没後まで数時間は延々ぼんやりしてゐる公園。何しに出て来たのか皆目雲を掴む田村寛は、無駄か藪蛇に雅子を怯えさせる不審者。賑やかしにしても心許ない、田村寛が捌けてからが本番。犬をけしかけ女子手洗に追ひ詰めた雅子を、高橋が強姦する。以降正しく全篇に亘つて登場する、“先生”と名づけられた御犬様はノンクレジット、犬種とか当サイトには訊かないで。その他生徒と教職員の校内と、若干でなくオーバーフロー気味の公園に、相当数の人員が投入。公園にて、トランペット吹いてる謎のグラサンとか全体誰なのよ。時々、正体不明の人物が何故かピンで飛び込んで来る、顕示的な不条理がロマンポルノのワン・ノブ・特色だといふ認識に、漸く辿り着けたやうな気がする。
 全九作をぼちぼち見進めて行く五本目、「女教師」シリーズ第五作。と、いふよりも。nfajにはより新しいデータしか見当たらない、jmdb準拠でのシリーズ第七作「女教師狩り」(昭和57/監督:鈴木潤一=すずきじゅんいち/脚本:斎藤博/主演:風祭ゆき)から更に一年半弱と大幅に遡る、石神一の現状確認し得る最も古いキャリアといふ面を、寧ろ重視したい藤井克彦昭和56年第二作。宝塚上がりの朝比奈順子にとつてロマポ初陣で、当時的には謳ひ処ともなつた、三番手は松竹歌劇団出身。二ヶ月後の朝比奈順子第二戦、「バックが大好き!」(監督:小原宏裕/脚本:伴一彦)に於いても岸田麻里は矢張り三番手で共演してゐる、ついでといつては何だが錆堂連も。
 身持ちの固さは性に対する苦手意識に起因する、女教師が鬼畜教頭の毒牙にかゝる。女教師の恋人は教へ子の保護者に寝取られつつ、生徒達の映画作りも進む。“先生”を巧みに操る高橋から度々凌辱され続けてゐるうちに、雅子が何時しか犬の鳴き声に欲情する形で“めざめ”て行く。浜野佐知が買取系すら撮つてゐない以上、箍のトッ外れたへべれけなミソジニーに一々拘泥してゐてはカテゴリーごと否定せざるを得なくなるゆゑ、こゝは強ひて通り過ぎる。未だ幼さも残す岸田麻里は80年代を超え得る素材でなく、改めて後述する山科ゆりは、半ば飼ひ殺しにされかける反面。角ならぬ窓オナの斬新な機軸で最初に火を噴く、朝比奈順子の適度に熟れた肢体は極上の眼福。美人女教師が、下卑た教頭と生徒達にも犯され倒す。品性なんて、捨ててしまへ。下劣な琴線を激弾きしてゐさへすれば、大人しく戦へたものを。「新セクハン」の中途半端にメタ的な扱ひが、甚だ未整理で展開の円滑な進行を徒に阻む、ばかりか。二番手にして一幕・アンド・アウェイかと一旦は諦めさせかけた、暫し退場したまゝとなつてゐた山科ゆりの二回戦で主演女優をドン底に叩き落す。残酷かつ、なかなか秀逸な構成を採用した末終に雅子が完全に壊れる、バッドエンド裸映画の強度がそれなり以上であつただけに。日活から怒られたのか自分等で気が引けたのかは知らないが、何れにせよ木に竹を接ぐはおろか茶すら濁し損ねる、ドッチラケたオーラスには首を傾げるか匙を投げるほかない。バッカモーン、大好きな大好きな順子ちやんが、不幸にならない方が望ましいに決まつてるだろ!クラスタ諸氏がさうお怒りになるのなら、反論は敢へて差し控へる。素直に女の裸で攻めてゐれば攻めきつてゐればいゝものを、映画的か横好きな色気に水を差されたきらひも否めない一作。朝比奈順子の一点突破で、それで十分それが完成形。さう満たされ得るのが、一番幸福ではあるのだらうけれど。
 備忘録< オラースは自主映画の完成記念撮影を、“先生”のリードを引いた教頭が邪魔をすゆ


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