弁理士の日々

特許事務所で働く弁理士が、日常を語ります。

三菱自にはシャリオがあった

2016-05-14 12:07:04 | 歴史・社会
三菱自動車が大変なことになっています。もうこの会社は潰れるのではないか、と予感させました。
ここ数日、日産が救いの手を差し伸べ、最悪の事態は脱したようです。ただし、今後、三菱自動車が自分の力で昔の勢いを取り戻せるかどうかは全くの未知数です。

わが家の愛車遍歴、その中でも三菱シャリオの位置づけについては、2年前に記事にしました。その記事を再録しつつ、三菱自動車について書いておこうと思います。

我が家の愛車遍歴をたどると以下のようになります。全部新車購入です。
1972-1981 トヨペット・コロナ
1981-1984 ホンダ・アコード
1984-1993 三菱・シャリオ
1993-2002 三菱・シャリオ

上記からわかるように、1972~2002年の30年間のうちで、三菱自動車の車に乗っていた期間が18年にも及びます。

1981年にそれまで乗っていたコロナの調子が悪くなり、急遽次の車選びを開始しました。当時すでに子どもが2人いたこともあり、今のミニバンのような車を探したのですがどうしても存在しません。ライトバンまで調べましたが、ライトバンは商用車であり、リアサスがリーフ・リジッドとあっては選ぶ気になりません。仕方なくホンダ・アコードにしました。
その後、1984年頃(子どもは3人に増えている)に三菱・シャリオの存在に気づきました。まさに今でいうミニバンであり、3列7人乗りです(下の写真)。見たとたんに気に入り、まだ3年程度であったアコードを下取りに出して入手しました。
 Rudolf Stricker
三菱・シャリオ(初代)

当時、同じクラスでは日産のプレーリー(下写真)とこのシャリオの2種類しかありませんでした。当時私は、クルマ選びの指針として、徳大寺有恒氏の「間違いだらけのクルマ選び」をバイブル代わりにしていました。その84年版で、シャリオについては、操縦性、乗り心地、居住空間、結論のすべてにわたって高評価でした。一方のプレーリーについては、「走る、曲がる、止まるに関しては圧倒的にシャリオが上だ」との評価でした。
 Acty259
日産・プレーリー(初代)

3人の子どもたちが小さいうちは、このシャリオは万能でした。中列をフラットにすれば、子どもたち3人が足を延ばして並んで眠ることができます。長時間ドライブでも子どものけんかが起きにくいという利点もあります。

1台目のシャリオに乗っていた頃、世の中ではシャリオの存在は全く無名でした。三菱自動車が宣伝しないからです。自宅の駐車場に駐まっているわが家のシャリオを見て、近所の知り合いが「こんないい車があるのか!」と驚き、同じシャリオを購入する人、あるいは日産のプレーリーを購入する人などが相次ぎました。現在のミニバンの隆盛を見ても解るように、3列7人乗りのミニバンには大きな需要があるのです。当時、自動車業界の大部分はそれに気づいていません。三菱自動車も、開発陣の中にはミニバンの需要に気づいてシャリオを完成させるグループがありましたが、三菱自動車の営業及び会社全体はまだ需要に気づいていなかったのです。

上の初代シャリオの写真、左ハンドルです。この写真は欧州仕様のもののようです。
わが家が初代シャリオの頃、街で走っているシャリオを見かけることは多くありません。普及していませんでしたから。一方、1987年に東西ドイツを訪問する機会があったのですが、西ドイツの街を歩いているとシャリオをけっこう見かけるのです。日本と西ドイツで、シャリオを見かける頻度は同程度のようでした。何を意味しているかというと、当時の日本人はシャリオの価値に気づいていませんでしたが、西ドイツの人はすでに気づいていたのです。また、日本のシャリオは中列と後列のシートベルトは2点式でしたが、ドイツで見かけるシャリオは中列と後列も3点式であり、日本よりも進んでいました。

その後、1台目のシャリオも9年ほど乗って調子が悪くなり、次のクルマ選びになりました。初代シャリオは、それまではちょうど良い大きさだったのですが、子どもたちが大きくなり、特に後列の狭さが気になり出しました。大人には後列はとても窮屈です。そこで、クルマの外形寸法が大きくなってもいいから、大人が窮屈でない座席を有する7人乗りを探しました。しかし、当時はありませんでした。
仕方なく、もう1回シャリオを購入しました(下写真)。
 TTTNIS
三菱・シャリオ(二代目)

その1年ほど後です。ホンダ・オデッセイ(下写真)が発売になったのは。
  IFCAR
ホンダ・オデッセイ(初代)

初代オデッセイは全長が4750mm、二代目シャリオの全長が4,515-4,555mmですから、オデッセイの方が長く、従って室内居住空間もゆったりしていたはずです。当時の我が家の家族構成と照らすと、シャリオよりもオデッセイの大きさの方がフィットしていたでしょう。
その後、ホンダの的確なPRもあり、オデッセイは爆発的に売れていたようです。

当時のシャリオとオデッセイを比較すると、共に「7人乗り3列シートのミニバン」であってコンセプトは同じです。私から見ると、「シャリオは小さな子どものいる家向き、オデッセイはちょっと大きな子どものいる家向き」といえるでしょう。しかし、世の中は、「オデッセイによってはじめてミニバンの世界が開けた」といったイメージ一色であり、シャリオは忘れ去られました。

我が家の子どもたちが大きくなり、「シャリオよりも大きなミニバンが欲しい」という要請が出てきました。三菱の営業がしっかりウォッチしていれば、ユーザーのそのような要請に気づくはずで、ホンダよりも早く「一回り大きいシャリオ=オデッセイ的なもの」を世に出せていたはずです。

週刊プレイボーイ No.21 5/23 号 [雑誌]
「燃費不正で崖っぷち。復活のカギは過去の偉業にあり!
もし再建できたら・・・・ 三菱のこんなクルマがまた見たい!!」
という記事が掲載されています。

三菱自動車のプラス面での歴史について、
三菱が世界ではじめて量産化した技術としては、96年のギャランに初搭載された直噴ガソリンエンジン「GDI」、96年のランサーエボリューションⅣの左右トルク配分機構「AYC」を挙げ、「ともに現在は世界中のメーカーに広まった定番ハイテク」としています。
モータースポーツ活動では、「ランエボ」の世界ラリー選手権での活躍、1985年にパジェロで初の総合優勝をしてから、2009年にワークス撤退するまで、計12回の総合優勝を果たしたダカールラリーが紹介されています。

そして、三菱が歴史的に新ジャンルへの先見の明を果たした例として、まずは「初代パジェロ」を挙げ、その次に「シャリオ」が登場します。
『日本のミニバンブームは94年の初代本田・オデッセイが起爆剤となったが、それより10年以上もさかのぼる83年に発売された「初代シャリオ」こそが、82年発売の日産の初代プレーリーとともに「元祖国産ミニバン」といっていい。』

そして今回露見した三菱自動車の負の側面について
今回残念なのは、「①燃費を実際よりよく見せるため一部の車種でデータ捏造したこと」と、「②試験方法として日本で法定の『惰行法』ではなくアメリカで用いられている『高速惰行法』を25年前から用いていたこと。」が同時に発覚したことです。
②については、違法ではありますが、直ちに燃費をごまかしたかどうかは不明です。しかし、②が25年前から行われていた、ということから、燃費を良く見せるための捏造が25年前から行われていたように誤解されているとしたら残念なことです。

今回のデータ捏造に関しては、まだわからないことだらけです。
捏造したデータは、国交省に提出し、国交省が試験して燃費を算出するための元データになるべき大事なデータです。そのようなデータであれば、通常の製造会社においては、製造部門や開発部門とは独立した品質保証部門が取り扱うべきはずのものです。
品質保証部門は、「正しい値を出すこと」で評価される部門です。燃費が社の目標に達したか否かに関しては何ら責任を負いません。もし品質保証部門が開発本部長の下にぶら下がっていたら、開発本部長の意向を忖度して、データを捏造する可能性が生じることは誰にも明らかであり、だからこそ、品質保証部門を開発部門から切り離すのが常識なのです。
どうも三菱自動車は、このような常識に基づく組織になっていなかった模様です。
組織設計を誤った点については明らかに経営の責任です。たとえデータ捏造について全く知らされていなかったとしても。経営がデータ捏造に気づいていた、あるいは経営が積極的にデータ捏造に追い込んだのだとしたらもちろん責任はもっと重大です。

今回、日産が経営に参画することを契機として、経営は総入れ替えし、組織は不正を生みにくい組織に改め、出直してほしいものです。そして、30年以上前に開発された初代シャリオのように、時代を画する新しいクルマを生み出してくれるよう、切に願います。
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